第十二話 サシャ
長老の家は広く子供から大人まで、多くの家族が住んでいた。子供たちは躾ができているのか、むやみに桔梗や睡蓮を構ってくることはなかった。
広間の中央には大きなテーブルがあり沢山の椅子が並べられていた。
部屋の隅には大きな桶に藁を敷き詰め麻布を掛けたものが置いてあった。
「ここで休んでくださいね」
家族の一人がそう声を掛けてきたので、二匹は少しの間休むことにして、その上で丸くなった。
鼻をくすぐるかぐわしい香りに目を覚ました二匹は、テーブルに並ぶ豪華な食事に胸を踊らせた。
桔梗と睡蓮は並んで椅子に飛び乗り、食事の開始を待った。
長老の合図で食事が始まるとまずは酒が入った椀が運ばれてきた。
「この匂い、酒だべさ」
嬉しそうな桔梗は早速酒に舌を浸けた。
睡蓮も酒を呑み始める。
酒を呑み終えると桔梗は椀の縁に爪を軽く立てた。
空の椀が心地よい音を立ててわずかに揺れる。
二匹の前に運ばれてきた料理は昼にも増して豪華なものだった。
長老はどうぞ食べてくださいと、掌で料理を盛り合わせた皿を示した。
見ていると男が料理を盛り付けた皿を女性に渡していた。
「これを持っていってあげなさい」
女性は返事をしてその皿を受け取ると、奥の部屋へと消えていった。
桔梗と睡蓮は自分たち以外にも獣がいるのだと思い、あとで奥の部屋を覗いてみることにした。
料理はどれも目新しく美味しい物ばかりだった。
酒も呑み干し満足した桔梗は、椀の縁に爪を掛け揺れるのを眺めていた。
「この丸いの便利だべ」
「どんなふうにだ」
「川から水を汲んできて餌の横に置いとけば、いちいち川縁までいかなくて済むべ」
睡蓮は椀をまじまじと眺めた。
「んだな。でもどうやって持ち運ぶだ。狩りの時はどうするベ」
桔梗は軽く木を薄く削り出した椀の縁を噛むと持ち上げて、強く噛んだ瞬間鼻先を上げる。
椀が鼻梁を一回転して目の前まで来ると、鼻で跳ね上げて頭で受けとめた。椀は耳ごと額から上を隠すように被さった。
桔梗は自慢げに言う。
「これでいいべ」
睡蓮も真似て椀を被った。
「水を飲む時は下に落とすべか。転がってどこさ行くか分からんベさ」
「こうするべ」
桔梗は頭を下げて椀が落ちてきたところを鼻梁で受け止めると、一回転した椀を鼻先に来たところで椀の縁を咥えて受け止めた。
睡蓮もまねをした。
「出来たべ」
二匹は何度も椀を被ったり脱いだりしていた。
それを見ていた長老がにこやかに微笑んだ。
「気に入ったなら持っていってください」
二匹は、コン、と鳴いた。
「よかったベ、嬉しいべ、川の水飲むの楽しみだべ」
桔梗はご満悦だった。
「奥の部屋さ行ってみるベか」
睡蓮は料理の盛り合わせが運ばれた部屋の方向を見た。
「んだな」
二匹は椀を被ったまま奥の部屋に行ってみた。
壁の高い位置にいくつかの窓が設けられたその部屋には、十代半ばと思われる少女が壁に背を預けベッドに座っていた。
二匹に気付いた少女は物憂げな表情を一変させ、顔を輝かせ二匹に腕を広げた。
「あなたたちが御狐様ね。聞いていたよりもうんと可愛いのね。さあ、こっちにいらっしゃい」
二匹はベッドに飛び乗り驚いた。
少女の両脚は太股の半分から下が失われていたのだ。
少女にとってそれは当たり前かのように、気にすることなく二匹を抱きかかえた。
「綺麗な模様、綺麗な瞳に長いまつ毛。それにとてもいい匂い。あなたたちはなんて可愛いの」
そして少女はクスクスと笑う。
「そのお椀どうしたの?」
少女は何度も桔梗と睡蓮に鼻をこすり付けた。
神通力の癒やしの術でもさすがにこれは無理だ。霊力が圧倒的に足りないのだ。
二匹は胸を痛めた。
「孫のサシャです。幼い頃、馬車に轢かれましてな」
背後で声がした。長老が哀れみの視線を少女に向けていた。
少女の顔が曇る。
「それ以来、十年以上ずっとこのような生活です」
少女は桔梗と睡蓮を静かに放した。二匹は長老の足下に歩みよった。
老人は呟くようにささやいた。
「これでは何のために産まれてきたのか」老人は涙を流した。
「不憫で不憫でなりません。あまりに可愛そうです」
車椅子も義足もない。彼女にとって世界は窓から見える景色だけなのだ。
長老の後ろでは少女の両親も涙を流していた。
桔梗は思った。
――光るしとは言ってただ。何故産まれてきたかはどう生きるかで決まると。彼女が産まれた理由を見つけるには、どうすればいいべ。それに今のおらにはスイがいるべさ。以前のように泣くことはないだ。でもこの家族は違うベ。これまでも、この先も泣き続けんといかんべ――
床に就いても桔梗の胸が晴れることはなかった。
浅い眠りの中睡蓮に起こされた。
「夜くるキツネはおかさんかも知れね。行ってみるベ」
「んだな」
二匹は窓から静かに外へ出た。
ヒツジは寝ていた。
二匹は並んでキツネがくるのを待った。
睡蓮は静かに口を開いた。
「キツネがおめさんのおかさんだったらどうする」
「……話さして、それで終わりだべ。おめはどうする」
「わだすも話さするだけだべ、それでちょっとだけ大きくなったこと教えて、狩りが上手くなったこと教えて、虫が食べられるようになったこと教えて、友達が出来たこと教えて……それくらいだべ」
二匹は複雑な思いで森があるであろう方向を見ていた。
うつらうつらしていると、日が昇り始めた。
「来なかったな」
睡蓮は残念そうに呟いた。
「んだな、明日また来るべ」
桔梗が立ち上がっても、睡蓮は伏せたままだった。
「行くべ」
少し間を置いて睡蓮が口を開いた。
「やってみるべ、癒やしの術……」
睡蓮もまたサシャのことを真剣に考えていたのだ。
「霊力が尽きると、大変なことになるべさ」
「やってみる価値はある……考えがあるべさ。キキョはサシャの産まれた意味を見つけてやりてえんだべさ?」
桔梗は睡蓮の思いに胸が締め付けられた。
「んだ。幸せになって欲しい。産まれてきてよかったと思ってほしい。おらがスイと出逢って毎日が楽しいように」
桔梗の頬を美しい涙が一粒流れ落ちた。




