第十五話 オスギツネ
血まみれの御狐様をみれば村人たちが大騒ぎするのは必然だ。
ましてや肉片が落ちていたとなればなおのことだ。
だが、その肉片が御狐様のもではないと分かれば、当然、御狐様がヒツジを狙う狐を追い払ってくれたのだということになり、村人たちは涙した。
こんな小さな身体で、目撃された大きな狐を追い払ってくれたのだから。
桔梗と睡蓮はすぐさま長老の家に運ばれ治療を受けることになった。そこへ村人の一人が駆け込んできた。
「こないだ行商に交換して貰った品だ。ローマから取り寄せた特別な傷薬らしい。使ってくれ」
ローマから取り寄せた薬となれば相当高価なものだが、村人は一瓶丸ごと置いていった。
ぬるま湯に浸した布で全身を拭かれ、高価な傷薬を塗られた桔梗と睡蓮は細く切った麻布の包帯で、全身をグルグル巻きにされ桶のベッドに寝かされた。
桔梗と睡蓮が目を覚ましたのは翌日の昼過ぎだった。
桔梗は慌てた。
「お椀。お椀はどこだべ」
「心配せんでもええ、被っとるべ」
睡蓮は桔梗の頭を叩いた。
安堵した桔梗は顔をしかめた。
「全身が痛いべ」
「んだな」
二匹が目覚めたのを見たサシャはすぐさま桶のベッドに料理を用意した。二匹は急いで椀を脱ぎ酒の催促をする。サシャは口に手を当ててそんな二匹を笑った。
桔梗と睡蓮は貪るように料理を食べ、酒を呑んだ。
食事を終えると薬を塗り直し包帯を替えた。
「安静にしててくださいね」サシャは温かい眼差しで二匹を見た。
「まだ来んべか」
睡蓮が訊く。
「んだな、懲りたとは思うがヒツジに執着……というより狩りをしないことに誇りでも持ってるかのようだったべさ」
「んだな、臆病者はどっちだべさ」
睡蓮は母を侮辱されたことに腹を立てていた。
「おかじゃなかったな」
「いいべ、わだすにはキキョがいる。キキョにはわだすがいる」
「んだな」
桔梗と睡蓮は互いを見て出逢ったことに感謝した。
村人が長老の家に入ってきた。村人は二匹を見ると熱心に手を合わせ、長老を呼んだ。
「またでたらしい、キツネだ。ヒツジの柵に入っているとこを見つけたんだと。人を見たらさっさと逃げたらしいがな。首にかみ傷のある大きな狐だったとか」
長老は桔梗と睡蓮を見た。
「御狐様が戦ってくださったキツネだな」
それからキツネの目撃情報は増えていき、毎晩のように現れた。
「交代で見張りを立てるか」
「この先ずっとそうするわけにもいくまい」村人の問いに長老は答えた。
「柵をなんとかキツネの入れんものにするしかあるまい」
桶のベッドに寝かされて、桔梗と睡蓮はそんなやり取りを聞いていた。
「やっぱり倒さんなならん」
桔梗は眉間にシワを寄せた。
「勝てるべか」
睡蓮の質問に桔梗は無言で答えた。
神通力のおかげか二匹の傷は思っていたよりも早く治った。
サシャに抱きかかえられながら村を散歩してる間、二匹はひっきりなしに首を動かして奇襲できるポイントを探した。
「ほら綺麗でしょう」
そこは目にも鮮やかな一面の花畑だった。
一種類の花ではなく、複数の種類の花が咲き乱れていた。
心を和ませる優しい香りに包まれ様々な花が咲き誇るその光景は、二匹の尖った心を癒やしてくれた。
サシャは桔梗と睡蓮を放した。
地面は思っていたよりも柔らかいが、二匹が軽いため足を取られるほどではなかった。
畑に入り見上げる花は格別だった。
太陽光に透かされた幾重にも重なる花弁がとても美しい。
睡蓮は走り回って探した。
「どこだべ、あれはどこだべ」
ひたすら探した、キキョウの額にある桔梗の花を――さんざん走り回ったが、桔梗の花を見つけることはできなかった。
長老の家に帰り、二匹は久しぶりにみんなと食事をした。
その夜ベッドに入り桔梗が言った。
「今夜も来るべか、オスギツネ」
「そうとうお腹空かせてるべ。多分来るだ」
「おらたち匂いを覚えられてるベ」
「大丈夫だ、作戦がある」
睡蓮は真剣な眼差しで桔梗を見た。
夜半、二匹は台所へ向かった……
月は半分欠けていた。
真夜中過ぎ、オスギツネは首の傷に顔をしかめながら家々の間を、人間の匂いに注意を払いながらヒツジのいる柵に向かっていた。
――あの忌々しいメス子ギツネめ――
桔梗に恨みを抱くオスギツネはヒツジの柵に着いた。
慎重に人間の気配を探る。
鼻を鳴らし桔梗と睡蓮の匂いも確認した。
前脚で地面を削り柵の中に入ると、眠っているヒツジに静かに忍び寄った。
オスギツネがヒツジに飛びかかったその瞬間、びしょ濡れの桔梗と睡蓮が飛びついてきた。
オスギツネが目を丸くして飛び下がった時にはもう既に、桔梗と睡蓮はその首にそれぞれ犬歯を立てていた。
オス狐は悲鳴を上げながら狂ったように頭部を振り、桔梗と睡蓮は水しぶきを散らしながら振り回された。
桔梗と睡蓮は水を張った小さな桶に丸くなって入り、鼻と耳だけをだしてオス狐を待っていた。
そして桔梗の口からだす泡を合図に奇襲を掛けたのだ。
桔梗と睡蓮は手足でしがみ付いて頸動脈を探した。
そうしているうちにオスギツネは座り後ろ足で二匹を掻き落とそうとしてきた。
やはり最初に狙われたのは桔梗だった。
爪を立てた足で押されるのを必死で耐えた。小さな身体に爪が食い込み痛みで顔が歪む。
桔梗は顎に力を入れて思い切り頭を振った。首に大きな傷跡を残す。
「キャイ~ン」
オス狐の悲鳴を聞きながら、桔梗は蹴り飛ばされた。
睡蓮は懸命に動脈を探した。
オスギツネに思い切り蹴られる瞬間、頸動脈を見つけ顎に力を入れた。
しかし作戦は失敗である。
爪による傷を身体に負った二匹は、とりあえず逃げ出した。
その後をオスギツネは痛みに堪えながら追い掛ける。
二匹に振り返る余裕はなかった。
息を切らしながら睡蓮が言った。
「頸動脈に傷をつけただ」
「じゃあ時間との闘いだべ、長老の家に逃げ込むべか」
「わだすにいい考えがあるべ、付いてきてけろ」
睡蓮は踵を返した。
桔梗もその後を追う。
二匹はオス狐の股の間を巧みに避けて、家々の間を走り回った。
冷静さを取り戻したオスギツネは、匂いを頼りに落ち着いて探すことにした。
もちろん、屋根の上からの奇襲にも備えた。
そして、何軒かの家を過ぎ大きく角を曲がって驚愕した。
半分に掛けた月。その光に照らされた広い花畑に……
――あの子ギツネども――
匂いは残っている。
だが、鼻を鳴らせば鳴らすほど、様々な花の香りが混ざり分からなくなるのだ。
足下を気にしながら慎重に花畑へ踏み入る。
軟らかい土に足をとられ、上手く歩けずもどかしさを覚える。
ゆっくりとゆっくりと、花の下を覗き込みながら歩を進める。
二匹は耳をそばだてオス狐の進路を読み、花を揺らさないよう気を付けて茎の間を抜け先回りした。
オスギツネが待ち伏せているところまでくる。
オスギツネが花の下にいる桔梗を覗き込んだ瞬間、睡蓮が駆け出して反対側から首根っこに噛みついた。
悲鳴を上げるオスギツネの首に今度は桔梗が飛びつく。
再びオスギツネは悲鳴を上げた。
――今度は離さないべ――
桔梗は深々と犬歯を突き立てる。
――絶対噛み切ってやるだ、動脈――
睡蓮も決して離さない覚悟だ。
まずは桔梗が傷口を頼りに、頸動脈の弾ける感触を得た。
続いて睡蓮が先程傷つけた頸動脈を引き裂いた。
二匹はすぐさま離れ駆け出した。
オス狐はヨロヨロと数歩進み、休むようにその場に伏せた。
二匹はゆっくり近づく。
呼吸音はない。
耳を澄ませ心音がないのも確認した。
桔梗と睡蓮は花畑に埋もれるように座り込む。
「終わったべ」
桔梗が言う。
「んだな」
睡蓮が答える。
「こんな奴でも浄土の術で極楽さ送ってやるべか」
桔梗はオスギツネを見た。
「おかさんの悪口言ったのは許せねえけど、一応やっとくべさ」
浄土の術も神通力の一つで、死んだ生物の魂を極楽へと送ることが出来るのだ。
桔梗と睡蓮はやはり霊格が低いため、二匹じゃないと出来ない。
眠るように伏せているオスギツネの前で肉球を合わせた。
するとオスギツネの幼い頃の記憶が流れ込んできた。
乳を吸おうとするとつい噛んでしまい、母ギツネに叱られる。
兄弟姉妹と遊んでいるとつい興奮して、甘噛みのつもりが本気で歯を立ててしまい、母に噛まれ叱られる。
このキツネに悪意はないのだ。
気持ちと身体のバランスが少しばかり取れていないだけだ。
やがて兄弟姉妹たちから相手にされなくなり、母ギツネからも相手にされなくなった。
桔梗と睡蓮は自分たちを見ているようで、思わず涙を流した。
このオスギツネが巣立ってからは、棲んでいた森のほとんどを兄弟姉妹の縄張りにされ、出て行かざるをえなくなった。
長く歩いてようやく見つけた森も、ほとんどがキツネか獰猛な獣の縄張りになっており、結局産まれ育ったヤクタラ村の森の片隅に住むことになった。
初めてヒツジを襲ったのは飢えに耐えかねてのことだった。
桔梗と睡蓮は涙を流しながら、定められた文言を唱えた。
オス狐の全身からモヤのようなものが湧き上がり、中心でまとまると細い一筋の煙となって、天高く立ちのぼっていった。
唱え終えると睡蓮が目を開けて涙を拭った。
「わだすにはおかさんがいて良かっただ」
桔梗も涙を拭った。
「おかが、おかで良かっただ」
二匹は村人たちを安心させるため、オスギツネをヒツジの柵の前まで引っ張ってきた。
村人たちは大喜びだった。
二匹をすぐに長老の家に連れて行き、薬を塗ると布で巻いてベッドに寝かせた。
昨夜の作戦は睡蓮が考えたものだった。
長老宅の台所から小さめの桶を拝借して、川で水を汲みヒツジの柵の中心に配置することになったのだが、桶だけなら咥えて持っていっても問題なかった。
だが、水を入れると重たすぎて顎が外れそうだった。
結局、水の入った桶を抱きかかえ二足歩行で持っていくことになったのだが、霊力を回復しながら休み休みなので時間が掛かった。
挨拶してくる村人に適当に挨拶を返し、やっとの思いでヒツジのところまで運んだ。
だが、ここで重要な問題が発生した。
狐は極めて耳がいい。
その耳を活かすには椀が邪魔だ。
椀を長老宅に置いていこうという睡蓮に、桔梗は椀にもしものことがあったらいけないから、手元に置いておくべきだと主張するのである。
結局、桔梗の意見が押し通り、椀は自分たちが沈む桶に浮かべておくこととなった。
「ずっとお椀の底を見てたべか」
睡蓮は嫌みを言う。
「当然だべ。おかげで、もしものことはなかったべさ」
「お椀に起きるもしものことって、何だべ」
「……注意するに超したことはないべ」
「どっかで、もっと良いお椀見つければいいべ」
「んだな」
「これからどうするべ」
「そろそろ行くべか。身体はどうだべ」
「痛いけどこの白いの巻いとけば大丈夫だべ」
「じゃあ今夜行くべか」
ヒツジが見下ろせる屋根の上で桔梗と睡蓮は鳴いた。
「したっけー」




