第8話:Dearest
情報処理室(CAI教室)の重い扉を閉めた瞬間、カナはその場に膝をつきそうになった。
「……はぁ、はぁ……っ……」
肺が焼けるように熱い。
左肩の裂傷からはどくどくと熱い液体が溢れ、カッターシャツの白を無惨に塗りつぶしていく。
(……まずい。このままじゃ、出られない)
廊下には移動する生徒たちの足音が響き始めている。この「異様な姿」を見られるわけにはいかない。
カナは震える手で、腰に巻いていた淡いピンクのカーディガンを解いた。
カーディガンを肩から深く羽織る。
血が滲んだ左肩を隠すように、生地を寄せて前をピンで留めた。
さらに、乱れた髪を顔の左側に垂らし、視覚的な死角を作る。
彼女はふらつく足取りで、CAI教室に最も近い女子トイレへと滑り込んだ。
鏡の中の自分は、まるでホラー映画の端役だった。口元から顎にかけて流れる鮮血。左目は充満し、バグの侵食による幾何学模様がこめかみまで這い上がっている。
「……っ……」
洗面台の蛇口を全開にし、冷水を顔に叩きつける。
鉄の味がする水を吐き出し、何度も何度も顔を洗う。
安っぽい芳香剤の匂いと、血の匂いが混ざり合う。
指先で自分の顔を強く擦る。
バグの模様が肌の下へ沈んでいくまで。
予鈴が鳴り響いた。
カナは鏡に向かって、無理やり口角を上げた。
「……大丈夫。私は、ただの女子高生」
彼女はトイレを出て、人混みに紛れた。
左肩を壁側にして、少しだけ猫背で。
「一般人への秘匿」というルールは、徹底的な隠蔽工作と、わずかな運命によって保たれている。
彼女が辿り着いたのは、一階の隅にある保健室だった。
「失礼します……。先生、いますか……?」
ガラリ、とドアを開ける。
運悪く、養護教諭の本田先生が、机で事務作業をしていた。
彼女は眼鏡の奥の鋭い目で、青白い顔をしたカナを凝視した。
「深澄さん? どうしたの、そんな顔して。肩……そのカーディガン、どうしたの?」
カナの心臓が跳ねた。鋭い指摘だ。
だが、ここで怯むわけにはいかない。
カナはあえて視線を外し、恥ずかしそうに俯いて、消え入るような声で言った。
「……すみません。あの、今日、生理が重くて……。さっき転んじゃった時に、制服、汚しちゃって……」
「えっ……」
本田先生の表情が和らぐ。
「……そうなの。大変だったわね。保健室のジャージ、貸してあげるから。奥のベッドで休みなさい。担任の竹内先生には私から伝えておくから」
「ありがとうございます……。すみません、一人で着替えたいので、カーテン、閉めてもいいですか?」
「ええ、ゆっくりしなさい」
カナは一番奥のベッドに滑り込み、分厚いカーテンを隙間なく閉じた。
安全な密室。その瞬間に張り詰めていた糸が切れ、激しい動悸が襲う。
「……あぐ……っ……!」
彼女はカーディガンを脱ぎ、救急箱から持ち出した消毒液を傷口に流し込んだ。
火に焼かれるような痛みに、シーツを強く握りしめた。
彼女は自分の左腕を凝視した。
半感染状態——彼女の体内で増殖を続ける「上位者の欠片」が、戦いの余熱で活性化し、黒い脈動を繰り返している。
(お父さん、お母さん。……歩)
失われた家族の名前を、心の奥底で唱える。
地下鉄の闇に消えた彼らは、もう名前さえも「削除」された存在だ。
この世界の誰も、彼らが存在したことを覚えていない。
組織が「いなかったこと」に書き換えたからだ。
だから、私だけは忘れない。
この痛みが、私と彼らを繋ぐ唯一の有線なのだから。
カナはカバンの奥から、マナーモードで震え続けるガラケーを取り出した。
液晶画面の青い光が、薄暗いカーテンの中を照らす。
【送信済:0件 下書き:1件】
「ポート破壊完了。負傷。保健室で待機」
送信ボタンを押し、彼女は枕に頭を沈めた。
震える手でミントタブレットを噛み砕く。
「…痛いなぁ」と弱音を吐いた彼女は、MDプレーヤーのイヤホンを耳に押し込み、あゆの『Dearest』を流す。
旋律が、脳内にこびりついた上位者のノイズをゆっくりと上書きしていく。
「普通の女子高生」に戻るための、孤独なデフラグメンテーションが始まった。
五限目が終わり、六限目のチャイムが鳴る頃。
カナは、本田先生から借りた学校指定のジャージに着替え、顔を洗って教室に戻った。
「あ、カナ! 大丈夫? 保健室行ってたんだって?」
席に着くなり、リナが心配そうに身を乗り出してきた。
彼女の瞳を覗き込む。……澄んでいる。
朝、そこに混じっていた砂嵐のような不気味なノイズは、綺麗さっぱり消えていた。
「うん、ちょっと生理痛がひどくて。」
「もー、びっくりしたよ。カーディガン汚したし怪我してたって本田先生から聞いたけど、大丈夫だった? あ、そういえばさ、C組の佐藤くん、さっき普通に廊下歩いてたよ? 記憶喪失とか言ってたの、嘘だったんじゃない?」
カナは窓の外に目を向けた。
廊下では、あの「色の薄かった」男子生徒が、友人たちとふざけ合いながら歩いている。
「だよなー、俺マジで何寝ぼけてたんだろ! 井戸脇の名前忘れるとか、ありえねー!」
「お前めちゃくちゃ嫌ってるのにな」
奪われた記憶は、ネットワークから逆流し、元の場所へと収束した。
だが、その代償として彼らは「何が起きたか」という肝心な部分を失っている。
PC室での地獄も、カナが血を流して戦った姿も。
日常とは、かくも強固な「忘却」の上に成り立っているのか。
救われた人々が、自分を救った存在を認識すらできないという、圧倒的な断絶。
「……そうだね。ただの寝不足だったのかもね」
カナは微かに笑い、教科書を広げた。
放課後。
部活動の掛け声が遠くから聞こえる中、北校舎の周辺には『設備点検中』の黄色いテープが張られていた。
「すみませーん、業者でーす。ちょっと配線トラブルの確認でね」
作業服に身を包み、腰に工具袋を下げた少し強面の長身の青年
——灰谷誠二が、軽い足取りで教職員の間をすり抜けていく。
元エリート警察官。
第零技術局において「物理的隠蔽」を一手に引き受けるスペシャリストだ。
彼は慣れた手つきで情報処理室の鍵を開け、中に入った。
鼻を突くのは、焼けて溶けたプラスチックの匂いと、微かなオゾンの残り香。
「……やれやれ。派手にやってくれたなぁ」
灰谷は誰もいない室内を見渡し、粉々に砕けたCRTモニターの残骸を拾い上げた。
彼は非感染者だ。上位者を見ることはできない。
だからこそ、彼はこの「地獄の跡地」を、ただの「壊れた電子機器のゴミ溜め」として客観的に処理できる。
彼は工具箱から、特殊なスプレーを取り出した。
それを部屋全体に散布する。
上位者の残留物質を分解し、空間の「意味」をリセットするための薬剤。
数時間後、そこは「ただの予算請求の対象」へと書き換えられた。
「機材の老朽化による短絡事故」。
報告書の一行が、真実を歴史の闇へと葬り去る。
さらに、灰谷はカナが教室に戻る際に隠した「血まみれの制服」も、ゴミ回収を装って音もなく回収していった。
夕暮れ時。
校門を出たカナを待っていたのは、路肩に停められた白いバンだった。
助手席の窓が開き、灰谷が顔を出す。
「乗れよ。送ってやる。……新しい制服は、明日の朝までに部屋に届けておくさ」
「……灰谷さん。学校の方は?」
カナは後部座席に潜り込み、深く息を吐いた。
「完璧だ。明日には代替機が届く。誰も何も疑わないさ」
灰谷はバックミラー越しに、カナの青白い顔を見た。
「それより、その肩……椚さんのところに行く前に、本部の医者に診せろ。局長がお怒りだぞ」
「……大丈夫です。これくらい、いつものことだから」
「強がんな。高校生がそんな顔するもんじゃない」
灰谷はダッシュボードから、一本の缶コーヒーを取り出し、後ろに放り投げた。
カナが受け取ると、それはまだ熱いくらいに温かかった。『BOSS・微糖』。
「……苦い」
「それが大人の味ってやつだ。……よくやったな、カナ。お前がいなけりゃ、今頃あの学校は『再定義』されてた」
カナは温かい缶を両手で包み込み、窓の外を流れる東京の街並みを見つめた。
街灯が灯り始め、人々が家路を急ぐ。
誰も、自分が今朝まで「消えかけていた」ことなど知らない。
この缶コーヒーの温かさだけが、自分が成し遂げたことの唯一の証拠のように感じられた。
「灰谷さん……。あのデータの奔流の中で、奴らの『声』が聞こえた気がしたんです」
「……俺には聞こえないがな。なんて言ってた?」
「『アップデート』。……彼らは、この世界を壊したいんじゃない。自分たちの形に『書き換えたい』だけなんだって。人間なんて、ただの邪魔な古いデータでしかないみたいに」
灰谷はハンドルを握る手に力を込めた。
「……傲慢な連中だ。俺たちのこのドブ板みたいな東京が、どれだけ手間暇かけて作られてると思ってやがる。けどやつらにとっちゃ数百、数千の時間は俺らの睡眠時間とかと大差ないのかもしんねえな」
車は秋葉原の喧騒へと吸い込まれていく。
カナは冷め始めたコーヒーを一口飲んだ。
鉄のような後味と、強すぎる甘み。
それが、彼女が守り抜いた「日常」の味だった。




