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MADE IN 東京  作者: 水色蛍
0番目の修理屋編
8/19

第8話:Dearest

情報処理室(CAI教室)の重い扉を閉めた瞬間、カナはその場に膝をつきそうになった。


「……はぁ、はぁ……っ……」


肺が焼けるように熱い。

左肩の裂傷からはどくどくと熱い液体が溢れ、カッターシャツの白を無惨に塗りつぶしていく。


(……まずい。このままじゃ、出られない)


廊下には移動する生徒たちの足音が響き始めている。この「異様な姿」を見られるわけにはいかない。


カナは震える手で、腰に巻いていた淡いピンクのカーディガンを解いた。

カーディガンを肩から深く羽織る。


血が滲んだ左肩を隠すように、生地を寄せて前をピンで留めた。

さらに、乱れた髪を顔の左側に垂らし、視覚的な死角を作る。


彼女はふらつく足取りで、CAI教室に最も近い女子トイレへと滑り込んだ。


鏡の中の自分は、まるでホラー映画の端役だった。口元から顎にかけて流れる鮮血。左目は充満し、バグの侵食による幾何学模様がこめかみまで這い上がっている。


「……っ……」


洗面台の蛇口を全開にし、冷水を顔に叩きつける。

鉄の味がする水を吐き出し、何度も何度も顔を洗う。

安っぽい芳香剤の匂いと、血の匂いが混ざり合う。


指先で自分の顔を強く擦る。

バグの模様が肌の下へ沈んでいくまで。


予鈴が鳴り響いた。

カナは鏡に向かって、無理やり口角を上げた。


「……大丈夫。私は、ただの女子高生」


彼女はトイレを出て、人混みに紛れた。

左肩を壁側にして、少しだけ猫背で。


「一般人への秘匿」というルールは、徹底的な隠蔽工作と、わずかな運命によって保たれている。


彼女が辿り着いたのは、一階の隅にある保健室だった。


「失礼します……。先生、いますか……?」


ガラリ、とドアを開ける。

運悪く、養護教諭の本田先生が、机で事務作業をしていた。

彼女は眼鏡の奥の鋭い目で、青白い顔をしたカナを凝視した。


「深澄さん? どうしたの、そんな顔して。肩……そのカーディガン、どうしたの?」


カナの心臓が跳ねた。鋭い指摘だ。


だが、ここで怯むわけにはいかない。


カナはあえて視線を外し、恥ずかしそうに俯いて、消え入るような声で言った。


「……すみません。あの、今日、生理が重くて……。さっき転んじゃった時に、制服、汚しちゃって……」


「えっ……」


本田先生の表情が和らぐ。


「……そうなの。大変だったわね。保健室のジャージ、貸してあげるから。奥のベッドで休みなさい。担任の竹内先生には私から伝えておくから」


「ありがとうございます……。すみません、一人で着替えたいので、カーテン、閉めてもいいですか?」


「ええ、ゆっくりしなさい」


カナは一番奥のベッドに滑り込み、分厚いカーテンを隙間なく閉じた。


安全な密室。その瞬間に張り詰めていた糸が切れ、激しい動悸が襲う。


「……あぐ……っ……!」


彼女はカーディガンを脱ぎ、救急箱から持ち出した消毒液を傷口に流し込んだ。

火に焼かれるような痛みに、シーツを強く握りしめた。

彼女は自分の左腕を凝視した。


半感染状態——彼女の体内で増殖を続ける「上位者の欠片」が、戦いの余熱で活性化し、黒い脈動を繰り返している。


(お父さん、お母さん。……あゆむ


失われた家族の名前を、心の奥底で唱える。


地下鉄の闇に消えた彼らは、もう名前さえも「削除」された存在だ。


この世界の誰も、彼らが存在したことを覚えていない。

組織が「いなかったこと」に書き換えたからだ。


だから、私だけは忘れない。

この痛みが、私と彼らを繋ぐ唯一の有線ラインなのだから。


カナはカバンの奥から、マナーモードで震え続けるガラケーを取り出した。

液晶画面の青い光が、薄暗いカーテンの中を照らす。


【送信済:0件 下書き:1件】


「ポート破壊完了。負傷。保健室で待機」


送信ボタンを押し、彼女は枕に頭を沈めた。

震える手でミントタブレットを噛み砕く。


「…痛いなぁ」と弱音を吐いた彼女は、MDプレーヤーのイヤホンを耳に押し込み、あゆの『Dearest』を流す。


旋律が、脳内にこびりついた上位者のノイズをゆっくりと上書きしていく。

「普通の女子高生」に戻るための、孤独なデフラグメンテーションが始まった。


五限目が終わり、六限目のチャイムが鳴る頃。

カナは、本田先生から借りた学校指定のジャージに着替え、顔を洗って教室に戻った。


「あ、カナ! 大丈夫? 保健室行ってたんだって?」


席に着くなり、リナが心配そうに身を乗り出してきた。

彼女の瞳を覗き込む。……澄んでいる。


朝、そこに混じっていた砂嵐のような不気味なノイズは、綺麗さっぱり消えていた。


「うん、ちょっと生理痛がひどくて。」


「もー、びっくりしたよ。カーディガン汚したし怪我してたって本田先生から聞いたけど、大丈夫だった? あ、そういえばさ、C組の佐藤くん、さっき普通に廊下歩いてたよ? 記憶喪失とか言ってたの、嘘だったんじゃない?」


カナは窓の外に目を向けた。


廊下では、あの「色の薄かった」男子生徒が、友人たちとふざけ合いながら歩いている。


「だよなー、俺マジで何寝ぼけてたんだろ! 井戸脇の名前忘れるとか、ありえねー!」


「お前めちゃくちゃ嫌ってるのにな」


奪われた記憶は、ネットワークから逆流し、元の場所へと収束した。


だが、その代償として彼らは「何が起きたか」という肝心な部分を失っている。

PC室での地獄も、カナが血を流して戦った姿も。


日常とは、かくも強固な「忘却」の上に成り立っているのか。

救われた人々が、自分を救った存在を認識すらできないという、圧倒的な断絶。


「……そうだね。ただの寝不足だったのかもね」


カナは微かに笑い、教科書を広げた。


放課後。

部活動の掛け声が遠くから聞こえる中、北校舎の周辺には『設備点検中』の黄色いテープが張られていた。


「すみませーん、業者でーす。ちょっと配線トラブルの確認でね」


作業服に身を包み、腰に工具袋を下げた少し強面の長身の青年

——灰谷誠二はいたに せいじが、軽い足取りで教職員の間をすり抜けていく。


元エリート警察官。

第零技術局において「物理的隠蔽」を一手に引き受けるスペシャリストだ。


彼は慣れた手つきで情報処理室の鍵を開け、中に入った。


鼻を突くのは、焼けて溶けたプラスチックの匂いと、微かなオゾンの残り香。


「……やれやれ。派手にやってくれたなぁ」


灰谷は誰もいない室内を見渡し、粉々に砕けたCRTモニターの残骸を拾い上げた。

彼は非感染者だ。上位者を見ることはできない。


だからこそ、彼はこの「地獄の跡地」を、ただの「壊れた電子機器のゴミ溜め」として客観的に処理できる。


彼は工具箱から、特殊なスプレーを取り出した。

それを部屋全体に散布する。


上位者の残留物質ノイズを分解し、空間の「意味」をリセットするための薬剤。


数時間後、そこは「ただの予算請求の対象」へと書き換えられた。

「機材の老朽化による短絡事故」。


報告書の一行が、真実を歴史の闇へと葬り去る。


さらに、灰谷はカナが教室に戻る際に隠した「血まみれの制服」も、ゴミ回収を装って音もなく回収していった。


夕暮れ時。

校門を出たカナを待っていたのは、路肩に停められた白いバンだった。

助手席の窓が開き、灰谷が顔を出す。


「乗れよ。送ってやる。……新しい制服は、明日の朝までに部屋に届けておくさ」


「……灰谷さん。学校の方は?」


カナは後部座席に潜り込み、深く息を吐いた。


「完璧だ。明日には代替機が届く。誰も何も疑わないさ」


灰谷はバックミラー越しに、カナの青白い顔を見た。


「それより、その肩……椚さんのところに行く前に、本部の医者に診せろ。局長がお怒りだぞ」


「……大丈夫です。これくらい、いつものことだから」


「強がんな。高校生がそんな顔するもんじゃない」


灰谷はダッシュボードから、一本の缶コーヒーを取り出し、後ろに放り投げた。

カナが受け取ると、それはまだ熱いくらいに温かかった。『BOSS・微糖』。


「……苦い」


「それが大人の味ってやつだ。……よくやったな、カナ。お前がいなけりゃ、今頃あの学校は『再定義』されてた」


カナは温かい缶を両手で包み込み、窓の外を流れる東京の街並みを見つめた。

街灯が灯り始め、人々が家路を急ぐ。


誰も、自分が今朝まで「消えかけていた」ことなど知らない。

この缶コーヒーの温かさだけが、自分が成し遂げたことの唯一の証拠のように感じられた。


「灰谷さん……。あのデータの奔流の中で、奴らの『声』が聞こえた気がしたんです」


「……俺には聞こえないがな。なんて言ってた?」


「『アップデート』。……彼らは、この世界を壊したいんじゃない。自分たちの形に『書き換えたい』だけなんだって。人間なんて、ただの邪魔な古いデータでしかないみたいに」


灰谷はハンドルを握る手に力を込めた。


「……傲慢な連中だ。俺たちのこのドブ板みたいな東京が、どれだけ手間暇かけて作られてると思ってやがる。けどやつらにとっちゃ数百、数千の時間は俺らの睡眠時間とかと大差ないのかもしんねえな」


車は秋葉原の喧騒へと吸い込まれていく。

カナは冷め始めたコーヒーを一口飲んだ。


鉄のような後味と、強すぎる甘み。


それが、彼女が守り抜いた「日常」の味だった。


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