第十話 ありがとうの意味
まどろむ時間と空間の中、桔梗と睡蓮は二つの世界を往来していた。
一つの世界は空高くにあり一つは地の底深くにあった。
白く黒いそんな二つの世界だ。
高い空のその上にある世界で、二匹は同じ夢を見た。
別々に見ている夢なのに同じ夢の中にいるのだ。
カンナン村の森を流れる川を見つめ、座って互いの思いに共感していた。
ここがなぜ空より高い世界なのか、二匹には感覚で分かっていた。
「人間は恐いべ」
桔梗の震える声に睡蓮が応える。
「んだ、でも餌をくれる時もあるベ」
「んだな。でも獣は怖いか優しいか一目見たら分かるべさ」
「獲物にするか獲物になるか、それだけだったべ」
川は相変わらずとうとうと流れていた。大きな満月が二匹を照らす。
対岸の森と荘厳な景色が紫眼と桃眼に写る。
川面を揺らめく光に桔梗と睡蓮は気が付いた。
それは縦に伸びて川の上に立つ。光る人の姿となった。
頭頂部で団子にまとめた短髪を風に揺らし、片方の肩から掛けたしなやかな絹の布で全身を覆い、端整な顔立ちに湛えた穏やかな眼差しを桔梗と睡蓮に向けていた。
全身が光に覆われているのだが、その姿ははっきりと見て取れた。
「あなたたちは楽しく生きればいいのです」
輝く人は言った。
「楽しく生きるってどうすればいいベ」
桔梗は首を傾げた。
「どういう時が楽しいですか」
桔梗はしばらく考えて答えた。
「スイと一緒に居る時だべ」
「では、どこかの山奥で二匹、静かに暮らしてみますか」
二匹が考えていると光る人は再び訊いてきた。
「人間が困っていたらどうしたいですか」
「助けたい」
桔梗と睡蓮は口を揃えた。
「では、山奥に住んでいては助けられませんね」
「でも怖い人間もいるだ。ああいう人間は助けたくないし、会いたくもないべさ」
桃色の瞳が恐怖に歪んだ。
「森には蛇がいます。それ以外にもあなたたちを襲おうとする獣たちもいます。会いたくないと思えば会わずに済みますか」
「済まねえだ」
桔梗は睡蓮や少女が蛇に噛まれた時のことを思い起こすと、声に力がこもった。
「生きていれば嫌なこともあるものです。自分に理解のできないこともあるものです。それは深く考えず、その都度対処生きればいいだけなのです」
「生きる……」桔梗はうつむく「おらはどうして産まれただ……どうして他のみんなと違うべか、どうしてこんなに気持ちの悪い見た目だか」
「あなたは気持ち悪くなんてありません。あなたたちは他の誰よりも立派なキツネです。それを知るために神通力を得たのです。そして何故産まれたかは、これからどのように生きるかで決まるものなのです」
「どのように生きたらいいベさ」
睡蓮は追いすがるように立ち上がり前に進んだ。
「それを考えるためにあなたたちは出会ったのです」光る人が両方の掌をかざすとその上にいっそう輝く光の球が現れた「時間です。最後にこれをあげましょう。あなたたちの生き方にきっと役に立つことでしょう」
そう言うと左右の掌で輝く光の球にふっ、ふっと息を吹きかけた。
輝く球は桔梗と睡蓮の小さな胸に吸い込まれ、それを見届けると光る人は川の流れに消えていった。
胸に入った輝く球は二匹の心へ浸透した。
それは二匹への母たちの思いだった。
母は日々どれだけ気に掛け、心配し、無事な姿を見ると心から安堵したことか、充分な餌を与えてやれず日々悔やんでいたことや、足の傷を、背中を舐めてくれることがとても嬉しかったこと、一緒に狩りに行くことがとても楽しかったことなど、二匹を常にそばで感じていたいという気持ち、そして何より他の兄姉とは違う桔梗と睡蓮への特別な思いが、心の中に溶け込んでいった。
そして、母の大きな愛を受け止めることが出来た。
胸の奥深くに突き刺さっていた棘がすっと抜け落ちていった。
桔梗と睡蓮は頬を濡らし抱き合うと、そのまま眠りについた。
眠りについたかと思うと目を覚ました。日はとっくに昇っていた。
「何だったんだベ」
睡蓮は涙を拭いながら桔梗に訊いた。
桔梗もまた涙を拭いながら嬉しそうにした。
「光るしといたべ。おらのこと嘘吐きじゃなくキキョって呼んでけろ」
「でも、多分あれは夢だべさ」
「同じ場所に一緒にいたべ」
「でも夢だべさ。それよりここはどこだ」
睡蓮は辺りを見回した。
前方は上流よりはるかに流れの速い川、背後は空、左右は崖、そして足下は高い滝。
桔梗と睡蓮は微妙なバランスで引っ掛かっている、流木の上にいた。
困惑する桔梗に睡蓮は呟いた。
「これは……運が良いだか、悪いだか」
「この滝は飛び込むと浮いてこれねえかもしてねえな」
桔梗がそっと足下を覗き込む。
睡蓮は川を見つめた。
「この川を泳ぎ切るのはきついベ。それにどうせならウサギのとこまで戻りたいベ」
「スイ、今はウサギのことは忘れるべさ」
「下手に動くとこの木ごと真っ逆さまだべ」
二匹が腕を組んで考えていると、人間の声が聞こえた。神通力のおかげで言葉の意味がはっきり分かる。
「居たぞー」
腰に縄を括った三人の男が二匹に向かって川を下ってきた。
「あれ昨日畑仕事をしていた村人たちでねえべか」
桔梗は手で目の上にひさしを作った。
「んだな。助けにきたべか、よかったべ」
睡蓮は安堵し大の字で寝転んだ。
バランスを崩した流木が傾いた。
「何してるベ! スイ!」
傾いていく流木を二匹は掛け上がり、川に飛び込むと全力で泳いだ。
村人たちは悲鳴を上げた。
桔梗と睡蓮は懸命に泳ぐが、少し油断すると押し戻される。
「スイ頑張れ!」
「呼び方短くしといて良かったベ、キキョ」
少しずつでも二匹は進み、村人たちも必死に手を伸してきた。
ほどなく、二匹は無事に救助されることとなった。
川を遡上しながら聞いていると、幼い少年が目を覚ますと二匹は川に叩き付けられるところだったという。
人間の言葉が聞き取れるようになった桔梗と睡蓮は、名前の概念も理解できるようになった。
幼い少年の名はアベイ。九歳になる。
カンナン村の少女の名はなんて言う名前だったんだろう、と桔梗と睡蓮は遠くの空を見上げた。
アベルが目を覚ますと父親は彼を抱きしめた。号泣する父親が包丁を投げたところを見ていたアベルは、突き放し流される二匹を追って川縁を走った。
アベルとその父親が家に居ないのを不審に思った母親が、川辺で見たのは後悔の念にさいなまれる無様を晒す男の姿だった。
アベルを追って抱き止める母親が激昂したのは、事情を聞いたからに他ならない。
母親とアベルは村中を周りながら住人を叩き起こすと、御狐様の捜索を依頼した。
これに同意しない村人は誰一人いなかった。
うずくまるアベルの父親を尻目に、村人たちは川岸の捜索も含め慎重に川を下っていった。
そしてようやく見つけ出されたのが、昼前の今しがたということだ。
村へと続く川辺に着いた時、睡蓮は驚き村人に抱かれたまま声を上げた。
「いないべ!」
対岸にあるはずのウサギが二匹とも消えていた。
「また狩るベさ」
桔梗は睡蓮をなだめた。
村に着くとちょっとしたお祭り騒ぎだった。村人たちは抱かれる二匹を囲んだ。
アベルが駆け寄り二匹に抱きつくと涙を流した。
「闇の中で迷っているところ、助けに来てくれてありがとう」
母親もアベルごと二匹を包みこんだ。
「本当にありがとう」
「ありがとう。なんかいい言葉だべな」
桔梗と睡蓮は顔を見合わせた。
みんなから長老と呼ばれている老人が穏やかに声を掛けてきた。
「うちで食事をしていきませんか」
「食事だべ」
二匹は、コンコンとけたたましく鳴いた。
村人たちは大いに笑った。
「じゃあうちの前にテーブルを出して、皆で食事としよう」
長老の掛け声に村人たちは沸いた。
食事の仕度ができる間、桔梗と睡蓮はアベルの家を覗いた。
父親は両手両足を縛られて椅子に座っていた。
二匹を見つけるとその目から大粒の涙をポロポロと流し、テーブルに頭を叩き付けた。
「本当に申し訳ございませんでした。お許しください。もう決してお酒は飲みません。今後はこれまでの分もあの子を大切にします。アベルの幸せだけを考えて生きていきます。それから……それから……」
その間は言葉を選んでいるというよりも、どうすれば本心が伝わるかを考えているようだった。
「息子の命をお救いくださり、ありがとうございました」
母が自分たちのことを愛してくれたように、この男もまたこの男なりに幼い少年を愛していたのだな、と桔梗と睡蓮はしみじみ感じた。




