第四話 命名そして
翌朝、二匹とも朝の狩りは休んで、川辺へ向かうと草むらに身を潜め、互いがくるのをじっと待っていた。
まるで狩りである。
桔梗は鼻を鳴らす。
――匂いはするベ――
とうとう痺れを切らして桔梗は川べりへと向かう。
直後、桃眼の子ギツネは現れた。
「わり、待たせたべ」
桃眼の子ギツネは平静を装った。
「今来たとこだべ。おかの狩りを手伝ってただ」
紫眼の子ギツネも平然と嘘を吐く。
「わだすもだ」
「じゃあ行くベ」
「んだ」
老婆が少女の額に乗せた、水で濡らした麻布を取り替えていると、戸をガリガリとひっかく音がした。
出てみると、小さな二匹の子ギツネが薬草と赤い実の沢山付いた枝を咥えて座っていた。
「まあ、今日も来てくれたの」
老婆は薬草と枝を受け取ると二匹を招き入れた。
二匹は少女の寝ているベッドに飛び乗り、挟むように座ると顔を舐める。
少女の顔色はよくなっていた。
しばらくすると戸を叩く音がして、女性が花を束ねたものを持って入ってきた。
「お孫さんの具合はどう」
女性は老婆に訊いた。
「大丈夫だと思うよ、よくなってきてる。明日には起き上がれるんじゃないかね。この子たちのおかげだよ」
「本当に小さいんだね。可愛らしいこと」
老婆は、ありがとうと言いながら女性から受け取った花束を、素焼きの器に水を入れて少女のベッドの横にある小さなテーブルに置いた。
二匹はその花束の匂いを嗅いで、色と形を覚えた。
女性は二匹を優しく抱え鼻を近づける。
「この子たちはいい匂いがするね。ちっとも獣臭くない」
老婆も鼻を近づけた。
「本当だね、いい匂い。変わったキツネたちだよ」
降ろされた二匹は村を歩いて回った。
一匹だと怖い世界も二匹だと怖くなかった。
村は大きな畑を中心に、周りを十数件の家が囲んでいた。
どの家も、決して豊かな暮らしをしているとは思えない造りだった。
二匹は初めて見る人間の世界に胸を躍らせた。
帰りにもう一度少女の家により、彼女の様子を覗った。
呼吸はしっかりしており、心音も安定していた。
去り際、老婆に呼び止められて、またパンを貰うこととなった。
川はいつものようにとうとうと流れている。
月明かりに壮大な景色が浮かび上がる。
月を雲が横切れば、その表情をゆったりと変えていった。
巨木の先端はちょうど月の半分まで来ていた。
二匹はパンをかじり、咀嚼しながらいつもと同じでありながら、いつもと違う景色に目をはせた。
人間の村を見て回った興奮が抑えきれない。
二匹でしか味わえない喜びを感じていた。
「世界は森だけでねえんだな」
桔梗は月を見上げた。
「んだな、わだす色んな景色見てみたい」
「おらもだ」
今夜は二匹とも口数が少なかった。
明日もここで待ち合わせをして別れた。
別れ際、桃眼の子ギツネは小さくささやいた。
「友達になってけろ」
桔梗は詰め寄った。
「今なんて言った」
「なんも言ってないべさ」
「なんか言ったベ」
「じゃあ、わだすはなんて言っただ」
「……なんも言ってないだ」
桔梗は肩を落とした。
「したっけ、また明日」
二匹は肩を落として巣へと帰っていった。
桔梗は噛んだ薬草を母の脚に塗り寝息を立てた。
桃眼の子ギツネは母に噛んだ薬草を飲ませて眠りについた。
翌日戸を掻く音がするので、少女に粥のようなものを与えていた老婆が戸を開けてみると、花束を咥えた小さな子狐が二匹座っていた。
昨日女性が持ってきた花束と全く、同じ種類で同じ数の花束、だった。
「まあ、お見舞いに来てくれたの」
老婆の顔が思わずほころんだ。
花束を渡し、二匹が招き入れられるまま家の中に入っていくと、少女は半身を起こしており、二匹の来訪をとても喜んだ。
「あなたたちが助けてくれたのね。どうもありがとう」
元気そうな少女を見て桔梗は飛びつかずにはいられなかった。
少女は桔梗を撫で回し抱きしめた。
桃眼の子狐がそれを羨ましそうに見ていると、少女は笑顔をこぼし両手を広げた。
「あなたもいらっしゃい」
桃眼の子狐は言葉の意味も分からぬまま、少女に飛びついた。
少女は彼女も撫で回し抱きしめて、顔を押し付けた。
「いい香り、あなたはキンモクセイの匂いがするのね。それにキキョウと同じで、なんてまつ毛が長いの」
そう言うと両脇を抱え桃眼の子ギツネをかかげると、まじまじと彼女を見て太股の上に座らせた。
「額のその模様」
少女は桃眼の子ギツネの額を指先で突く。
「そして、その瞳の色」
鮮やかな桃色の瞳を見る。
少女は指先を顎に当て首を捻ると、目を輝かせて拳で掌を叩いた。
「あなたは睡蓮。スイレンよ。どう? あなたの名前はスイレン」
スイレンと名付けられた桃眼の子ギツネは、何を言われているのか分からなかった。
少女は桔梗を指差した。
「キキョウ」キキョウは少女に目を向けた。
次に桃眼の子ギツネを指差した。
「スイレン」
桃眼の子ギツネの小さな胸を指先で四回叩く。
「ス・イ・レ・ン」
桔梗はこの動作に見覚えがあった。ジッと耳をすませて少女の言葉に集中した。
少女はもう一度桃眼の子ギツネの胸を指先で四回叩いた。
「ス・イ・レ・ン」
なぜだか桔梗も嬉しかった。
「おめの名前だべ」
桔梗は興奮気味に、首を捻る桃眼の子ギツネに声を掛けた。
「わだすの名前? なんて言ってるだ」
「スイレンだべ」
「おめの額の模様と同じ花だべ。おめの目の色と同じ色した花だべ」
「スイレン。綺麗な名前だ」
睡蓮と名付けられた桃眼の子ギツネは瞳を潤ませながら、顔を舐め回した。
――わだすの名前はスイレンだべ。キキョウと同じでキツネ以外に名前がついただ。キキョウとお揃いだべさ。わだすはスイレン、キキョウはキキョウ――
桔梗も少女に飛びつき睡蓮と一緒になって、少女の顔を味がしなくなるのではないか、というまで舐め回した。
少女の具合を見ながら、村を歩きまわった二匹は、また森で会うことを少女と約束して、帰り際に老婆から薄焼きパンを貰い帰ることにした。
すっかり元気になった少女は、森に向かう二匹に手を振った。
「また森で会おうね」
二匹はパンを一度置いて、声を合わせて鳴いた。
コーン、コーン。「したっけ。また明日」
日はすっかり傾き、おぼろげに星が見え始めていた。
二匹は何も話さずここまで来た。
いつもの川辺だ。
互いを意識しつつ昨日より距離を近くにとって座った。
枯れた巨木の先は、ちょうど月の半分まで来ていた。
パンにかじりついて何度も噛みながら、辺りの景色を満喫する。
桔梗も睡蓮もとても満たされていた。
「旨いべ」
パンを噛みながら景色に目をやる。
「んだ。なんか、昨日よりもっとうまいべ」
「んだな」
「この木さ生えてるとこさ分かったら、毎日食べれるベ」
桔梗の胸がざわつき罪悪感で苦しくなった。
「それなんだけんど」
言いかけたら睡蓮が口を開いた。
「本当にあるだか、スイレン」
「あるべ」
桔梗は睡蓮を見て答えた。
「本当だか? 綺麗だか? それはキキョウと同じで花だか」
睡蓮はまくし立てた。
「本当だ。おかと狩りをしてたとき見た。おめの額の模様と同じ形で、おめの目と同じ色してたべ」
「綺麗だったベか」
「んだ、とても綺麗だった」
睡蓮の桃色の瞳が輝いた。
「スイレンはキキョウって花と同じで、花だったか」
桔梗の花を見たことのない桔梗は、うつむいてしばし沈黙した後、優しく話し掛けた。
「今度見せてやるベさ、スイレン。多分あれがスイレンだべ」
「楽しみだべ」
二匹はパンをかじり美味しそうに食べる。
桔梗は水を飲みに川縁に行き、ふと水面に映る自分を見つめ、ある決心をした。
心臓が高鳴り口から出そうだった。
前脚が震え今にも川に落ちそうだ。尻尾が内側に巻き込まれ耳が力なく垂れる。
勇気を振り縛り精一杯声を張った。
「おらと友達になってけろ!」
スイレンからの返事はなく、恐る恐る横目で彼女を見た。
スイレンは目を皿のように丸くして、顎が外れたように口を大きく開けていた。
「おらと友達になってけろ」
桔梗は力なく言葉を重ねた。
睡蓮は川縁に駆け出し、嘔吐した。
「こんな気持ち悪いキツネと友達になるのはそんなに嫌か?」
「そんなことないベ、桔梗は気持ち悪くなんかない」
睡蓮はうがいをした。
「わだすもキキョウと友達になりたいだ。わだすと友達になってけろ」
桔梗は目を丸くして顎を落としたように口を大きく開けた。
二匹は互いに駆け寄り、額と額、鼻先と鼻先を合わせた。
「初めてのキツネの友達だべ」
「わだすもだ」
二匹の目が潤む。
「おらたちずっと友達だ」
「んだ、死んでも友達だ」
キキョウは幸せを噛みしめながら、友達なら言わなければならないと自分に言い聞かせた。
「わり、謝らなきゃならねことがあるべ」
「なんだべ」
「スイレンに嘘ついてたべ」
睡蓮が後ろに飛び退くと、桔梗はすぐさま背を地面に預けお腹を見せて、服従の姿勢を取った。
睡蓮は腹立たしげに言い放つ。
「まさか、本当は友達じゃないって言うでねぇだか」
「違うベ」
桔梗は飛び起きた。
「おらは本当におめと友達でいてえ。そうじゃなくて人間の食べ物のことだ」
桔梗はパンを持ってきて地面に置いた。
「これが木でできてるって事だ」
「木でねえのか」
「木かも知れねえけど、木じゃねえかも知れね。あと、木の幹に木の実が入ってるってことと、それが枝に行ってぶら下がるってこと」
「それが嘘だべ」
「本当かも知れねけど、適当に言っただ。よくわからね」
「それだけか」
「葉っぱが枝に入ってるってのもだ」
「それだけか」
「木の根っこにキノコが入ってるってことも」
「それだけか」
桔梗は言葉を探した。
「人間のことも森のことも何も知らないだ……おら、キキョウの花だって見たことないべ……それだけだ」
歩みよりながら睡蓮が訊いた。
「なんでそんな嘘ついたベ」
「おめに格好良く見られたかっただ」
「スイレンの花も嘘だべか」
「それは本当だ、必ず見せてやる」
桔梗の深い紫色の瞳と睡蓮の鮮やかな桃色の瞳が、惹きつけ合った。
「キキョウの花はわだすが見せてあげるだ。必ず見せてあげるだ」
桔梗の頬を一粒の涙が濡らす。
世界中のどんな宝石よりも美しい涙だ。
「楽しみにしておくベ」
桔梗と睡蓮は再び額と鼻先を合わせ、睡蓮が鼻声で口を開いた。
「もう嘘は吐かんでけろ」
「もう吐かんだ」
「桔梗は嘘を吐かんでも、充分カッコいいべ」
「本当のおらを知らねえべ」
「知ってるだ。人間と遊んでるのを、隠れてずっと見てただ。人間に声かける前からずっと見てただ。勇気があるベ。わだすは臆病者だ」
「スイレンも勇敢で強いベ。人間が蛇に噛まれたとき飛び出して来ただ」
二匹の足下に、ポツリ、ポツリ、と暖かい雨が降った。
しばらくしてパンを食べ終えると、二匹はどちらからともなくじゃれつき始めた。
取っ組み合って、甘噛みして、前脚で押して、後ろ脚で押し合って、絡み合って川辺を転がりまくった。
兄姉たちがいつもしているように、恨めしく思いながら見ていた遊びを、今二匹はしていた。
ひたすらじゃれ合った。産まれて初めてキツネ同士でじゃれ合った。
飽きても飽きてもじゃれ付き合い、互いの毛繕いをして、水を飲んで一休みするとまたじゃれ合った。
クタクタになるまで遊び、桔梗と睡蓮はそのまま川辺で眠ることにした。
晩春に吹く川辺の風は冷たかったが、心の温度がそのまま体温になっている二匹には、まるで関係のないことであった。




