第三話 とんでもない嘘
欠けた時計盤の針が六時を指すように、対岸の枯れた巨木の先端は月の真ん中に掛かっていた。
どちらからという訳でもなく、二匹はいつもの川辺まで、大きなパンを咥えたまま、緊張気味に言葉を発することなくここまで歩き、やはり、どちらからという訳でもなく距離を置いて座った。
パンを置いて前脚で押さえると、それに噛みつき食いちぎり咀嚼した。
二匹ともパンを噛みながら対岸に浮かぶ月を眺める。
飲み込むと、先に口を開いたのは桔梗だった。
「旨ぇな」
二口目をかじろうとしていた桃眼の子ギツネは、慌てて返事をした。
「んだ」パンを見つめて言葉を探す。「わだすのお気に入りの場所だべさ、ここ」
二口目をかじろうとしていた桔梗はドキリとしたが、落ち着いた素振りで答えた。
「会わなかったベ」
「んだ」
漂う香りにふと気付いた。
「おめの匂いだったべか、このいい匂い」
「おかさんたちと違うベさ、いい匂いだべか、わだす」
照れくさくなった桔梗はパンにかじりつき、口を動かしながら辺りを見回した。
桃眼の子ギツネも恥ずかしくなり、パンを口に詰め込む。
桔梗は景色を見る振りをしながら、パンを食べる桃眼の子ギツネに目を向けた。
――おらと同じように額に模様があるベ。目の色も普通のキツネと違う。それに、ちっこいくせして、ちゃんとキツネだべ――
桃眼の子ギツネがゆっくりと桔梗の方を向く。桔梗は慌てて正面を向き石のように固まった。
桃眼の子ギツネもまた桔梗に対して同じような感想を持った。
桔梗が話し掛けた。
「旨ぇな」
桃眼の子狐は正面を向いた。
「んだ。なんの肉だべさ」
「……木だべ」
少し考えて丸い形から桔梗は木を連想した。
「木だべか!」
桃眼の子ギツネは驚いた。
「んだ。木を薄く切って、横からフーって息を吹き込むとこうなるべ」
「木を薄く切って吹くとこうなるだか? でも木の実が入ってるベ」
桔梗は自分が偉くなった気がして、饒舌になる。
「木の実は最初から幹に入ってるベ。それがだんだん上に登って枝の先に来たら、ぶら下がって落ちてくるベ」
桃眼の子ギツネの様子を覗ってみると、彼女は目を丸くして口をあんぐりと開けていた。
桔梗は自分が尊敬されているような気がして、嬉しくなり続けてしまう。
「葉っぱはもとから枝に入ってるベ、それがパッと出てパッとひらくだ」
桔梗は前脚を挙げて掌をパッと広げて見せた。
桃眼の子ギツネは唾を飲み込む。
「おめさんは何でも知ってるだな」
桔梗はさらに調子付く。
「キノコは根っこに入ってるベ。だから根っこを薄く切って息を吹き込んだらキノコのこれになるベ」
薄焼きパンを肉球で叩いた。
「本当に物知りだべな。」桃眼の子ギツネは桔梗に畏敬の念を抱いた。
桔梗の鼻は高らかと挙がり、小さな胸はピンと張られた。
「どこに生えてるベ、この木」
「……」
桔梗は言葉に詰まり話題を変えた。
「おらには名前があるだ。キキョウっていうだ」
「キキョウ? いい響きだ」
桃眼の子狐は首を傾げた。
「名前ってなんだ?」
「おめはキツネだべ、キノコはキノコだべ、肉は肉だべ。それが名前だべ。おらはキツネだがそれ以外にもキキョウって呼び方があるだ」
「キキョウってなんだべ」
「こんな形をして」額を指す。「こんな色をしてる花だ」
前脚で自分の目を示した。
「人間に付けてもらっただ」
「見たことあるだか」
「……もちろんあるだ」
桔梗は返事に躊躇した。自分の名前の花を見たことがないが、桃眼の子ギツネの額の模様と同じ花は見たことがあるからだ。
「わだすも名前が欲しいだ」
桔梗は少し考えて答えた。
「はらわたはどうだべ。旨そうだべ」
「もっと綺麗なのがいいべ」
「沢山の肉」
「綺麗でないべ」
桃眼の子ギツネは下を向く。
「それなら、キノコか木の実がいいべ」
「……人間に付けてもらうベ」
「んだ。そうしてもらいて」
「綺麗な名前が付くといいな」
二匹はしばらく無言でパン食べ、景色を堪能した。
いつもと同じ景色が、紫眼と桃眼にはとても美しく映った。
また、桃眼の子狐はパンが美味しいのもあるが、一匹で口にしていた味気ないキノコと違い、二匹で食べる食事がたまらなく嬉しかった。
食事を終え川の水を飲む。桔梗は水面に映る自分を見つめながら、消え入りそうな声で呟いた。
「おらと友達になってけろ」
桃眼の子狐は川に向かって飲みかけの水を吹き出すと、桔梗に詰め寄った。
「今なんていった?」
「何も言ってね」
「なんか言ったべ」
「明日も人間のとこさ行ってみよう、っていっただ」
鮮やかな桃色の瞳に、顔を赤くしたキキョウが映る。
「わだすも行っていいだか」
桔梗の心臓が高鳴る。
「んだ」
「わだすも、おめさんのことキキョウって呼んでええだか」
桃眼の子狐は月を見上げながら訊く。
桔梗は吐きそうになるのを堪えた。
「んだ」
「じゃあここで待ち合わせるだ」
「んだ」
桔梗の頭は真っ白になった。
互いに名残惜しさはあったが、二匹は巣へと戻ることにした。
途中、桔梗は少女が傷口に塗っていた薬草を摘んで帰り、桃眼の子狐は老婆が老人に飲ませていた薬草を摘んで帰った。
桔梗は巣に戻ると薬草を噛んで、母の傷口に塗った。
桃眼の子狐は噛んだ薬草を母に飲ませた。
その日は、二匹とも興奮してなかなか寝付けなかった。




