第三十一話 桔梗と睡蓮そして妲
風に追い立てられるように走った。
口は渇き、脚も疲労していたが、どちらも休もうとは言い出さなかった。
トラのいたアグレタ村の村長宅を出て、丸二日走り続けた。
二匹が足を止めたのは、ヤクチャベの町にある料理店の軒先に、瞼を閉じて座る少女の前に着いた時だった。
コンと鳴くとバディータは満面の笑みで、両手を広げた。
「戻ってきてくれたの? 突然いなくなるから心配したのよ。さあ、いらっしゃい」
桔梗と睡蓮はバディータのヒザに飛び乗った。
バディータは愛おしそうに、二匹を撫で回し匂いを嗅ぎ、椀を脱がすと頭を撫でた。
「やっぱり可愛い」
そう言って頬ずりをする。
そしてバディータは二匹の椀を地面に置いて、背後から別の椀を取り出した。
「あなたたちに貰ったお金で買ったの。お店の人に聞いてあなたたちにぴったり似合いそうなお椀を、特別に作って貰ったのよ」
二つの椀を手に乗せた。
一つはとても淡い紫の下地に、濃い紫で桔梗の花が葉と共に描き込まれていた。
もう一つは淡い桃色の下地に、鮮やかな数輪の睡蓮花が濃淡を活かして描かれていた。
二匹は椀に見とれた。
「どう、気に入ってくれた?」
コンと鳴けたのは、少し時間をおいてからだった。
「どちらが紫の瞳の狐さん?」
桔梗はコンと返事をした。
バディータは桔梗の描かれた椀を被せた。
「じゃあ、あなたが桃色の瞳ね」
睡蓮にもう一つの椀を被せた。
とても軽く丈夫そうで、大きさもぴったりだった。
これまで見てきた椀とは比べものにならないほど、高価であろうことが容易に想像できた。
桔梗と睡蓮は互いの椀を被る姿を見て、別世界の存在のように思えた。
これが自分の親友、桔梗であり睡蓮なのか、と目を疑うほどであった。
一度脱いで、そして被る。
具合もいい。
二匹はちぎれそうなほど尻尾を振りながら、バディータの頬を舐め回した。
彼女はくすぐったそうにしながら、喜んだ。
桔梗と睡蓮は立ち上がると、両手をバディータの右目にかざし、癒やしの術をかけ始めた。
このための丸二日も走り続けてきたのである。
バディータの右目の奥に穏やかな、温かみを感じる。
続いて左目だ。
二匹が座ると、バディータは目に起きた奇跡に気付き、恐る恐る瞼を開ける。
あまりの眩しさと、恐怖に瞼を固く閉じる。
桔梗と睡蓮は肉球でゆっくりと時間をかけて、バディータの瞼を開いていった。
初めて見る景色、人々の姿、そしてヒザの上に座る奇跡を起こした二匹小さな子ギツネを目に、涙が溢れてきた。
胸を打ち大きな感動が込み上げてくる。
感動したのはバディータだけではない。
桔梗と睡蓮もまた、バディータの瞳に映る美しい椀を被る自分を見て、感動していた。
バディータは二匹を抱きしめた。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう」
同じ言葉を繰り返すばかりだった。
バディータのヒザから飛び降りた桔梗と睡蓮は、脚を噛んで彼女を店の中に連れて入った。
給仕も、常連客も、聞きつけて店の奥から出てきた主人も喜び、涙を流した。
二匹はバディータを座らせ、自らも座ると、財布からいつもより多く硬貨を出した。
「バディータにおごりたいんだね」
給仕が言うと、店の主人は腕まくりをした。
「何言ってんだ。店のおごりに決まってるだろう」
そう言って涙を拭いながら、厨房へ向かった。
桔梗と睡蓮は椀を脱いでテーブルに置いた。
「いいのができたね」
給仕はバディータにそう言いながら椀に酒を注いだ。
桔梗と睡蓮はバディータを見て椀を見て、酒に舌を漬けた。
店内はちょっとした宴会だった。
いつもは紹介ばかりしてきたバディータも、運ばれてくる料理の数々に喜びを隠せない。
料理と酒を満喫した桔梗と睡蓮、そしてバディータは店を出て行った。
出ると道の向こうで父親が待っていた。
「働きもしないで飲み食いとはいい身分だな」
バディータはしっかりした足取りで父親の所へ向かう。
手で前を探ったり、周りを伺い不安な表情を浮かべたりすることなど全くない。
父親はバディータに起きた変化に気付くこともなく、義務的に手を伸すだけだ。
「何のために苦労してると思ってるんだ。おまえを贅沢させるためじゃないんだぞ」
「お店の方におごって頂きました」
バディータは毅然と落ち着いた声で答えた。
「さっさと手を出せ」
腹立たしげな父親に、バディータは告げた。
「目が見えるようになりました」
背を向けていた父親は驚いて振り向き、始めてバディータの顔を見て、そこに美しく輝く瞳に気付き、言葉を失った。
「生まれつき盲目のわたしの身に、奇跡が起きたのです」
二匹を振り返り見つめた。
「今までご迷惑しかお掛けできず、申し訳ございませんでした」
「……な、な、なんで」
「仏のお慈悲ではないでしょうか。あの硬貨を命がけで守った甲斐がありました。明日からはいつもの料理店で、給仕として雇ってくださるとのことです」
首を項垂れ、背中を丸め、父親は廃人のように家に消えた。
喜ぶ時に喜べない。
祝う時に祝えない。
抱きしめたい時に抱きしめられない。
何故生まれたかはどう生きるかで決まる。
二匹は光る人の言葉を思いだしていた。
家に消える父親の後ろ姿は、後悔か懺悔の思いか、恥じ入る気持ちを体現したものだったのか。
バディータは桔梗と睡蓮に手を振った。
「またね」
素敵な笑顔だった。
桔梗と睡蓮はしばし沈黙したのち鳴いた。
「したっけー」
今日は、バディータが家に入っても怒号も罵声も聞こえなかった。
バディータの家族はとても重く棘の付き出した重しを、一生抱え続けることになるのではないだろうか。
生涯盲目であり続ける。
そんな不変というものが、この世には存在しないのだということを、大きな代償により気付かされることになったのだ。
一方バディータは奇跡とは起きるものであり、また起こすものでもある。
と、胸に希望を刻みどんなこんなんでも、乗り越えて生きていく力を手に入れたに違いない。
桔梗と睡蓮は顔を見合わせて、町を出ようと言った。
「その前にあそこさ寄ってみねえベか」
桔梗の心を見透かしたように睡蓮は頷いた。
「んだ、あのしとたちは何だったのか気になるベ」
無精髭を生やした物乞いたちのいる場所に、二匹は向かった。
彼らは相変わらず地べたに腕枕で寝転んでいたが、数人の子供たちがかじりかけのパンを持ってくるのを見かけると、正座をして手を合わせ呟いていた。
唱える言葉がカドファンのそれとはまるで違っていた。
子供たちはちぎったパンくずを、笑いながら右へ左へと投げる。
男たちは時に殴りあい、競ってそれを拾い口にした。
そしてヒザを付くと僧侶を気取って手を合わせる。
子供たちはその様子を眺めては腹を抱えて笑った。
男たちがパンくずを奪い合う様は、まるで飢えた鬼のようであった。
桔梗と睡蓮は身震いすると、肩を落として歩き出した。
ヤクチャベの町を出て気ままに歩く。
大きな畑で穂の先に実りを湛えた麦が、吹く風で波のように揺られる様を眺めた。
「何だべこれ、生きてるべか」
桔梗は唖然とした。
「麦だべ」
「何で知ってるべ」
睡蓮を細めた目で悔しそうに睨んだ。
「店の人が言ってたべ」
「美味しいだか」
「パンの元だべ、食べてみるべか」
桔梗と睡蓮は畑に飛び込み穂先に噛みつくと、ボリボリと麦を噛んだ。
「あんまり旨えもじゃねえな」
桔梗は口をぎこちなくに動かした。
「んだな。わだすは麦、嫌いだべ、それに喉がなんかささくれ立ってきた」
「イガイガするべ」
桔梗は後ろ足で喉を掻いた。
「痒くなってきたべ。刺されたべか」
睡蓮は座って両手で喉を掻いた。
夕暮れを過ぎて空は薄墨を張り星が見え始めていた。
二匹は喉を掻きながら道の端を歩いた。
すると前方から女性がやってきた。笠を被った女性だ。
女性は避ける素振りもなく、二匹の前まで来ると立ち止まった。
右目の下にホクロのある、とても美しく魅力的で妖艶な女性であった。
女性が桔梗と睡蓮を見下ろすと、ふくよかな唇を開いた。
「我は妲。尻尾の沢山ある面白いキツネがいるからと、探してきてみればとんだ出来損ないのこまい子ギツネではないか。しかも二本とは笑わせおる」
桔梗と睡蓮は尻を掲げ、尻尾を立てると毛を逆立てた。
「出来損ないではねえ、ちゃんとキツネだ」
桔梗が女を睨む。
「何の用だべ」
睡蓮は目を吊り上げた。
「おまえたちがキツネ……」
女は口を隠して笑った。二匹の言葉が通じているようだ。
「我にはおまえたちが目障りなんだ」
女は開いた手指を前に付き出した。
二匹は咄嗟に後方に飛び下がる。
女の指先から雷光が走った。
雷撃に打たれた桔梗と睡蓮は、後方に弾き飛ばされ転がった。
骨の髄かから歯の先まで、鎚で叩かれたような痛みに襲われた。
二匹はよろめきながら立ち上がる。
そこへもう一撃、先程より大きな雷撃が加えられた。
二匹は身体からわずかな煙を上げ、転がっていった。
妲がゆっくりと歩みよって来るのを、消えゆく意識の中で二匹は見た。
「あまり調子に乗るもんじゃあないよ。今日はこの辺で勘弁してやるが、次はないからね。よく覚えておきな」
桔梗と睡蓮は意識を失った。




