第十九話 イノシシとウリ坊
「本当にええだか」
桔梗は舌舐めずりをした。
「んだ、川辺で約束したべさ」
睡蓮は瞳を輝かせた。
「じゃあ、先に行くべ。初めてだべ、ええんだか、罰は当たらんベか、行くべ」
瞳を潤ませていた桔梗は瞼を閉じると左右から一粒ずつ涙を溢しながら、兎の腹に大きく開いた口を近づけて噛み付いた。
「喰ったベ」
口の周りを血だらけにした桔梗は睡蓮を見た。
「スイはここ食べれ」
桔梗は手でウサギの胸を叩いた。
「柔らかいべか、そこは柔らかいべか」
睡蓮は期待に小さな胸を膨らませる。
「多分柔らかいべ」
「行くべ、行くべ、キキョ後悔してもしらねえだ」
睡蓮は泣きながらウサギの胸にかじりついた。
二匹は顔を見合わせてもぐもぐと口を動かした。
ここへ来る途中腹を空かせた二匹はウサギを狩った。
桔梗が左耳を、睡蓮が右耳を咥え、ウサギを引きずりながら川を求めて道を歩いていたのだが、我慢しきれず小さな水溜まりのあるここで食べることにしたのだ。
「口の中に……何か、皮と毛が残るべ……」
言いにくそうに桔梗はウサギを見る。
「口の中が……モゴモゴするべ」
睡蓮もウサギを見た。
初めて肉らしい肉を口にした二匹は、期待外れだったようだ。
「あんまり旨いもんじゃないべ」
桔梗は肩を落とした。
「人間の食べ物に慣れたからか」
ここまで上機嫌だった二匹は落ち込んだ。
「皮と毛は飲み込むだか」
睡蓮が寂しそうに桔梗を見た。
桔梗はウサギを見ながら呟いた。
「たぶん」
皮と毛を飲み込み終えた二匹は、無言で水溜まりの水を飲んだ。
再びウサギのところへ戻り二口目をかじり、口を動かし三口目をかじった。
桔梗と睡蓮の目から小さな雨粒が落ちる。
「こんなもんだべさ」
桔梗は泣きながら睡蓮を慰めようと声を掛けた。
睡蓮は涙を拭った。
「んだな、あんちゃたちもこれを食べてたんだな」
口の周りを血に染めた二匹は、呆然としてウサギの側に座り込んだ。
人の声がしたので振り向いてみると、十四、五人の人間が大きな荷物を背負って歩いてきた。
集団は三家族がまとまって歩いているようで、話を聞いてみると、畑の土があまりに痩せてきたため隣村に引っ越すことにしたようだ。
十代前半の少年が桔梗と睡蓮を指差した。
「リスがお椀を被ってウサギ食べてる」
「リスじゃないべ! リスはうんと小さいべ」
睡蓮が怒りをぶつけるように吠えた。
「犬よ犬。野良犬よ」
「犬じゃないべ! 犬はコンコン吠えないべ」
桔梗は眉を上げた。
すると十代にも満たない少女が、桔梗に駆け寄ってきた。
「コンコンって言ってるから子狐さんよ。ねえコンコンちゃん」
「アーレ止めなさい。病気が移る」
どうやら父親のようだ。
「病気なんて持ってないわ、こんなに綺麗な目の色してるもの」
アーレと呼ばれた少女は桔梗の喉をくすぐった。
アーレの言葉に別の男が反応した。
「綺麗な瞳の色? アーレ、まつ毛は長いか、額に花柄はあるか」
アーレは男を見た後、桔梗を確認した。
「うん、とても綺麗でとても小さなコンコンちゃん。お口の周りが血まみれ以外は」
「間違いない。行商の言っていた、奇跡を起こす御狐様だ」
男は驚いた。
桔梗は浄化の術で身体をきれいにした。
浄化の術というのは仏よりは神に近い力だ。
睡蓮はというとウサギの皮と毛を相手に、格闘していた。
全員、桔梗の周りに集まってきた。
「口の周りの血が綺麗になってる」
「これが御狐様」
「何かが違うと思ったんだ」
皆打って変わって、好き勝手なことを口にした。
「どうりで可愛いと思った。ねえコンコンちゃん」
アーレは強く桔梗を抱きしめた。
桔梗がアーレの頬を舐めると、とても嬉しそうに瞼を細め桔梗の頬を舐め返した。
睡蓮が血に塗れた口を桔梗に向けた。
「ウサギ食べてしまうべ、コンコンちゃん」
桔梗はウサギを食べはじめた。
睡蓮はふてくされていた。
「人間は勝手だべ。さっきまでリスとか言ってたくせに、御狐様になると急に態度が変わったべさ」
「でもアーレは違ったべ」
「んだな」
「あの子はいい子だべ」
「んだな、コンコンちゃんの言う通りだべ」
睡蓮はいたずらっぽく笑った。
人の声がした。
家族が来た方向とは反対からだ。
髭面の男が血相を変えて走ってくる。
胸には暴れるイノシシの子供、ウリ坊を抱えていた。
「助けてくれー」
叫びながら、わざわざ家族の集団の中を突っ切っていった。
少し足を引きずり気味のイノシシが、髭面の男を追っていた。
引きずる足に縄が巻き付いているところを見ると、罠にかけたのだろうが、どうやらウリ坊を取り返すために、縄を引きちぎってきたようだ。
このままでは家族が轢かれる。
家族の前に飛びだしたのは桔梗と睡蓮だ。
二匹が両手で地面を叩くと、岩の壁がせり出してきた。
これも石岩行の一つだ。
イノシシは岩に激突して、後ろに吹き飛ばされてひっくり返った。
すぐさま身体をひねり起き上がる。
「スイ頼むべ」
桔梗は大きく口を開いた。
睡蓮は石礫の雨をイノシシに浴びせた。
その視線の先にあるのは睡蓮でも家族の集団でもなく、家族の集団の後方で立ち止まって振り返る、髭面の男が抱いている、ウリ坊だった。
イノシシが再び走り出した瞬間、桔梗の放った大きな岩石が砕け散った。
イノシシは涙を流しながら、ウリ坊を見つめその場に倒れ込むと瞼を閉じた。
二匹の背後でウリ坊がけたたましく泣き叫んだ。
「殺してしまっただか」
睡蓮はイノシシの心音を確かめた。
「死んでるべ。でも仕方なかったべ、あのまま放っとけば人間に被害がでてたべ。それに」
家族の集団の後ろにいる髭面の男を見た。
「あの人間も生きるためには食べなきゃなんねえべ」
「んだな、魂を極楽へ送ってやるべ」
二匹はイノシシに手を合わせた。イノシシの身体からモヤが湧き上がり、一筋の煙となって天高く登っていった。
桔梗と睡蓮は定められた文言を唱えた。
何かを察したのかウリ坊は静かになった。
桔梗がイノシシを見上げた。
「これは喰い切れねえべ」
「んだな、勿体ねえからウサギ食べるべ。皮と毛は残していいべか」
「兄姉は骨以外、全部喰ってたべ」
「んだな」
桔梗と睡蓮は肩を落として食べかけのウサギの元へ向かった。




