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MADE IN 東京  作者: 水色蛍
0番目の修理屋編
7/20

第7話:上位者《ルート》

 カナは北校舎の階段を上がり、3階へと足を踏み入れた。


 空気が変わる。重く、澱んだ、鉄錆の匂い。


 昼休みだというのに、このフロアには人の気配がない。


 いや、気配はある。


 壁の向こう側から、ヴヴヴヴ……という、低いファンの回転音と、何か濡れたものが擦れ合う音が聞こえる。


『情報処理室』のプレートがかかった鉄扉。


 鍵はかかっていない。ノブの周りが高熱で溶かされたように歪んでいる。


「……開けるよ」


 カナは深呼吸をし、ドアノブを回した。

 ガチャリ、という音が、静寂に響く。


 中に入った瞬間、カナは絶句した。


 そこは、もう教室ではなかった。


 40台並んだデスクトップパソコンのすべてが、解体され、内臓をぶちまけたようにケーブルを露出させていた。


 床を這う無数のLANケーブルは、まるで黒い血管のように脈打ち、部屋の中央へ向かって集束している。


 ケーブルの渦の中心に、誰かがいた。

 男子生徒だ。

 昨夜、補習を受けていたというC組の生徒だろう。


 制服を着ているが、手足はすでにLANケーブルと融合し、椅子に拘束されている。そして彼の頭部——顔があるべき場所には、巨大なCRTモニターが無理やり埋め込まれていた。


『……データ……収集……』

『……空き容量……不足……削除……削除……』


 モニター顔の男が、機械合成された声で呟く。

 画面には、高速で流れる文字列と、時折フラッシュバックする「誰かの記憶」の映像。

 友達の笑顔、部活の風景、テストの答案、告白の瞬間。


 生徒たちから奪われた「大切な記憶」が、この男を通じて、裏東京へとアップロードされている。


「……ひどい」


 カナは怒りで手が震えた。これは捕食だ。

 彼らにとって、人間の思い出など、ただのデータ容量リソースに過ぎない。

 人間としての尊厳を踏みにじり、ただの記録媒体として使い潰す。


「——そこまでだよ、泥棒!」


 カナは叫びと共に、部屋の中へ踏み込んだ。

 同時に、背手でドアを閉め、内鍵をかける。これで密室だ。

 誰にも見せない。私とこいつだけの空間。


『……異物……検知……』


 モニター男がゆっくりとこちらを向く。

 部屋中のケーブルが、鎌首をもたげる蛇のように一斉に動き出した。

 モニターに映るノイズが赤く染まり、攻撃色へと変わる。


「デバッグの時間だ……覚悟しなさい!」


 カナはMDプレーヤーの再生ボタンを叩いた。空間安定化プログラム、起動。

 MDプレーヤーから放たれる高周波のノイズが、密室となった情報処理室(CAI教室)の空気を震わせた。


 それは人間には聞こえない、位相干渉による「拒絶」の音だ。

 現実世界と裏東京の境界を強制的に固定し、これ以上の侵食ダウンロードを防ぐための不可視の防壁。だが、敵はすでに「内側」にいた。


『……拒絶……無意味……』

『……全テ……共有……セヨ……』


 部屋の中央、LANケーブルの繭に包まれた男子生徒——その頭部に埋め込まれた巨大なCRTモニターが、ノイズ混じりの合成音声で嗤う。


 画面に映し出されるのは、無数の生徒たちの「青春」の断片だ。

 部活の汗、放課後の笑い声、バイトの風景。

 それらがシュレッダーにかけられるように細断され、ブラックホールのような暗黒のデータ領域へと吸い込まれていく。


「人の記憶を……勝手に食い荒らすなッ!」


 カナは床を蹴った。

 ローファーの底がリノリウムの床を擦り、焦げたゴムの匂いを立てる。

 彼女の動きに合わせて、敵の「触手」が反応した。

 床を這う数十本のLANケーブルが、鎌首をもたげた蛇のように一斉に襲いかかってくる。


「くっ……!」


 カナは身を低くして、鞭のようにしなるケーブルを回避した。

 風切り音が耳元を掠める。背後のスチールロッカーにケーブルが突き刺さり、厚い鉄板を豆腐のように貫いた。


(速い……! それに、数が多すぎる!)


 昨日の莉子が対面した「影の怪物」とは違う。あれは実体化しただけの獣だったが、こいつは「システム」そのものだ。この部屋にある40台のパソコンすべてが、こいつの脳であり、手足となっている。


『……サンプル……捕獲……』

『……解析……開始……』


 モニター男が右手を掲げる。

 いや、右手だったものは、無数のケーブルが絡み合い、鋭利なドリル状に変形していた。先端から、毒々しい紫色のスパークが散る。


 カナは教卓の陰に滑り込み、呼吸を整えた。

 心臓が早鐘を打っている。左腕の痣が、熱した鉄を押し付けられたように痛む。

 体内の「バグ」が、目の前の同類に呼応して暴れているのだ。


(椚さんは言った。『最悪の場合、人間ごと凍結しろ』って)


 彼女のポケットには、まだ使っていない武器がある。

 莉子から預かった予備のコンパクトデジタルカメラだ。

 これでフラッシュを焚けば、この怪物は一瞬でデータ凍結され、封印できるだろう。


 ——だが、それは同時に、依代ホストになっている彼を殺すことを意味する。


「……できない」


 カナは唇を噛み締め、口の中に広がる鉄の味を飲み込んだ。

 脳裏をよぎるのは、あの日——家族を失った地下鉄の光景だ。


 瓦礫の下で、弟が手を伸ばしていた。


 助けたかった。


 でも、私の手は届かなかった。

 ただ怯えて、逃げることしかできなかった。


(あの時みたいに、また見捨てるの?)


「……ふざけんな」


 カナはデジカメをポケットの奥に押し込んだ。

 殺さない。見捨てない。

 私は「掃除屋」じゃない。

 境界の番人だ。「修復屋」だ。


「……椚さん、聞こえますか」


 カナはインカムに向かって囁いた。


『チッ……息が荒いぞ深澄。状況は?』

「敵の防壁が厚すぎます。外部からの遮断カットは無理」


『なら諦めて撃て。お前が死んだら元も子もない』


「嫌です」


 カナは即答した。


「方法なら、あります。……私が『直結』して、内側からバグを引き剥がします」


 一瞬の沈黙。


『……正気か? お前の脳が焼き切れるぞ。相手はサーバー直結の汚染源だ』


「大丈夫。私には、こいつと同じ『毒』が流れてますから」


 カナはガラケーを取り出し、裏蓋を開けた。

 バッテリーの脇にある、メンテナンス用の外部接続端子。

 そこへ、MDプレーヤーから伸ばした専用の通信ケーブルを差し込む。


「……3分だけ、時間をください。位相固定ロックを最大出力にします」


『おい深澄! 待て!』


 椚の制止を無視し、カナは教卓から飛び出した。


「こっちだよ、鉄クズ!!」


 カナはガラケーを囮のように掲げ、部屋の中央へと走った。

 敵の注意が、新たな高エネルギー反応——カナのガラケー——へと集中する。


『……高純度……データ……確認……』

『……優先……捕食……』


 モニター男が咆哮し、ドリル状の右腕を突き出した。

 回避行動は取らない。カナは正面から突っ込む。


「——いっけぇぇぇぇ!!」


 ドリルの先端が、カナの左肩を掠める。

 制服のブレザーが裂け、鮮血が舞う。

 だが、その痛みこそが彼女の燃料トリガーだった。

 痛覚があるうちは、私はまだ人間だ。


 カナは肉薄し、モニター男の懐へと潜り込んだ。

 そして、ケーブルでがんじがらめになった彼の「胸元」——サーバーの本体部分——にあるUSBポートへ、ガラケーから伸びた通信ケーブルを乱暴に突き刺した。


接続プラグ・イン!!」


『ガガガガッ!?』


 火花が散る。物理的な接触。

 瞬間、カナの視界がホワイトアウトした。

 そこは、0と1の嵐の中だった。

 視覚も聴覚も意味をなさない、情報の奔流。


『痛い、痛い、痛い、忘れたくない、消さないで』

『僕の名前は、昨日の晩御飯は、好きな人の顔は』


 生徒たちから奪われた数千、数万の記憶の断片が、濁流となってカナの脳内に流れ込んでくる。それは他人の記憶なのに、自分の体験のように生々しく、重い。


「うぐっ……あぁぁぁ……!」


 カナは歯を食いしばり、意識の崩壊を耐えた。

 自我が摩耗していく。

 深澄カナという個が、膨大なデータの中に溶けて消えそうになる。


 その奥に、「それ」はいた。


 記憶のデータの海を泳ぐ、巨大で冷徹な何か。姿形はない。

 ただ、絶対的な「捕食の意思」だけがある。

 人間を憎んでいるわけでも、恨んでいるわけでもない。

 ただ、システムを最適化するために、不要なファイル(人間)を削除しようとする、宇宙的な事務処理プロセス


 ——『不要』『非効率』『削除』『更新』


 言葉を持たない上位者の論理が、カナの精神を侵食し始める。

 左腕の痣が燃えるように熱い。体が裏返るような感覚。

 このまま委ねれば楽になれる。私も、あっち側の一部になれる。


(……だめ)


 カナは、泥の中に沈みそうになる意識の手を伸ばした。

 コルクボードの写真。不器用なハンバーグ。タワレコの黄色い袋。リ

 ナとのプリクラ。ノアとプレイしたゲーム。リコの淹れた不味いコーヒー。

 局支部のタバコの匂い。


 それは、上位者にとっては無価値な「ゴミデータ」かもしれない。

 でも、私にとっては、世界そのものだ。


「……返せ」


 カナは精神の世界で、ガラケーの決定ボタンを親指が折れるほどの力で押し込んだ。

 自身の血液に含まれる「バグ」の因子を、カウンタープログラムとして流し込む。

 毒をもって、毒を制す。


「あんたたちのアップデートなんて……この私が、初期化フォーマットしてやるッ!!」


< コマンド:強制排除(REJECT) >


 カナの叫びと共に、深紅のノイズが逆流した。


「がはっ……!!」


 現実世界。カナの体は、弾かれたように後方へと吹き飛ばされた。

 背中から床に叩きつけられ、肺の中の空気が強制的に排出される。


『アアアアアアアアアアアアッ!!!』


 モニター男が絶叫する。だが、それは断末魔ではなかった。

 彼の頭部に埋まっていたCRTモニターに、無数の亀裂が走る。

 画面に映っていたノイズが、赤から青へ、そして無色透明へと浄化されていく。


『……エラー……接続……切断……』


 バキンッ!!破裂音と共に、モニターが粉々に砕け散った。

 同時に、部屋中を埋め尽くしていたLANケーブルが、焼けたゴムの匂いを残してボロボロと崩れ落ち、灰色の砂となって霧散していく。


 拘束されていた男子生徒が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

 その顔には、もうモニターはない。

 気絶してはいるが、穏やかな寝顔をした、ただの少年の顔に戻っていた。


「……はぁ……はぁ……」


 カナは仰向けのまま、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が眩しい。

 MDプレーヤーが、カチリと音を立てて停止した。静寂が戻ってくる。


 左肩の傷が痛む。全身の筋肉が悲鳴を上げている。

 鼻血が垂れて、制服の襟を汚しているのがわかった。


「……勝った、の?」


 インカムから、ザザッというノイズ音が聞こえた。


『——深澄。聞こえるか』


 椚の声だ。先ほどまでの焦りは消え、安堵のため息が混じっている。


『学校のサーバーからの異常通信、停止を確認した。……奪われたデータも、逆流して元の場所に戻ったようだ』


「よかった……」カナは脱力し、床に沈み込むように目を閉じた。


 生徒たちの記憶は戻った。

 リナも、あの「色の薄い」男子も、きっと元通りになるはずだ。


『まったく……無茶をしやがって。17歳が死に急ぐな。寿命が縮んだぞ』

「ふふ……すみません。でも、誰も殺さずに済みました」


『ああ。……よくやった。お前の勝ちだ、0番目のデバッガー』


 その言葉を聞いて、カナはようやく体の力を抜いた。

 遠くで、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴っているのが聞こえる。


 日常が戻ってくる。この激闘の痕跡も、やがて「パソコン室の機材トラブル」として処理され、誰の記憶にも残らないだろう。


 カナは重たい体を引きずり起こした。

 気絶している男子生徒に歩み寄り、脈を確認する。

 正常だ。ただの貧血のようなものだろう。


「……ごめんね。怖い思いさせて」


 カナは彼の制服のポケットに、彼自身のガラケーを戻してやった。

 そして、散乱したケーブルの残骸——すでに灰になって消えつつある——を跨いで、出口へと向かった。


 ドアノブに手をかけた時、ふと振り返る。破壊されたパソコンの残骸。

 それはまるで、巨大な怪物の死骸のようにも見えた。


(……終わった。でも)


 カナの胸に、小さな棘が残っていた。あのデータの奔流の中で感じた、上位者の「意思」。あれは、こんなものではなかった。もっと巨大で、根源的な——。


(あいつらは、まだ諦めていない)


 カナは左腕を強く握りしめ、痛みを刻み込んだ。戦いは続く。

 この日常が、ある日突然「再定義」されてしまうその時まで。


 彼女は誰にも見られないように、そっと情報処理室を後にした。

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