第9話:朝比奈乃亜
秋葉原、ラジオセンターの地下深くに存在する第零技術局の本部。
その一角にある医務室は、病院特有の消毒液の匂いではなく、ハンダごての焼ける匂いと強いメンソールの香りが混ざり合っていた。
「……はい、これで処置は完了だ。傷口の縫合も済ませたが、あまり無理に動かすなよ」
白衣を着た中年の局員医師が、ピンセットをトレイに投げ入れた。
ベッドに腰掛けたカナの左肩には、真新しいガーゼと包帯が巻かれている。
麻酔が切れ始め、ズキズキとした鈍痛が戻ってきていたが、それは「生身の傷」の痛みだ。上位者の毒による「侵食痛」は、別の手段で抑え込むしかない。
「ほら、いつものやつだ。補給しておいたぞ」
医師が放り投げてきたのは、市販の『フリスク』や『ミンティア』のような、小さなプラスチックケースだった。
中に入っているのは、ただの清涼菓子ではない。
上位者の構成物質を中和し、体内での増殖を遅らせるための、組織特製の抑制剤だ。痛み止めの役割も果たす。
「ありがとうございます……」
カナはケースを振り、二粒ほど取り出して口に放り込んだ。
強烈なミントの刺激と、舌が痺れるような化学的な苦味。
これが、彼女が「人間」でいられるための生命線だ。
「局長には私から報告を入れておく。『今日はもう帰して休ませろ』とな。……学生なんだから、たまには早く帰って寝ろ」
医師はぶっきらぼうに言いながらも、その目には父親のような気遣いがあった。
この組織の人間は皆そうだ。
口は悪いが、どこか過保護だ。
それは彼らが知っているからだ。
まだ十代の少女たちが背負うには、この任務があまりにも過酷で、本来なら大人が引き受けるべき「毒」を彼女たちに代行させているという事実を。
カナは頭を下げて医務室を出た。重い鉄扉を抜け、地上へと続く階段を上がる。
ポケットのガラケーが震えた。
【メール受信:椚】
【件名:無題】
『今日は帰って休め。メンテナンスは後日でいい』
たった一行のメール。カナは小さく苦笑して、携帯を閉じた。
「……了解です」
秋葉原の夜風は冷たかった。
ネオンサインが煌めく電気街を背に、カナは総武線のガード下を歩き出した。
浅草橋のセーフハウスに戻ると、カナは泥のように重い体を引きずって玄関に座り込んだ。
靴を揃える気力もない。ローファーを脱ぎ捨て、部屋に入る。
「……あー、しんど」
誰もいない部屋で、独り言が空虚に響く。
カナは左肩を庇いながら、慎重にジャージを脱いだ。
鏡に映る体は、包帯と絆創膏だらけだ。
デコルテや二の腕には、半感染の証である黒い幾何学模様が、タトゥーのように浮かび上がっている。
抑制剤のおかげで色は薄くなっているが、消えることはない。
(一生、このままなのかな)
ふとした瞬間に襲ってくる絶望を振り払うように、カナは大きめのTシャツとスウェットパンツに着替えた。
お腹は空いているはずなのに、食欲が湧かない。
冷蔵庫にある昨日の残りのハンバーグも、今はただの油の塊に見える。
カナはそのまま、吸い込まれるようにベッドへダイブした。
スプリングが軋む音。
枕に顔を埋めると、洗剤の香りと、自分の汗の匂いがした。
それが妙に落ち着く。
(……あぁ、お風呂入んなきゃ)
傷口を濡らさないようにシャワーを浴びるのは面倒だ。
でも、髪についた埃や、戦場の匂いを落としたい。
思考がまとまらない。意識が水底へと沈んでいく。
また、女子力を。いや。《《人間》》を捨ててしまう。その時だった。
『……コン、コン』
控えめだが、たしかなノックの音が聞こえた。
カナは跳ね起き、枕元に転がったMDプレーヤーを掴もうとした。
だが、すぐに思い直した。このセーフハウスの場所を知っているのは、組織の人間だけだ。そして、この控えめなノックのリズムには聞き覚えがあった。
「……誰?」
警戒しつつドアに近づく。
『……私。ノア』
ドア越しに聞こえたのは、鈴を転がすような、か細い少女の声だった。
ガチャリと鍵を開けると、そこに立っていたのは、灰色の巨大なパーカーに身を包んだ小柄な影だった。
朝比奈 乃亜。
フードを目深に被り、首には彼女の体の一部のような大きなヘッドホン。手にはコンビニの袋が提げられている。
「……ノア? どうしたの、急に」
「……カナさんの生体バイタル、すごく乱れてたから。……心配で」
ノアは俯いたまま、ボソボソと呟いた。
彼女は303号室の住人であり、このチームの「目」であるオペレーターだ。普段は自分の部屋(電子要塞)から一歩も出ない彼女が、わざわざ隣の部屋まで来るのは珍しい。
「そっか。……ごめんね、心配かけて。入って」
カナが招き入れると、ノアは音もなく部屋に入り、部屋の隅にあるクッションにちょこんと座った。まるで捨て猫のような佇まいだ。
「これ……差し入れ」
ノアがコンビニ袋から取り出したのは、『ウィダーinゼリー』とプリン、そしてホットレモンだった。病人でも怪我人でも喉を通るものばかりだ。その不器用な優しさに、カナの胸が少しだけ温かくなる。
「ありがとう。ちょうど、お腹空いてたんだ」
カナがプリンを開けると、ノアは少しだけ安心したようにパーカーのフードを外した。
露わになったその素顔は、薄暗い部屋の中でも発光しているかのように整っていた。
色素の薄い茶色の髪。透き通るような白い肌。
そして何より、顔の半分を占めるのではないかと思うほど大きな瞳。
その容貌は、今まさにテレビで見ない日はないトップアイドル——鈴木あみや、雑誌の表紙を飾り続けている広末涼子を彷彿とさせる、完成された「美少女」そのものだった。
身なりさえきちんとして街を歩けば、間違いなくスカウトマンの列ができるだろう。だが、その瞳には光がない。
深い絶望を見てしまった者特有の、静かな諦観が漂っている。
「……痛む?」
ノアがカナの左肩を見て言った。
「うん、ちょっとね。でも薬飲んだから大丈夫」
「……そっか」
会話が途切れる。でも、気まずくはない。
彼女たち——カナ、リコ、ノアの三人は、言葉を交わさなくても通じ合う部分がある。
彼女たちは全員、3年前に起きた「地下鉄トンネル崩落事故」——そう報道されている大規模災害の被害者だ。
公式発表では「老朽化したトンネルの崩壊とガス管の破裂」とされている。
だが、事実は違う。
あの夜、地下鉄のホームで起きたのは、大規模な位相崩壊だった。
空間が裂け、見たこともない怪物が溢れ出し、人々が「部品」に変えられていった地獄。
その中で、適合者として覚醒し、生き残ったのがこの三人だけだった。
家族も、友人も、本来の日常も、すべてあそこに置いてきた。
「生き残り三姉妹」。
局の人間はそう呼ぶが、それは美しい絆などではない。
同じ地獄を見て、同じ呪いを体に宿し、同じ復讐心だけで繋がっている、奇妙な運命共同体だ。
「……学校、どうだった?」
ノアが唐突に聞いてきた。
「え?」
「……カナさんが命がけで守った場所。……みんな、元通りになった?」
「うん。……完璧だったよ。誰も何も覚えてない」
カナは自嘲気味に笑い、スプーンでプリンを突いた。
「私が戦ったことも、自分たちが消えかけてたことも、最初から無かったことになってる。灰谷さんたちの仕事のおかげでね。……それが、私たちの任務だから」
誰にも知られず、誰にも感謝されず、日常を守る。
それが正解だ。
けれど、その「正解」が、時々ひどく冷たく感じる。
教室での笑い声の中に自分だけがいないような、透明人間になったような感覚。
「……ノアは? 学校、行ってないの?」
カナは話題を変えた。
ノアは15歳。本来なら中学3年生で、高校受験の真っ只中だ。
だが、彼女が学校に通っている様子はない。
「……行ってない。行く意味、ないし」
ノアは膝を抱えて、さらに小さくなった。
「担任の先生とか、何度か連絡あったみたいだけど……紗夜さんが『処理』したみたい。海外留学することになった、とか言って」
九条院紗夜の根回しだ。彼女の手にかかれば、戸籍上の事実さえも書き換えられる。
ノアは社会的には「不在」の存在となり、この閉じた世界で、モニターと向き合うだけの生活を送っている。
「……高校、行きたくないの?」
カナが尋ねると、ノアは首を横に振った。
「怖いもん」
「え?」
「人間が、怖い。……あの日、みんな、怪物になる前に……お互いを突き飛ばして、自分だけ助かろうとしてた。……私、それを見てた」
ノアの大きな瞳が揺れた。
彼女はカナよりも幼い12歳で、人間の醜悪さと、世界の理不尽さを同時に見てしまったのだ。
だから彼女は、リアルな人間関係を拒絶し、0と1で構成されたデジタルの世界にしか居場所を見いだせない。
「でも……カナさんとリコさんは、違うから」
ノアはポツリと言った。
「二人は、私を見捨てなかった。……だから、平気」
カナはスプーンを置いた。甘いプリンの味が、喉の奥で詰まるような気がした。
あの日、逃げ惑う地下鉄の中で、カナの手を引いてくれたのはリコだった。
そして、瓦礫の下で泣いていたノアを背負って走ったのは、カナだった。
理由なんてない。
正義感でもない。
ただ、あの極限状態で、自分と同じ「目」をしている人間を見捨てることができなかっただけだ。
「……そっか。私も、ノアがいてくれてよかったよ」
カナがそう言うと、ノアは照れくさそうにヘッドホンを耳に戻し、視線を逸らした。
「……長居した。帰る」
ノアは立ち上がり、パーカーのフードを深く被り直した。
再び「引きこもりのハッカー」に戻る儀式のように。
「ありがとう、ノア。またね」
ノアは無言で小さく手を振り、部屋を出て行った。
ドアが閉まる音が、静寂を取り戻す。
カナは空になったウィダーinゼリーの容器を握りしめた。
孤独ではない。傷の痛みも、失った過去も、共有できる相手がいる。
たとえそれが、傷を舐め合うような歪な関係だとしても、今のカナにとっては、それが唯一の救いだった。
(……お風呂、入ろう)
カナは立ち上がった。少しだけ、体が軽くなった気がした。
明日もまた、嘘で塗り固められた日常が待っている。
でも、帰ってくる場所には、確かに仲間がいる。
湯船にお湯を張りながら、カナはあゆの曲を口ずさんだ。
その歌声は、夜の浅草橋の雑踏に、密やかに溶けていった。




