第十七話 化け猫の恐怖
カドファンの言ったとおり東に進むと道があり、その道は確かに広かった。
二匹がついた時には既に手遅れで、深く大きな傷を負った馬が二頭横になり、浅い息をしていた。
行商らしき男が一人と小間使いらしき男が二人、やはり大きく深い傷を負って唸っていた。
馬車は横倒しになり荷は散乱していた。
森に住んでいると物の怪や精霊の類いとまれに出会う。
顔のないウサギや虫の翅を付けた小鳥などは物の怪だ。ぶんぶん飛び回ったり地面から湧き上がる光の球は精霊の類いだ。
だが、いずれもこちらから手を出さない限り襲ってくることはないし、元々凶暴なものでもない。
それらは昼夜関係なく姿を現すのである。
この行商が物の怪である化け猫に襲われたとしたなら、かなり凶暴で爪痕から見ても大きなものだろう。
桔梗と睡蓮はまず息の浅い馬から診てやることにした。
両手をかざし癒やしの術をかけた。
二頭の馬を終えると行商、その後二人の小間使いに癒やしの術をかけた。
霊力を消耗した桔梗と睡蓮は道路に身を投げ出した。
食事をとった直後だったからか、霊格が上がったのか意識を失うまでには至らなかった。
二人の小間使いと馬の無事を見た行商は桔梗と睡蓮を見て声を上げた。
「あなた方が噂の御狐様ですね」
半分瞼を開き長いまつ毛越しに紫眼と桃眼を行商に向けた。
「なんと美しい瞳だ。我らを助けてくださったんですね」
そう言うと小間使い共々膝を付き、感謝の言葉と共に手を合わせた。
二匹は餌を要求し口をパクパクと動かす。
それを見た小間使いの一人が行商の肩を叩いた。
「お腹が空いてるのでは」
二匹は同時に飛び起きると、小間使いを片手で指した。
行商はこんなものしかと、干し肉を指し出した。
桔梗はすぐに喰らい付き干し肉を噛みしめた。
一噛みした睡蓮は干し肉を口から落とし、桔梗に顔を向けた。
「噛んでけろ」
桔梗の口が止まる。
「噛んで柔らかくしてけろ」
桔梗はため息交じりに睡蓮を見た。
「おめは毒に冒されてないべ」
「噛んでけろ」
「自分で噛んでみれ。旨いベ」
「噛んでけろ」
仕方なく噛みほぐした干し肉を、桔梗は舌に乗せて睡蓮に差し出した。
睡蓮はご満悦だった。
「柔らかいべ」
食べ終えると睡蓮は再び桔梗を見た。
「噛んでけろ」
桔梗は睡蓮の頭に被った椀を肉球で叩いた。
「騙されたと思っていっぺん固いの食べれ。絶対に旨いだ」
睡蓮は干し肉を小さく噛みちぎり、桔梗に顔を向け閉じた瞼にシワを寄せ大げさに噛んで見せた。
突然睡蓮の表情が変わる。
「ん? 美味しいベ。スジ肉とは全然違うべ」
「言ったべ」
桔梗は安堵の表情を浮かべ、ため息をついた。
ある程度腹が満ちてくると欲しくなるのはあれである。
クルリと脱いだ椀を地面に置くと二匹は、コンと鳴いて馬車を起こそうとしている行商たちを呼び、並んで座った。
目の前の空中を二カ所ポンポンと叩くようにして、コン、コン、と鳴いた。
桔梗と睡蓮の息はぴったりであった。
空中を二カ所ポンポンと叩き、コン、コン、と鳴く、二匹はこれを繰り返した。
行商たちは腕組みをしてそれを眺める。
「便、所」小間使いの一人がそう言うと、二匹は目を吊り上げ首を振る。
「他を、くれ」二匹は力強く空中を二カ所ポンポンと叩き、怒りにも似た声で、コン、コン、と吠えた。
行商が拳で掌を叩いた。
「さ、け。ですな」
二匹はたち上がり行商を差した。
「ローマから入った上質のものがございます。なんでもブリタニアで作らせたとか。あれを持ってきて差し上げろ」
二匹の前に置かれた樽は蓋を割られた。
鼻をくすぐるかぐわしい香りに誘われ、椀を咥えた桔梗と睡蓮は樽の縁に飛びつき酒を掬うと、地面に伏せてそれを舐め始めた。
舌が進む桔梗が目を輝かせた。
「旨いベ。旨いベ。村で呑んだのより旨いベ」
「んだな、舌がつりそうなくらい勝手に動くべ」
酒を半分くらい呑んだところで、なかなか起こせない馬車に目が行った。
「こんな旨い酒を貰ったんだ、手伝うべ」
桔梗は立って馬車に向かった。
睡蓮も後を着いていき馬車の横に離れて立つと、圧縮率の低い圧宙丸を軽くあてた。
馬車はゆっくりと体勢を整えた。
行商たちは感謝し、散らばった荷を集め馬車に納め始めた。
桔梗と睡蓮が酒を呑んでいると行商がやってきた。
「こんなものが残っていました。野菜の酢漬けです」
行商は木のフタを開けると陶器から濡れた野菜を取り出し、二匹の前に敷かれた蝋紙の上に置いた。
匂いを嗅いで顔に皺を寄せる桔梗を睡蓮は目の隅で見た。
「食べてみれ」
「ポンコロリだべ」
「いや、村で大きな爪の付いた虫の恥ずかしい格好したのは、わだすだべ。次はおめさんの番だ」
「ポンコロリするベ」
桔梗は手足を伸ばした。
「キキョの番だべ。どれだけ恥ずかしかったと思ってるベさ」
語気を荒げる睡蓮に桔梗は仕方なく野菜に口を付けた。
しばらくすると、瞼に寄ったシワが消え桔梗の目がキョトンとなった。
心配そうに見ていた睡蓮が訊く。
「どうだべか」
「酸っぱいけど旨いべさ」
口の中に入れ目にシワを寄せた睡蓮も、顔がほころんだ。
「旨いベ。酸っぱいのが旨いベ」
「ピクルスと言います。ピックルとも言いますが、お口に合いましたでしょうか」
コン、と鳴く二匹に行商は笑顔をこぼした。
「それにしても大きな化け猫でございました。馬車を走らせていると突然あちらから走ってきましてね」
行商は石窟寺院の方を指した。
「ここしばらく化け猫による被害者もそれなりの数がでておりまして、御狐様がたが来られなければ、我々も生きて次の村までは行けなかったでしょう」
行商は改めて桔梗と睡蓮に手を合わせた。
行商たちの乗った馬車を見送ると、二匹は再び酒を呑み始めた。
椀が届かなくなると足を樽の縁にかけ、ぶら下がって酒を呑み、挙げ句の果てには樽の中に入って酒を呑みだした。
樽の中から丸く切り取られた薄暗くなる空を、桔梗が見上げた。
「どうするべ化け猫」
夢中で酒を舐めていた睡蓮が舌を休めた。
「わだすたちの知ってる物の怪とは、ちょっと違うべ。それに相当な大きさみたいだべ」
「んだな、でもほっといたら人間が困るべさ」
「話が通じる相手なら良いんだけども」
「話が出来る物の怪に会ったこと無いべさ。そもそも声がだせるべか」
桔梗は顔のないウサギを思い出し、そして続けた。
「とりあえず、こちらから森に入るのはやめといて、今夜はここで様子を見るべ」
樽の酒を全部舐め終えた二匹は、石岩行で生成した小石で小さな穴を空けた樽に入り、中から外を覗うことにした。
「人の声がするべ」
睡蓮の言葉に桔梗は反対に空けた穴から外を覗いた。
「遅くなりました。この辺りは最近怪しい噂を聞きます。なんでも妖怪が出るとか。引き返して村に戻りますか」
御者が荷台に乗る人々に訪ねる。
三角屋根の付いた荷台に乗る人々、は男女合わせて八人位いただろうか。
このまま行こうと言う人、引き返そうという人、半々に割れた。
「気配がする」
桔梗がそう言った時には、既に正面に回り外を覗いていた。
馬がいななき暴れ出すと、たちまち御者は制御を失い馬車が立ち往生した。
「まずいべキキョ」
睡蓮も桔梗に並び覗く。
――来た――
二匹がそう思った時、巨大な猫が寺院のほうから砂煙を上げて走ってきて、カーブを描きながら馬車へと向かう。
遠くにいたかと思えば、驚く早さで馬車に近づいていった。
身の丈三メートル程で、耳まで裂けた口には歯並びの悪い牙が無数に生えていた。
紡錘形の目は縦に付き、黄色い胸膜の中心の瞳孔は丸く開ききっていた。
馬車に近づくとそれは唸るように低く、ニャー、と鳴く。
鳴くと牙が音を立てて踊った。
馬車まで数メートル。悲鳴が聞こえる。
馬が暴れて馬車から降りられないようだ。
咄嗟に桔梗と睡蓮は樽から飛びだし、石礫の雨を浴びせた。
化け猫は足を滑らせながら向きを変えると、二匹を睨んで鳴いた。
ゆっくりと歩みよる化け猫に、石岩行による石礫の雨を浴びせ続けた。
馬車から引き離そうにも、反対に走りだせば歩幅の違いでたちまち追いつかれ、太い足で押し潰されるか、大きな爪で引き裂かれるだろう。
桔梗と睡蓮はゆっくりと後退する。
「スイ時間稼ぎを頼むべ」
桔梗が叫んだ。
睡蓮は石礫の量を増やし、一匹で化け猫を押し留めた。
化け猫の目が、横に薄く閉じる。手で目を庇っていた。
決定打にはならないが、効果がない分けでもなさそうだ。
桔梗は半開きの口の先に、長く鋭い円錐形の石を生成し、渾身の力で発射した。
石は化け猫の左足に刺さった。
ギャーッ! 化け猫は咆哮を上げる。
桔梗と睡蓮は一気に馬車とは反対方向へ逃げた。
ドス、ドス、ドス、という重い足音が背後で鳴る。
音が消えたかと思うと、次の瞬間化け猫は二匹を飛び越え目の前にいた。
攻撃されなかったのは前脚を怪我していたからなのかもしれない。
「スイ頼むべ」
再び桔梗が声を掛けた。
睡蓮は威嚇態勢をとり、できる限りの石礫を叩き付けた。
化け猫は瞼を閉じて、匂いを頼りに右手を持ち上げ、振り下ろした。
――キキョ、信じてるべ――
睡蓮の頭上すれすれの所で、大きな岩が化け猫の頭で砕け散り、巨体が揺らいだ。
これだけの大きさの岩を生成するには、相応の時間が掛かる。
桔梗はその時間稼ぎを睡蓮に託したのだ。
化け猫は数メートル飛ばされ横倒しになった。
睡蓮はその場に座り込む。
「キキョ、腰が抜けたべ」
桔梗は睡蓮のうなじを噛み、馬車とも化け猫とも違う方角へ走った。
馬のいななきだけが聞こえる。
化け猫はゆっくりと立つ。
桔梗と睡蓮の喉がゴクリとなった。
左前足の岩を砕いた化け猫は、ぎこちない動きでゆっくりと寺院の方角へ去って行った。
「歩けるべ」
桔梗は睡蓮を気に掛けた。
「んだ。あいつ足が少し回復してたでねえか?」
「んだな」
二匹は馬の所へ行き、声をかけて落ち着かせた。
馬車の中から人が出てきて膝を付いて座ると手を合わせた。
「御狐様ありがとうございます」
睡蓮が手を合わせ開いた片目で桔梗を見た。
「んだな。何か食いもん持ってねえべかな」
「持ってねえならさっさとカドファンのとこさ帰るべ」
御者が口を開いた。
「石窟寺院へ托鉢に行くところだったのですが、遅くなってしまい。これから向かうとこなのです」
「女性が口を開いた。御狐様いらっしゃらなかったら、お参りも出来ないところでした」
二匹は顔を見合わせた。
「スイ、石窟寺院ってカドファンのいるとこだべ」
「托鉢って食べ物のことだべさ」
二匹は迷わず馬車に乗った。
静かな夜に夏の風が吹いていた。




