第7話:上位者《ルート》
カナは北校舎の階段を上がり、3階へと足を踏み入れた。
空気が変わる。重く、澱んだ、鉄錆の匂い。
昼休みだというのに、このフロアには人の気配がない。
いや、気配はある。
壁の向こう側から、ヴヴヴヴ……という、低いファンの回転音と、何か濡れたものが擦れ合う音が聞こえる。
『情報処理室』のプレートがかかった鉄扉。
鍵はかかっていない。ノブの周りが高熱で溶かされたように歪んでいる。
「……開けるよ」
カナは深呼吸をし、ドアノブを回した。
ガチャリ、という音が、静寂に響く。
中に入った瞬間、カナは絶句した。
そこは、もう教室ではなかった。
40台並んだデスクトップパソコンのすべてが、解体され、内臓をぶちまけたようにケーブルを露出させていた。
床を這う無数のLANケーブルは、まるで黒い血管のように脈打ち、部屋の中央へ向かって集束している。
ケーブルの渦の中心に、誰かがいた。
男子生徒だ。
昨夜、補習を受けていたというC組の生徒だろう。
制服を着ているが、手足はすでにLANケーブルと融合し、椅子に拘束されている。そして彼の頭部——顔があるべき場所には、巨大なCRTモニターが無理やり埋め込まれていた。
『……データ……収集……』
『……空き容量……不足……削除……削除……』
モニター顔の男が、機械合成された声で呟く。
画面には、高速で流れる文字列と、時折フラッシュバックする「誰かの記憶」の映像。
友達の笑顔、部活の風景、テストの答案、告白の瞬間。
生徒たちから奪われた「大切な記憶」が、この男を通じて、裏東京へとアップロードされている。
「……ひどい」
カナは怒りで手が震えた。これは捕食だ。
彼らにとって、人間の思い出など、ただのデータ容量に過ぎない。
人間としての尊厳を踏みにじり、ただの記録媒体として使い潰す。
「——そこまでだよ、泥棒!」
カナは叫びと共に、部屋の中へ踏み込んだ。
同時に、背手でドアを閉め、内鍵をかける。これで密室だ。
誰にも見せない。私とこいつだけの空間。
『……異物……検知……』
モニター男がゆっくりとこちらを向く。
部屋中のケーブルが、鎌首をもたげる蛇のように一斉に動き出した。
モニターに映るノイズが赤く染まり、攻撃色へと変わる。
「デバッグの時間だ……覚悟しなさい!」
カナはMDプレーヤーの再生ボタンを叩いた。空間安定化プログラム、起動。
MDプレーヤーから放たれる高周波のノイズが、密室となった情報処理室(CAI教室)の空気を震わせた。
それは人間には聞こえない、位相干渉による「拒絶」の音だ。
現実世界と裏東京の境界を強制的に固定し、これ以上の侵食を防ぐための不可視の防壁。だが、敵はすでに「内側」にいた。
『……拒絶……無意味……』
『……全テ……共有……セヨ……』
部屋の中央、LANケーブルの繭に包まれた男子生徒——その頭部に埋め込まれた巨大なCRTモニターが、ノイズ混じりの合成音声で嗤う。
画面に映し出されるのは、無数の生徒たちの「青春」の断片だ。
部活の汗、放課後の笑い声、バイトの風景。
それらがシュレッダーにかけられるように細断され、ブラックホールのような暗黒のデータ領域へと吸い込まれていく。
「人の記憶を……勝手に食い荒らすなッ!」
カナは床を蹴った。
ローファーの底がリノリウムの床を擦り、焦げたゴムの匂いを立てる。
彼女の動きに合わせて、敵の「触手」が反応した。
床を這う数十本のLANケーブルが、鎌首をもたげた蛇のように一斉に襲いかかってくる。
「くっ……!」
カナは身を低くして、鞭のようにしなるケーブルを回避した。
風切り音が耳元を掠める。背後のスチールロッカーにケーブルが突き刺さり、厚い鉄板を豆腐のように貫いた。
(速い……! それに、数が多すぎる!)
昨日の莉子が対面した「影の怪物」とは違う。あれは実体化しただけの獣だったが、こいつは「システム」そのものだ。この部屋にある40台のパソコンすべてが、こいつの脳であり、手足となっている。
『……サンプル……捕獲……』
『……解析……開始……』
モニター男が右手を掲げる。
いや、右手だったものは、無数のケーブルが絡み合い、鋭利なドリル状に変形していた。先端から、毒々しい紫色のスパークが散る。
カナは教卓の陰に滑り込み、呼吸を整えた。
心臓が早鐘を打っている。左腕の痣が、熱した鉄を押し付けられたように痛む。
体内の「バグ」が、目の前の同類に呼応して暴れているのだ。
(椚さんは言った。『最悪の場合、人間ごと凍結しろ』って)
彼女のポケットには、まだ使っていない武器がある。
莉子から預かった予備のコンパクトデジタルカメラだ。
これでフラッシュを焚けば、この怪物は一瞬でデータ凍結され、封印できるだろう。
——だが、それは同時に、依代になっている彼を殺すことを意味する。
「……できない」
カナは唇を噛み締め、口の中に広がる鉄の味を飲み込んだ。
脳裏をよぎるのは、あの日——家族を失った地下鉄の光景だ。
瓦礫の下で、弟が手を伸ばしていた。
助けたかった。
でも、私の手は届かなかった。
ただ怯えて、逃げることしかできなかった。
(あの時みたいに、また見捨てるの?)
「……ふざけんな」
カナはデジカメをポケットの奥に押し込んだ。
殺さない。見捨てない。
私は「掃除屋」じゃない。
境界の番人だ。「修復屋」だ。
「……椚さん、聞こえますか」
カナはインカムに向かって囁いた。
『チッ……息が荒いぞ深澄。状況は?』
「敵の防壁が厚すぎます。外部からの遮断は無理」
『なら諦めて撃て。お前が死んだら元も子もない』
「嫌です」
カナは即答した。
「方法なら、あります。……私が『直結』して、内側からバグを引き剥がします」
一瞬の沈黙。
『……正気か? お前の脳が焼き切れるぞ。相手はサーバー直結の汚染源だ』
「大丈夫。私には、こいつと同じ『毒』が流れてますから」
カナはガラケーを取り出し、裏蓋を開けた。
バッテリーの脇にある、メンテナンス用の外部接続端子。
そこへ、MDプレーヤーから伸ばした専用の通信ケーブルを差し込む。
「……3分だけ、時間をください。位相固定を最大出力にします」
『おい深澄! 待て!』
椚の制止を無視し、カナは教卓から飛び出した。
「こっちだよ、鉄クズ!!」
カナはガラケーを囮のように掲げ、部屋の中央へと走った。
敵の注意が、新たな高エネルギー反応——カナのガラケー——へと集中する。
『……高純度……データ……確認……』
『……優先……捕食……』
モニター男が咆哮し、ドリル状の右腕を突き出した。
回避行動は取らない。カナは正面から突っ込む。
「——いっけぇぇぇぇ!!」
ドリルの先端が、カナの左肩を掠める。
制服のブレザーが裂け、鮮血が舞う。
だが、その痛みこそが彼女の燃料だった。
痛覚があるうちは、私はまだ人間だ。
カナは肉薄し、モニター男の懐へと潜り込んだ。
そして、ケーブルでがんじがらめになった彼の「胸元」——サーバーの本体部分——にあるUSBポートへ、ガラケーから伸びた通信ケーブルを乱暴に突き刺した。
「接続!!」
『ガガガガッ!?』
火花が散る。物理的な接触。
瞬間、カナの視界がホワイトアウトした。
そこは、0と1の嵐の中だった。
視覚も聴覚も意味をなさない、情報の奔流。
『痛い、痛い、痛い、忘れたくない、消さないで』
『僕の名前は、昨日の晩御飯は、好きな人の顔は』
生徒たちから奪われた数千、数万の記憶の断片が、濁流となってカナの脳内に流れ込んでくる。それは他人の記憶なのに、自分の体験のように生々しく、重い。
「うぐっ……あぁぁぁ……!」
カナは歯を食いしばり、意識の崩壊を耐えた。
自我が摩耗していく。
深澄カナという個が、膨大なデータの中に溶けて消えそうになる。
その奥に、「それ」はいた。
記憶のデータの海を泳ぐ、巨大で冷徹な何か。姿形はない。
ただ、絶対的な「捕食の意思」だけがある。
人間を憎んでいるわけでも、恨んでいるわけでもない。
ただ、システムを最適化するために、不要なファイル(人間)を削除しようとする、宇宙的な事務処理。
——『不要』『非効率』『削除』『更新』
言葉を持たない上位者の論理が、カナの精神を侵食し始める。
左腕の痣が燃えるように熱い。体が裏返るような感覚。
このまま委ねれば楽になれる。私も、あっち側の一部になれる。
(……だめ)
カナは、泥の中に沈みそうになる意識の手を伸ばした。
コルクボードの写真。不器用なハンバーグ。タワレコの黄色い袋。リ
ナとのプリクラ。ノアとプレイしたゲーム。リコの淹れた不味いコーヒー。
局支部のタバコの匂い。
それは、上位者にとっては無価値な「ゴミデータ」かもしれない。
でも、私にとっては、世界そのものだ。
「……返せ」
カナは精神の世界で、ガラケーの決定ボタンを親指が折れるほどの力で押し込んだ。
自身の血液に含まれる「バグ」の因子を、カウンタープログラムとして流し込む。
毒をもって、毒を制す。
「あんたたちのアップデートなんて……この私が、初期化してやるッ!!」
< コマンド:強制排除(REJECT) >
カナの叫びと共に、深紅のノイズが逆流した。
「がはっ……!!」
現実世界。カナの体は、弾かれたように後方へと吹き飛ばされた。
背中から床に叩きつけられ、肺の中の空気が強制的に排出される。
『アアアアアアアアアアアアッ!!!』
モニター男が絶叫する。だが、それは断末魔ではなかった。
彼の頭部に埋まっていたCRTモニターに、無数の亀裂が走る。
画面に映っていたノイズが、赤から青へ、そして無色透明へと浄化されていく。
『……エラー……接続……切断……』
バキンッ!!破裂音と共に、モニターが粉々に砕け散った。
同時に、部屋中を埋め尽くしていたLANケーブルが、焼けたゴムの匂いを残してボロボロと崩れ落ち、灰色の砂となって霧散していく。
拘束されていた男子生徒が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
その顔には、もうモニターはない。
気絶してはいるが、穏やかな寝顔をした、ただの少年の顔に戻っていた。
「……はぁ……はぁ……」
カナは仰向けのまま、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が眩しい。
MDプレーヤーが、カチリと音を立てて停止した。静寂が戻ってくる。
左肩の傷が痛む。全身の筋肉が悲鳴を上げている。
鼻血が垂れて、制服の襟を汚しているのがわかった。
「……勝った、の?」
インカムから、ザザッというノイズ音が聞こえた。
『——深澄。聞こえるか』
椚の声だ。先ほどまでの焦りは消え、安堵のため息が混じっている。
『学校のサーバーからの異常通信、停止を確認した。……奪われたデータも、逆流して元の場所に戻ったようだ』
「よかった……」カナは脱力し、床に沈み込むように目を閉じた。
生徒たちの記憶は戻った。
リナも、あの「色の薄い」男子も、きっと元通りになるはずだ。
『まったく……無茶をしやがって。17歳が死に急ぐな。寿命が縮んだぞ』
「ふふ……すみません。でも、誰も殺さずに済みました」
『ああ。……よくやった。お前の勝ちだ、0番目のデバッガー』
その言葉を聞いて、カナはようやく体の力を抜いた。
遠くで、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴っているのが聞こえる。
日常が戻ってくる。この激闘の痕跡も、やがて「パソコン室の機材トラブル」として処理され、誰の記憶にも残らないだろう。
カナは重たい体を引きずり起こした。
気絶している男子生徒に歩み寄り、脈を確認する。
正常だ。ただの貧血のようなものだろう。
「……ごめんね。怖い思いさせて」
カナは彼の制服のポケットに、彼自身のガラケーを戻してやった。
そして、散乱したケーブルの残骸——すでに灰になって消えつつある——を跨いで、出口へと向かった。
ドアノブに手をかけた時、ふと振り返る。破壊されたパソコンの残骸。
それはまるで、巨大な怪物の死骸のようにも見えた。
(……終わった。でも)
カナの胸に、小さな棘が残っていた。あのデータの奔流の中で感じた、上位者の「意思」。あれは、こんなものではなかった。もっと巨大で、根源的な——。
(あいつらは、まだ諦めていない)
カナは左腕を強く握りしめ、痛みを刻み込んだ。戦いは続く。
この日常が、ある日突然「再定義」されてしまうその時まで。
彼女は誰にも見られないように、そっと情報処理室を後にした。




