第6話:サブリミナル
夜20時。浅草橋のセーフハウスに戻ったカナの手には、タワーレコードの黄色いビニール袋が握られていた。中には、リナと一緒に試聴して衝動買いしたあゆのアルバムと、輸入盤のロックバンドのCD。制服のポケットには、撮りたてのプリクラが入っている。
『ズッ友!』『渋谷降臨☆』
そんな落書きがされたシールの中で、カナは作り笑いではない、心からの笑顔を浮かべていた。
「……楽しかったなぁ」
玄関で靴を脱ぎながら、ふと息をつく。
夢のような数時間だった。
バグも、侵食も、組織のことも忘れて、ただの17歳になれた時間。
カナはポケットからガラケーを取り出し、サブディスプレイを見た。
そして、血の気が引いた。
【着信あり:5件(非通知設定)】
【メール着信:1件(送信者:Saw_Riko)】
「……嘘」
酔いが一気に覚めるような感覚。
着信履歴の時刻は、彼女がリナとセンター街でクレープを選んでいた時間と重なっている。メールを開く。件名はない。
『本文:片付いた。礼は現物で請求する』
「片付いた……って」
カナは慌てて発信ボタンを押そうとしたが、指を止めた。
電話で済ませていい話じゃない。
彼女はタワレコの袋を玄関に放り出し、そのまま部屋を飛び出した。向かう先は、隣の302号室。
『ドンドンドン!』
「リコさん! 私、深澄です! 開けてください!」
鉄の扉を叩く。
数秒の沈黙の後、ガチャリと鍵が開く音がして、ドアが少しだけ開いた。
隙間から、紫煙と共に、気怠げな三白眼が覗く。
「……うるさい。近所迷惑」
「ごめんなさい! 着信、気づかなくて……! 私、遊んでて……」
カナは頭を下げた。言い訳のしようがない。
「はぁ……」
莉子はため息をつき、ドアチェーンを外してカナを招き入れたわけではなく、ただドア枠に寄りかかった。部屋の奥からは、現像液の酸っぱい匂いが漂ってくる。
「謝罪はいいわよ。任務は完了したし、局長への報告も済ませた」
「でも……」
「それに」
莉子はタバコの灰を携帯灰皿に落とし、ふと遠くを見るような目をした。
「アンタにも、必要な時間だったんでしょ? ……ガス抜き、ってやつが」
「え?」
カナは顔を上げた。莉子はカナを見ていない。
ただ、廊下の薄暗い蛍光灯を見つめている。
「JKのカバーを完璧にこなすのも、潜伏任務のうちよ。たまには本気で遊ばないと、自分がどっち側の人間か分かんなくなるからね」
その言葉には、皮肉ではなく、どこか実感を伴った重みがあった。
大学生でありながら、大学生活を楽しめているのか分からない莉子なりの、不器用な理解。
「……リコさん」
「勘違いしないで。許したわけじゃないから」
莉子は視線をカナに戻し、ニヤリと口角を上げた。
「『礼は現物で』って書いたでしょ」
「あ、はい。お金なら……」
「金なんかいらない。……アンタ、料理得意なんでしょ?」
「え? ……まあ、自炊してますけど」
「なら、今度アタシの分も作りなさいよ。コンビニ弁当はもう飽きた」
それだけ言うと、莉子は「おやすみ」とも言わずにドアを閉めた。
バタン。目の前で閉ざされた鉄の扉。
しかし、カナの胸に残っていた鉛のような重さは、不思議と消えていた。
「……ハンバーグで、いいかな」
カナは小さく呟き、自分の部屋へと戻った。
自室に戻ったカナは、シャワーを浴びて汗と街の埃を流した。
湯船に浸かりながら天井を見上げる。
(よかった……何も起きなくて)
莉子が倒してくれたおかげで、学校周辺の脅威は去ったはずだ。
明日はまた、普通の学校生活が待っている。
リナと、今日撮ったプリクラを交換して、借りたCDの感想を話して。
「……明日からは、しゃきっとしなきゃ」
カナは濡れた髪をタオルで拭きながら、鏡の中の自分に言い聞かせた。
この日常を守るために、私は戦うのだと。
翌朝。
東京の空は、ねずみ色の雲に低く覆われていた。
湿度は高いのに、肌に触れる空気は乾いた氷のように冷たい。
登校する生徒たちの列は、どこか足取りが重く、会話も少ないように感じられた。
カナが2年B組の教室に入ると、そこには奇妙な「熱気」が渦巻いていた。
それは活気ではない。テスト前のピリピリした空気とも違う、何かに取り憑かれたような、じっとりとした執着の気配。
「——おはよ、カナ」
席に着くと、前の席のリナが振り返った。
いつもなら「おはよー!」とハイテンションで挨拶してくる彼女の声が、今日は少しだけ平坦に聞こえる。
「……おはよう、リナ。なんか、みんな静かじゃない?」
カナが教室を見渡しながら尋ねると、リナは携帯電話の画面を親指でスクロールさせながら答えた。
「ああ、みんな必死なんだよ。『願い』叶えるのに」
「願い?」
「ほら、一昨日言ってたチェーンメール。あれ、バージョンアップしたんだって」
リナが画面をこちらに向けた。
そこには、黒背景に赤い文字で、こう記されていた。
『天使のホームページ ver.2.0』
『あなたの不要なファイルをゴミ箱に入れてください』
『空いた容量に、願いをインストールします』
一見すれば、当時流行していた「不幸の手紙」や「願いが叶うおまじない」の類に見える。
だが、その画面を見た瞬間、カナの左目——バグを宿した瞳——が激しく脈打った。
『……ギ……ガガ……』
耳鳴りではない。テキストデータそのものが、脳内で不快な機械音へと変換される。
カナには読めてしまった。このメールのソースコードの裏に隠された、上位者たちの「論理」が。
「ファイル」とは「記憶」。
「ゴミ箱」とは「削除」。
「インストール」とは「洗脳」。
(……これ、ただのチェーンメールじゃない)
カナは吐き気をこらえながら、リナの手首を掴んだ。
「リナ、これ……絶対にアクセスしちゃダメ。変なサイトに飛ばされるだけだよ」
「えー? でもさ、C組の男子とか、これで彼女できたって言ってたよ? 代償にちょっと『忘れ物』が増えるだけだって」
「忘れ物?」
「うん。嫌な記憶とか、どうでもいい授業の内容とか。そんなのが消えるだけで願いが叶うなら、安くない?」
リナの瞳の奥に、微かなノイズが走ったように見えた。
思考誘導。すでに、初期段階の汚染が始まっている。
「あ、噂のC組の男子って、あいつだよ」
リナが廊下を指差した。
そこには、男子生徒が一人、壁に寄りかかって携帯を操作していた。
クラスメイトとも談笑しているようだが、カナには彼の姿が異様に見えた。
彼だけ、「色が薄い」のだ。存在感が希薄というか、解像度が低い。
カナは席を立ち、何食わぬ顔で廊下へ出た。
すれ違いざま、彼の会話に耳をそばだてる。
「お前さ、昨日の数学の課題やった?」
「……数学? 数学って、なんだっけ」
「はあ? 昨日井戸脇がキレてただろ」
「井戸脇……? 誰だっけ、それ」
男子生徒は、笑っていた。
ふざけているのではない。本当に、概念ごと「削除」されているのだ。
教師の名前も、授業の内容も、そしておそらくは——。
「……ねえ、君」
カナは意を決して、男子生徒に声をかけた。
「なに?」
「君、隣で話してるその子の名前、わかる?」
男子生徒はゆっくりと顔を上げ、虚ろな瞳で隣の友人を見た。
そして、首を傾げた。
「…なんだよいきなり…えっと。……友達、だよね? 名前は……あれ、なんだっけ。山田?」
「おい、ふざけんなよ!」
友人は怒って肩を叩いたが、男子生徒はヘラヘラと笑うだけだった。
恐怖を感じていない。記憶を失ったことへの喪失感さえも、同時に削除されている。
(……失敗した)
カナの背筋に冷たいものが走った。
昨夜、莉子が怪物を倒したことで「解決した」と思い込んでいた。
だが、あれは陽動か、あるいは単なる「種蒔き」に過ぎなかったのだ。
敵は物理的な侵食から、より効率的で、より静かな「情報侵食」へと手口を変えた。
これは、第零技術局の完全な敗北だ。
「一般人に知られないように戦う」以前に、すでに一般人の内面が食い荒らされている。
このままでは、学校中の生徒が「空っぽの器」にされ、上位者の都合のいい端末に書き換えられてしまう。
(私が……私が昨夜、浮かれていたから)
タワレコの袋を提げて、安堵していた自分の姿が脳裏をよぎる。
唇を噛み締め、血の味で意識を現実に引き戻す。
後悔は後だ。今は、これ以上の「削除」を止めなければならない。
昼休み。校内放送で宇多田ヒカルが流れる中、生徒たちは弁当を広げたり、購買へ走ったりと、平和な喧騒の中にいた。
カレーパンの匂いと、制汗スプレーの香りが混ざり合う、ありふれた昼の風景。
だが、その平和は薄氷の上にある。
カナは一人、喧騒を避けるように渡り廊下へと向かった。
髪をかき上げるふりをして、耳に装着した超小型のインカム——MDプレーヤーのイヤホンに偽装された通信機——を起動する。
「……こちら深澄。聞こえますか」『——ああ、感度良好だ』
ノイズ混じりの低い声。椚だ。
背後でキーボードを叩く音と、換気扇の回る音が聞こえる。
「椚さん、状況は最悪です。学校内で『記憶の欠落』が蔓延しています。原因はチェーンメール……いえ、あれはただのインターフェースです。裏で、何かが直接データを吸い上げている」
『そのようだな。今、ノアが回線を逆探知した』
椚の声には、珍しく焦りの色が混じっていた。
『昨日の「影」は囮だった。奴らが残した「種」が、地下ケーブル経由で学校のローカルサーバーに巣食い、そこから生徒の端末へバックドアを開けてやがる』
「どうして……どうしてセンサーは反応しなかったんですか?」
カナは思わず声を荒らげそうになり、慌てて口元を手で覆った。
すれ違った女子生徒たちが、不審そうにこちらを見ている。カナは「電話中」のジェスチャーで誤魔化した。
『……奴らの進化だ』椚が苦々しく吐き捨てる。
『これまでのバグは「異物」として物理的に侵食してきた。だが今回は、既存の通信プロトコル(TCP/IP)に擬態している。俺たちの監視網を「正規のデータ通信」としてすり抜けやがったんだ』
「……学習、されたんですね」
『ああ。俺たちの負けだ。だが、まだ取り返せる』
カナは窓の外、北校舎を見上げた。そこにあるのは特別教室棟。
アンテナが指し示している「汚染源」の方角。
「私が、元凶を叩きます。場所は北校舎3階、情報処理室(CAI教室)」
『待て、深澄。そこは学校だ。爆破するわけにはいかんぞ』
「わかっています。生徒が見ている前で派手な真似もしません」
『作戦を伝える。敵は今、生徒から吸い上げた記憶データをサーバーに集積し、圧縮して裏東京へ送信しようとしている。その「送信ポート」になっている端末があるはずだ』
椚の指示は明確だった。
『物理的な破壊は最終手段だ。まずはポートを特定し、強制的にオフラインにしろ。そうすれば、奪われた記憶データは逆流して持ち主に戻るはずだ』
「了解。……でも、もしそのポートが、機械じゃなくて『人間』だったら?」
一瞬の沈黙。
『……その時は、お前の判断に任せる。最悪の場合、その「人間」ごと凍結処理するしかない』
「……させません。絶対に」
カナは通信を切った。
インカムを耳の奥に押し込み、MDプレーヤーのコードを制服の内側に這わせる。
戦う相手は見えないウイルス。
だが、守るべきものは目の前にある。




