第七話 輝く場所まで
激しい雨は断続的に降り続いた。
睡蓮は衰弱していく一方だ。
なんとか栄養を摂らせなければ、このままだと……
桔梗はそんな不安を募らせるばかりだった。
紫の瞳は静かに眠る睡蓮を見つめ続け、駄目だと分かっていても少女の家に向かうことにした。
ぬかるみを蹴る足は泥を跳ね上げ、駆ける速度で大粒の雨水が横殴りになり瞼もまともに開けていられない。
こうしている間にも睡蓮に何かあったら……
そう思うと自ずと速度は増す。
村を一望できる小高い丘に着くと、尻尾の先まで身体を激しく振り雨水を飛ばすが、少女の家の前で吠え立てる頃には毛が張り付き、小さい身体はさらに小さく見えた。
老婆は慌てて出てきた。
「どうしたんですか――こんなに濡れて」
老婆の腰から少女も顔をだしてきて驚いた顔をした。
「どうしたの? 一匹?」
桔梗は二人の足下を抜けて家の中に駆け込むと、パンの入っていた戸棚に向けて懇願するように何度も吠えた。
老婆は桔梗に駆け寄った。
「おかげさまでみんな飢えずに済みました。この雨のおかげで作物も育ち行商とも物々交換できるようになりました」
そう言うと戸棚から二枚の薄焼きパンと、別の戸棚からは塩漬けのウサギの干し肉を取り出した。
「持てますか」
老婆はしゃがんで桔梗に突き出したが、桔梗がどんなに大きく口を開けても咥えきれなかった。
「お婆ちゃんこれ」
少女が小さめの麻袋を差し出すと、老婆はその中に入るだけの薄焼きパンとウサギの干し肉、タンドリーで焼いた鶏肉を詰めた。
「ちょっと待ってくださいね」
麻袋の紐を短く縛って桔梗の首にかける。
――ありがとう。こんな時に言うんだベ。人間の言葉が喋れたらな――
桔梗は、コン、と一鳴きして少女の家を飛びだした。
紐を短く縛ってくれているおかげで、袋はギリギリ地面には付かなかったものの、雨に濡れるのは仕方がなかった。
睡蓮が待っていると思えば麻袋の重さは気にならない。
むしろ行きよりも足取りは軽かった。
洞に着くと足音で睡蓮が目を覚ましていた。
「どこ行ってただ? びしょ濡れでねぇか」
「スイレン、人間の食べもん持ってきただ」
「駄目でねえか。人間も食べるもんないべさ」
「でもくれたべ。ようさんくれたべ。いつものとこに、いっぺえあったべ」
桔梗は麻袋を地面に置くと、後ずさりして首から紐を抜き、中からパンを咥えて取り出した。
「ほら、食べてけろ」
水連の顔のそばにパンを置いた。
睡蓮は匂いを嗅いで少し噛みかけてやめた。
「美味しそうだけど、食欲ないべ」
「食って元気付けねと駄目だ」小さく喰い千切って睡蓮の口に押し当てた。
睡蓮はそれを口にしてゆっくり噛んだ。
「やっぱり美味しいベ。濡れてるけど美味しいベ」
「他にもあるベ」
桔梗は鳥のタンドリーを小さく喰い千切って、睡蓮に食べさせた。
「ん?」睡蓮のテンションがにわかに上がる「なんの肉だべ美味しいべさ」
桔梗もタンドリーを食べてみたところ、俄然テンションが上がった。
「なんの肉だべ。血が旨いベか、」
少し大きめにちぎったタンドリーを桔梗は睡蓮に食べさせた。睡蓮は美味しそうにそれを食べる。
「まだ他にもあるべ」
麻袋を覗き込みながら、桔梗はウサギを塩漬けにして干したものを喰い千切り、睡蓮に与えた。
睡蓮はそれを一噛みして、口の先から出した。
「固いべ、噛んでけろ」睡蓮はスジ肉を連想したのだ。
桔梗は睡蓮のわがままに身じろぎしたが、死んでもらっては困るので付き合うことにした。
噛んでいるとじきに柔らかくなり、旨みが溢れてきて堪らない。
桔梗は噛み続けそのまま飲み込んでしまった。
「旨い」
――違う――
慌てて二口目を噛み、適当なところで睡蓮に食べさせた。
「美味しいベ、これもさっきの肉とは違う肉だべ」
「きっと血だべ。血の味が違うんだベ」
こんな肉食べたことがない、と言いたいがまともに肉すら食べたことのない二匹は、その言葉を飲み込んだ。
食べているうちに睡蓮も食欲がでて、それなりの量を口にすることができた。
「一杯あるベ、しばらくは大丈夫だ。それに人間の食べ物だから、きっと栄養も豊富だでじき元気になれるべ」
睡蓮は自分に言い聞かせるように睡蓮を気に掛けた。
睡蓮は、ありがとう、と桔梗に感謝の言葉を述べて、眠りについた。
毎日老婆のくれた食べ物を口にして、睡蓮はみるみる元気になっていった。
晴れた日には洞の外を散歩するほどにまでなった。
「人間の食べ物はあとどれくらいの残ってるベ」
睡蓮が横を着いて歩く桔梗に訊いた。桔梗は洞に駆け込むと麻袋に頭を突っ込み、くぐもった声で答えた。
「今日で終わりそうだベ」
「今夜は久しぶりに川で食べるベ」
枯れた巨木の針は月の時計盤のちょうど六時を指していた。
やはり雄大な景色はそこにあり、二匹に何かがあったとしても、その姿を変えることはなかっただろう。
麻袋の中身を分けた二匹は、久しぶりの景色に心を弾ませながら尻尾を振って、すっかり古くなってしまった食事を楽しんだ。
「明日は巣に帰るベか」
桔梗の問いに睡蓮は頷いた。
「んだ、ずっと帰ってねえだ」
「人間の村さ何度か行ったたけど、畑にも出てもう大丈夫そうだったべさ」
「大きな獲物捕って帰るベ」
「みんなびっくりするべさ」
「おかさんにも沢山食べさせてあげられるべさ」
「んだ」
月明かりに照らされ、二匹はにこやかに食事を進めた。
次の日、獲物はなかなか見つからず、老いたウサギを二匹ようやく狩り終えた頃には、すっかり日は沈んでいた。
「したっけ、また明日」
二匹は別れ大きなウサギを引きずりながら巣へと帰っていった。
本当に久しぶりであった。
――おか、元気にしてるべか――
桔梗が巣穴に入ると誰もいないどころか、全く気配がなかった。
母の匂いがわずかに残る。
何かあったか? そんな疑問など頭をよぎらない。巣立ちには早すぎる。
捨てられた――瞬時にそう理解した。
――捨てられただ。見捨てられただ。おらが他のキツネと違うから、物の怪みたいで気持ち悪いから、置いていかれただ。どうしていたら捨てられなかったベ。どんなことをしていたら、置いて行かれなかったベ――
ウサギの耳が桔梗の口を離れ地面に落ちる。
涙が数粒こぼれ落ちるがなんとか耐えた。
泣けば永遠に泣き止むことができない、そう思った。
駆け出して、母の匂いを探すがまるで見つからなかった。
ウサギを引きずりながら、弱々しい足取りで川辺へと向かう。
丸く大きな月が輝くとても美しい夜だった。
母の匂いに包まれながら、睡蓮は誰もいない巣の中で打ちひしがれていた。
巣の周りを歩いて母や兄姉を探すが、気配も匂いもなかった。
――わだすが小っこいから、役にたたねえから……捨てられただ。見放されたべさ。もっとおかさんの背中舐めたあげるんだった。柔らかい肉なんか食べたいって、思うんでなかった。もっといい子にしていれば捨てられなかったベか――
歯を食いしばりあふれ出しそうな涙に堪えた。
ウサギの死骸を川辺に投げ置き、桔梗は水面に映る自分を見つめていた。
「どうしたべ」
少し鼻声の桔梗は漂う睡蓮の匂いとウサギを引きずる音に声を掛けた。
その場にウサギを置いた睡蓮は、桔梗から少し離れた場所に座ると月明かりに照らされた、自分の姿を覗き見た。
「おめさんこそ、どうしたべ」
「月を見に来たベ」
「ウサギを持ってか」
「みんな寝てたから明日でいいべ」
「置いてくればよかったベ」
「……おめこそなんで持ってきた」
「……」
喉の渇きなどないのに、睡蓮は川の水を飲んだ。
「おめさん、明日はどうするベ」
桔梗の顔を見られない睡蓮は川面の自分に話しかけた。
桔梗はしばらく黙って、見事な満月を見上げた。
「ちょっと早いけど、おら巣立つベ」
驚いた睡蓮は桔梗までの距離を詰めた。
「巣立ってどうするベ」
「あそこさ行くべ」前脚で月を指す「あの光る丸い場所まで行くベさ」
睡蓮も満月を見上げた。桃色の瞳に丸い光りが映る。
「……わだすも、連れてってけろ」
桔梗は喜びとも不安ともつかぬ表情を浮かべた。
「巣は、他のみんなはどうするベ」
「わだすも巣立つベ」睡蓮はうつむいて続けた「だから……だから、見捨てねえでけろ」
睡蓮の瞳は堰を切った。
桔梗は歩みでて力強く答えた。
「見捨てねえ! 何があっても見捨てねえ。手足がもげたとしても、なにがあっても見捨てねえ! だから……だから、おらのことも見捨てねえでけろ!」
溢れ出す涙を止めようのない桔梗に、睡蓮は歩みよった。
「見捨てたりするもんか! 命に替えても見捨てたりなんてしないべさ!」
二匹は駆け寄り前脚で抱き合うと、頬と頬を合わせて互いの温もりを確かめ合った。閉じた瞼からとめどなく涙が溢れ、足下に水溜まりができるのではないかと思えるほど泣き続けた。
桔梗と睡蓮は互いの身に何が起きたかを気付き合った。
満月の中に二匹の影が浮かぶ。
二匹が森の中を駆け回り懸命に獲物を狩り続けたおかげで、村人は小さな子供にいたるまで誰一人飢えて死ぬことはなかった。
桔梗と睡蓮の母は駆け回り獲物を探したが、見つけることができずにいた。
二匹が手頃な大きさの獲物を狩り尽くしたからだ。
帰ってこない桔梗、そして睡蓮を気にかけながらも飢える他の子ギツネたちを放っておけず、後ろ髪を引かれる思いで泣く泣く巣を離れることにしたのだ。
道中、頻繁に匂いを付けて移動したのだが、連日の雨で消えてしまったようだ。
桔梗と睡蓮は肩を寄せ合い川面に映る自分を見つめていた。
涙は止むことを知らない。
「たまにでいいべ、はらわた食わしてけろ」
桔梗は鼻水を垂らしていた。
「毎日でもいいベ。その代わりたまに柔らかい肉たべさしてけろ」
桔梗の鼻水は糸を引いて川面に消えた。
「毎日食べていいべ」
「いつ旅立つべ」
「明日でどうだ」
「んだ。人間には会うべか」
「寂しくなるから会わない方がいいべ」
「んだな」
その夜、泣き疲れた二匹はいつもよりさらに近くに寄り添い、肩を抱き合って寝た。
早朝、桔梗と睡蓮は小高い丘に立ちカンナン村の景色を目に焼き付けると、背筋を伸ばして村中に響き渡る声で、力の限り鳴いた。
「したっけー」
二匹はウサギを咥え引きずりながら、村を後にした。




