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MADE IN 東京  作者: 水色蛍
0番目の修理屋編
9/19

第9話:朝比奈乃亜

秋葉原、ラジオセンターの地下深くに存在する第零技術局の本部。

その一角にある医務室は、病院特有の消毒液の匂いではなく、ハンダごての焼ける匂いと強いメンソールの香りが混ざり合っていた。


「……はい、これで処置は完了だ。傷口の縫合も済ませたが、あまり無理に動かすなよ」


白衣を着た中年の局員医師が、ピンセットをトレイに投げ入れた。

ベッドに腰掛けたカナの左肩には、真新しいガーゼと包帯が巻かれている。


麻酔が切れ始め、ズキズキとした鈍痛が戻ってきていたが、それは「生身の傷」の痛みだ。上位者の毒による「侵食痛」は、別の手段で抑え込むしかない。


「ほら、いつものやつだ。補給しておいたぞ」


医師が放り投げてきたのは、市販の『フリスク』や『ミンティア』のような、小さなプラスチックケースだった。


中に入っているのは、ただの清涼菓子ではない。


上位者の構成物質を中和し、体内での増殖を遅らせるための、組織特製の抑制剤だ。痛み止めの役割も果たす。


「ありがとうございます……」


カナはケースを振り、二粒ほど取り出して口に放り込んだ。

強烈なミントの刺激と、舌が痺れるような化学的な苦味。

これが、彼女が「人間」でいられるための生命線だ。


「局長には私から報告を入れておく。『今日はもう帰して休ませろ』とな。……学生なんだから、たまには早く帰って寝ろ」


医師はぶっきらぼうに言いながらも、その目には父親のような気遣いがあった。

この組織の人間は皆そうだ。


口は悪いが、どこか過保護だ。


それは彼らが知っているからだ。

まだ十代の少女たちが背負うには、この任務があまりにも過酷で、本来なら大人が引き受けるべき「毒」を彼女たちに代行させているという事実を。


カナは頭を下げて医務室を出た。重い鉄扉を抜け、地上へと続く階段を上がる。

ポケットのガラケーが震えた。


【メール受信:くぬぎ

【件名:無題】

『今日は帰って休め。メンテナンスは後日でいい』


たった一行のメール。カナは小さく苦笑して、携帯を閉じた。


「……了解です」


秋葉原の夜風は冷たかった。

ネオンサインが煌めく電気街を背に、カナは総武線のガード下を歩き出した。


浅草橋のセーフハウスに戻ると、カナは泥のように重い体を引きずって玄関に座り込んだ。


靴を揃える気力もない。ローファーを脱ぎ捨て、部屋に入る。


「……あー、しんど」


誰もいない部屋で、独り言が空虚に響く。


カナは左肩を庇いながら、慎重にジャージを脱いだ。

鏡に映る体は、包帯と絆創膏だらけだ。


デコルテや二の腕には、半感染の証である黒い幾何学模様が、タトゥーのように浮かび上がっている。

抑制剤のおかげで色は薄くなっているが、消えることはない。


(一生、このままなのかな)


ふとした瞬間に襲ってくる絶望を振り払うように、カナは大きめのTシャツとスウェットパンツに着替えた。


お腹は空いているはずなのに、食欲が湧かない。

冷蔵庫にある昨日の残りのハンバーグも、今はただの油の塊に見える。


カナはそのまま、吸い込まれるようにベッドへダイブした。

スプリングが軋む音。

枕に顔を埋めると、洗剤の香りと、自分の汗の匂いがした。


それが妙に落ち着く。


(……あぁ、お風呂入んなきゃ)


傷口を濡らさないようにシャワーを浴びるのは面倒だ。

でも、髪についた埃や、戦場の匂いを落としたい。

思考がまとまらない。意識が水底へと沈んでいく。


また、女子力を。いや。《《人間》》を捨ててしまう。その時だった。


『……コン、コン』


控えめだが、たしかなノックの音が聞こえた。


カナは跳ね起き、枕元に転がったMDプレーヤーを掴もうとした。


だが、すぐに思い直した。このセーフハウスの場所を知っているのは、組織の人間だけだ。そして、この控えめなノックのリズムには聞き覚えがあった。


「……誰?」


警戒しつつドアに近づく。


『……私。ノア』


ドア越しに聞こえたのは、鈴を転がすような、か細い少女の声だった。


ガチャリと鍵を開けると、そこに立っていたのは、灰色の巨大なパーカーに身を包んだ小柄な影だった。


朝比奈あさひな 乃亜のあ


フードを目深に被り、首には彼女の体の一部のような大きなヘッドホン。手にはコンビニの袋が提げられている。


「……ノア? どうしたの、急に」

「……カナさんの生体バイタル、すごく乱れてたから。……心配で」


ノアは俯いたまま、ボソボソと呟いた。

彼女は303号室の住人であり、このチームの「目」であるオペレーターだ。普段は自分の部屋(電子要塞)から一歩も出ない彼女が、わざわざ隣の部屋まで来るのは珍しい。


「そっか。……ごめんね、心配かけて。入って」


カナが招き入れると、ノアは音もなく部屋に入り、部屋の隅にあるクッションにちょこんと座った。まるで捨て猫のような佇まいだ。


「これ……差し入れ」


ノアがコンビニ袋から取り出したのは、『ウィダーinゼリー』とプリン、そしてホットレモンだった。病人でも怪我人でも喉を通るものばかりだ。その不器用な優しさに、カナの胸が少しだけ温かくなる。


「ありがとう。ちょうど、お腹空いてたんだ」


カナがプリンを開けると、ノアは少しだけ安心したようにパーカーのフードを外した。

露わになったその素顔は、薄暗い部屋の中でも発光しているかのように整っていた。


色素の薄い茶色の髪。透き通るような白い肌。

そして何より、顔の半分を占めるのではないかと思うほど大きな瞳。


その容貌は、今まさにテレビで見ない日はないトップアイドル——鈴木あみや、雑誌の表紙を飾り続けている広末涼子を彷彿とさせる、完成された「美少女」そのものだった。


身なりさえきちんとして街を歩けば、間違いなくスカウトマンの列ができるだろう。だが、その瞳には光がない。


深い絶望を見てしまった者特有の、静かな諦観が漂っている。


「……痛む?」


ノアがカナの左肩を見て言った。


「うん、ちょっとね。でも薬飲んだから大丈夫」

「……そっか」


会話が途切れる。でも、気まずくはない。

彼女たち——カナ、リコ、ノアの三人は、言葉を交わさなくても通じ合う部分がある。


彼女たちは全員、3年前に起きた「地下鉄トンネル崩落事故」——そう報道されている大規模災害の被害者だ。


公式発表では「老朽化したトンネルの崩壊とガス管の破裂」とされている。


だが、事実は違う。


あの夜、地下鉄のホームで起きたのは、大規模な位相崩壊パンデミックだった。


空間が裂け、見たこともない怪物が溢れ出し、人々が「部品」に変えられていった地獄。


その中で、適合者として覚醒し、生き残ったのがこの三人だけだった。

家族も、友人も、本来の日常も、すべてあそこに置いてきた。


「生き残り三姉妹」。


局の人間はそう呼ぶが、それは美しい絆などではない。

同じ地獄を見て、同じ呪いを体に宿し、同じ復讐心だけで繋がっている、奇妙な運命共同体だ。


「……学校、どうだった?」


ノアが唐突に聞いてきた。


「え?」

「……カナさんが命がけで守った場所。……みんな、元通りになった?」


「うん。……完璧だったよ。誰も何も覚えてない」


カナは自嘲気味に笑い、スプーンでプリンを突いた。


「私が戦ったことも、自分たちが消えかけてたことも、最初から無かったことになってる。灰谷さんたちの仕事のおかげでね。……それが、私たちの任務しごとだから」


誰にも知られず、誰にも感謝されず、日常を守る。

それが正解だ。


けれど、その「正解」が、時々ひどく冷たく感じる。

教室での笑い声の中に自分だけがいないような、透明人間になったような感覚。


「……ノアは? 学校、行ってないの?」


カナは話題を変えた。

ノアは15歳。本来なら中学3年生で、高校受験の真っ只中だ。

だが、彼女が学校に通っている様子はない。


「……行ってない。行く意味、ないし」


ノアは膝を抱えて、さらに小さくなった。


「担任の先生とか、何度か連絡あったみたいだけど……紗夜さんが『処理』したみたい。海外留学することになった、とか言って」


九条院紗夜の根回しだ。彼女の手にかかれば、戸籍上の事実さえも書き換えられる。

ノアは社会的には「不在」の存在となり、この閉じた世界で、モニターと向き合うだけの生活を送っている。


「……高校、行きたくないの?」


カナが尋ねると、ノアは首を横に振った。


「怖いもん」

「え?」

「人間が、怖い。……あの日、みんな、怪物になる前に……お互いを突き飛ばして、自分だけ助かろうとしてた。……私、それを見てた」


ノアの大きな瞳が揺れた。


彼女はカナよりも幼い12歳で、人間の醜悪さと、世界の理不尽さを同時に見てしまったのだ。

だから彼女は、リアルな人間関係オフラインを拒絶し、0と1で構成されたデジタルの世界オンラインにしか居場所を見いだせない。


「でも……カナさんとリコさんは、違うから」


ノアはポツリと言った。


「二人は、私を見捨てなかった。……だから、平気」


カナはスプーンを置いた。甘いプリンの味が、喉の奥で詰まるような気がした。


あの日、逃げ惑う地下鉄の中で、カナの手を引いてくれたのはリコだった。

そして、瓦礫の下で泣いていたノアを背負って走ったのは、カナだった。


理由なんてない。

正義感でもない。


ただ、あの極限状態で、自分と同じ「目」をしている人間を見捨てることができなかっただけだ。


「……そっか。私も、ノアがいてくれてよかったよ」


カナがそう言うと、ノアは照れくさそうにヘッドホンを耳に戻し、視線を逸らした。


「……長居した。帰る」


ノアは立ち上がり、パーカーのフードを深く被り直した。

再び「引きこもりのハッカー」に戻る儀式のように。


「ありがとう、ノア。またね」


ノアは無言で小さく手を振り、部屋を出て行った。

ドアが閉まる音が、静寂を取り戻す。


カナは空になったウィダーinゼリーの容器を握りしめた。

孤独ではない。傷の痛みも、失った過去も、共有できる相手がいる。


たとえそれが、傷を舐め合うような歪な関係だとしても、今のカナにとっては、それが唯一の救いだった。


(……お風呂、入ろう)


カナは立ち上がった。少しだけ、体が軽くなった気がした。

明日もまた、嘘で塗り固められた日常が待っている。

でも、帰ってくる場所ホームには、確かに仲間がいる。


湯船にお湯を張りながら、カナはあゆの曲を口ずさんだ。

その歌声は、夜の浅草橋の雑踏に、密やかに溶けていった。

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