第八話 御狐様
桔梗と睡蓮はウサギを引きずりながら道を歩いていた。
そこがかろうじて道と分かるのは草が刈ってあり、人の往来があり馬車も通るらしく轍《》ができているからだ。
桔梗は水溜まりを見つけそこへ急いだ。
二匹は水溜まりの水を飲み終えると、桔梗が睡蓮を見た。
「スイ、ウサギはここで食べるベ」
睡蓮は辺りを見回した。
「キキョ、ここは景色もよくねえし水もあまり美味しくないべ」耳を澄ます「川の音が聞こえねえか」
桔梗も耳を澄ませた。
「んだな、聞こえるベ。遠そうだけど川さ行ってみるベか」
二匹は再びウサギを引きずり始めた。
道を外れ草むらの中を歩いていると、また道にでた。
そこを道なりに進んで行くと川が見えた。
ウサギを置いて川縁から覗き込むと、カンナン村の森を流れていた川よりも深くその流れも速かった。
桔梗と睡蓮は慎重に顔を近づけて、水面に舌を差し込んだ。
舌先は流され水面で踊り子のように舞い、水を飲むどころではない。
しばらく挑戦して舌先に付いた、わずかな水を口にすると桔梗は身体を起こした。
「水溜まり探すベか、スイ」
睡蓮も上体を起こした。
「キキョ。川は失敗だべ」
背後から悲鳴が聞こえたのは、二匹が顔を見合わせて苦笑いをしている時だった。
見ると若い女性が川の中央を走っており、その前を幼い少年が流されていた。
幼い少年が目に前に流れてくる前に、桔梗と睡蓮が川へ飛び込んだのは当然のことであった。
水流に逆らうように身体を斜めにして、水中では前脚後ろ脚を激しく動かして水を掻き、少年へと向かった。
桔梗と睡蓮が進み少年は流れてくる。
二匹は出会い頭に少年の襟首に噛みつき、今度は母親を目指して水を掻いた。
母親は川底に足を取られながら走ってくると、二匹から少年を受け取り抱き上げて川辺に寝かせた。
母親は混乱している。
桔梗と睡蓮も川辺に上がり少年に駆け寄ると、弱りかけた心音を確かめ鼻に耳を当てる。
止まっている呼吸に桔梗は慌てて二本の前脚で少年の胸に体重をかけた。
桔梗が胸を押すのは、以前、池での狩りに失敗して溺れて意識をなくした際、目を覚ますと瞳を潤ませた母が、右前脚で小さな胸を押していたからだ。
桔梗の動きを見た睡蓮も、反対側から一定のリズムで胸に体重をかけた。
体重が軽すぎる。
川辺を見渡し大きな石を見付けると、それを咥えて再び胸を押した。
睡蓮もそれに習う。
ほどなくして幼い少年は水を吐き出し、咳き込みながらゆっくりと起き上がり、キョロキョロと辺りを見て母親を探した。
声を上げて抱きつく母親に、少年は泣きじゃくってしがみ付いた。
桔梗と睡蓮の心が鉛色に染まったのは、何か深い絆で結ばれた二人を見て心に母の影が差したからだ。
陰鬱な気持ちで二人を眺めていると、少年が落ち着いたところで母親が声を掛けてきた。
「小さなキツネさんどうもありがとう。付いてきてなにかご馳走させて」
幼い少年も頭を下げた。
「キツネさんありがとう家に来て。一緒に何か食べよう」
桔梗と睡蓮は言葉の意味は分からないが、二人が手招きをするのでとりあえず付いて行くことにした。
「キキョ、ウサギどうするベ」
対岸に残された二匹のウサギを振り返りながら、睡蓮が訊いた。
「分からねえけど、付いてこいって言ってるべさ?」
桔梗も対岸のウサギを名残惜しそうに見つめた。
少しの間歩くと村があった。
中央に羊が十数頭居て柵で囲ってあり、その周りを取り囲むように家々が建っていた。
家は二、三十件ほどで、カンナン村より大きく少し豊かそうだった。
二人はその家の一軒に入り桔梗と睡蓮を迎え入れた。
まず聞こえたのは不機嫌そうな男の声だった。
酒を樽から杓子で掬い椀に注いでそれを飲んでいた。
酒は桔梗と睡蓮の初めて嗅ぐ匂いだった。
「何だその薄汚いリスは」
男、おそらくは少年の父親らしき人間の声は、酒焼けしていた。
「追い出しちまえ」
「息子の命の恩人ですよ。息子が足を滑らせて川に落ちて流されていたところを、二匹で助けてくれたんですよ」
「リスに人助けなんてできるか」
「この子たちはリスじゃない、キツネだよ」
幼い少年は命の恩人を弁護した。
「キツネ? じゃあヒツジを襲ってる犯人はそいつらだな!」
「そんな可愛らしいキツネが悪さなんてするわけありませんよ」
母親は料理を運んできた。ヒツジ肉を胡椒とシシ唐、ヒツジの乳で作ったバターで煮込んだものだ。
「ヒツジを襲う悪党に見た目なんて関係あるものか」
桔梗と睡蓮を父親は恨みがましい目つきで睨む。
「こんなに小さいのに襲えるわけありません」
母親は一つを息子用にテーブルに置き、二つを桔梗と睡蓮の前に並べて置いた。
「もったいない獣にそんな料理だすんじゃない」
父親は吐き捨てた。
桔梗と睡蓮は何を言っているか分からないながら、会話の中心が自分たちであることくらいは理解した。
息子は椀と匙を持って子ギツネの前に座った。
「さあ食べて、美味しいよ」
幼い少年が食べるのを見て、桔梗と睡蓮は鼻を椀に寄せ匂いを嗅いだ後、慎重に料理に口を付けた。
いつもお腹を空かしていたせいで食に貪欲な二匹だが、汁に浸かっている温かい料理を目にするのは初めてである。
これが食べ物かどうかも分かっていなかった。
まずは汁を舐める。
「……旨いベ」
二匹の表情に息子は喜んだ。
桔梗と睡蓮の舌が俄然張り切る。
次に肉を口に含んだ。睡蓮がとろけた。
「柔らかいべ、柔らかすぎるベ、何の肉だべさ。誰か噛んでくれたべか」
「そんなに美味しい?」
息子は匙ですくった自分の肉も差しだした。睡蓮は迷わず口に入れた。
夢中で食べていた桔梗の椀は既に空になっていた。
「お母さんもう一杯あげていい?」
「駄目だ!」
すかさず父親が口を挟んだ。
「いいじゃありませんか、命の恩人ですよ」
「うちにそんな余裕はない!」
「酒を買う余裕はあるのに……キツネさん我慢してね」
聞こえない程度の声で母親は呆れた。
食べ終わると少年は村中を案内してくれた。
桔梗と睡蓮は初めて見るヒツジに肝を抜かれた。
「この獣は空のふわふわに住んでるベ」
雲を見上げてそう言う桔梗に睡蓮は冷たい視線を向けた。
「嘘は吐かない約束だべ」
「でもそうとしか思えないベさ」
桔梗は心配そうにした。
「落ちてこねえべか、柵してあるべか、人間はどうやって捕まえてきただ」
桔梗はヒツジが雲に住む獣と信じて、睡蓮に決して謝ろうとしなかった。
広い村には家々の間に様々な作物を植えた大きな畑があり、村人たちはそこで働いていた。
そんな農作業をしている村人の一人が、桔梗と睡蓮を見て駆け寄ってきた。
「坊主その子ギツネどうしたんだ」
「僕が溺れているところを助けてくれたんだ」
「やっぱりか。おーい、御狐様だ」
両手を口の横にあてがい、大声で叫んだ
「やっぱりって? 御狐様って?」
幼い少年は村人に訊いた。
「小さくて額に花柄のあるまつげの長い目の綺麗な子ギツネが、カンナン村の飢饉を救ったんだと。行商がそう言ってたんだ」
通信手段がない時代、行商が商品と共に様々な情報を持ってきた。面白い話しや変わった話しなどは意外と早く広まるものだ。
「へーお前たちは御狐様だったんだ」
少年が瞳を輝かせた。
気が付けば周りには人だかりができていた。
村人の一人が桔梗を抱きかかえる。すると睡蓮も別の村人に抱きかかえられた。
取っ替え引っ替え抱きかかえられ、これが御狐様か、とみんな感心した。
少年の家に帰る頃には二匹はクタクタだった。
「また連れてきたのか」
赤ら顔の父親は二匹を睨み付けた。
「お母さん。この子たち御狐様なんだって」
「え、この子たちが! 御狐様っていうのがカンナンを救った話しは聞いていたけど、まさかこんなに小さい狐だったなんて」
「こんな小さい子狐に村を救えるもんか」
父親は母親に毒づく。
その夜はこの家で寝ることとなった。
少年は自分のベッドに入ると掛け布団をめくり、自分の横を叩いた。
「御狐様、おいで」
桔梗と睡蓮は躊躇しながらもベッドに飛び乗った。
布団を掛けられると二匹はその心地よさに、伏せて瞼を閉じた。
「おやすみ、お前たちはいい匂いがするね」
幼い少年は桔梗と睡蓮の方を向いて眠りについた。
深夜、二匹はほぼ同時に目を覚ました。顔を見合わせそっとベッドから抜け出すと、窓から外へ出た。
父親はそれに気付き台所から鉈のような包丁を持ちだし、静かに二匹の後を追った。
幼い少年もまた目を覚まし二匹がいないので、外に出てみた。
桔梗と睡蓮は土手を駆け下り、川辺に座ると向こう岸を見た。
「悔しいけんども今泳ぐのはさすがに寒いベ。明日にするべさ」
桔梗は対岸のウサギを見ながら歯を鳴らした。
「だども、誰かに捕られるのはもっと悔しいべさ」
前脚を水につけた睡蓮は飛び上がった。
「わだすには無理かもしれん。わだすには」
睡蓮は桔梗を見た。
桔梗は目を丸くした。
「スイに無理なもんおらにも無理だ」
まれにでる睡蓮のわがままに桔梗は引く。
睡蓮は月を見上げた。
「誰にも盗られませんように」
「今夜の月も綺麗だべ」
「これでウサギがこっち側ににあったら、もっと綺麗だべ」
分かっていた。睡蓮がこっちを見ていることを桔梗は分かっていた。
「今日の人間の集団は怖かったベ」
「んだ」睡蓮は大きく頷く「あれは何だったベか。餌にされるかと思ったべさ。なんかしきりにおんなじことを言ってたべ」
「人間の言葉が分かるといいべ」
「んだな」
桔梗は再び月を見上げた。
「あの光る場所さもしとは住んでるんだべか、どんな獣がおるんべ」
睡蓮も月を見上げた。
「しとも獣も光っとるんだべか」
流れの速い川に吹く初夏の夜風はまだ冷たかった。




