第10話:生き残り三姉妹
翌日の夕方。秋葉原ラジオセンターの裏手にある、古びたジャンクパーツ屋『阿頼耶電子商会』。その店の奥にある、関係者以外立ち入り禁止の重い鉄扉の向こう側で、第零技術局の作戦会議が開かれていた。
地下深くに広がる作戦室は、無数のサーバーの排熱ファンの音と、紫煙に包まれていた。壁一面に設置されたCRTモニター群が、目まぐるしく文字列を吐き出している。
「……結論から言うぞ。今回の学校での一件は、ただの『捕食』じゃなかった」
円卓の周りには、主要メンバーが揃っていた。
左肩を包帯で固定した深澄カナ。
不機嫌そうに足を組み、爪を噛んでいる沢良木莉子。
膝を抱えて携帯ゲーム機を弄っている朝比奈乃亜。
そして、上座には冷徹な美貌の局長・九条院紗夜と、報告を行う首席技師・椚蓮治。
椚は咥えタバコのまま、手元のキーボードを叩いた。
中央のメインスクリーンに、ノイズ混じりの波形が表示される。
「深澄がPC室で直結して引っこ抜いてきたデータを解析した結果だ。奴ら、生徒の記憶を食っていたんじゃない。……『学習』していた」
「学習……?」
カナが眉をひそめる。
「ああ。人間の行動パターン、感情の起伏、言語プロセス。それらをサンプリングして、自分たちの構成データ(DNA)に組み込もうとしていた形跡がある」
椚はモニターを指差した。
そこには、赤と青の複雑な螺旋構造が映し出されていたが、所々が黒く欠損し、それを無理やり人間のデータで補完しようとしているように見えた。
「つまり、奴らは次の段階に入ったってことだ。ただ現実を侵食するだけのバグじゃない。……こちらの世界の住人に『擬態』するための実験をしていたんだよ」
室内が静まり返る。換気扇の回る音だけが、不気味に響いた。
擬態。それはつまり、隣にいる人間が、中身だけ上位者に書き換えられているかもしれないという恐怖を意味する。
「……私のミスですね」
沈黙を破ったのは、莉子だった。彼女は悔しげに唇を噛み、テーブルを拳で叩いた。
「あの日、両国で私が仕留め損なった『種』が原因です。私がもっと徹底的に残骸処理をしていれば、深澄があんな怪我をすることも、学校が危険に晒されることもなかった」
莉子の声は震えていた。
彼女はプライドが高い。だが、それ以上に仲間——特に年下のカナやノアに対する責任感が強い。今回の失態は、彼女にとって許しがたいものだったのだ。
「……リコさん」
カナが声をかけようとしたが、それを制するように、九条院紗夜が静かに口を開いた。
「悔やむのは後になさい、リコ。貴方の判断ミスは事実だけれど、それ以上に敵の進化がこちらの予測を上回っていた。それだけのことよ」
紗夜は冷たい瞳で全員を見回した。
「問題はこれからよ。奴らは『学習データ』を持ち帰ることはできなかったけれど、学習の『方法』は確立してしまった。……今後、街中で人間そっくりの『バグ』に遭遇する可能性が高くなるわ」
「人間そっくりのバグ……」
ノアが小さな声で呟く。
「ええ。見分けがつかないわ。だからこそ、あなたたちの『目』が必要になる。……頼んだわよ、生き残り三姉妹」
その呼び名が出た瞬間、場の空気が少しだけ変わった。
それは、彼女たち三人に共通する、絶対に消えない「呪い」の呼び名だったからだ。
会議が終わり、椚と紗夜が今後の対策を練るために奥の部屋へと消えていく。
残された三人は、休憩スペースのソファに沈み込んだ。
「……はぁ。キツいこと言うわね、あのオバサン」
莉子はタバコに火をつけ、天井に向かって煙を吐いた。
口では悪態をついているが、その表情には深い疲労が滲んでいる。
「リコさん、気にしないでください。私、別に怒ってないですし」
カナが言うと、莉子はバツが悪そうに視線を逸らした。
「……うるさい。アンタが無事だったから良かったようなものの、もし死んでたら、アタシは一生寝覚めが悪かったわよ」
「……リコさん、優しい」
ノアがゲーム機から顔を上げずにボソッと言う。
「うるさいチビ。アンタももっと働きなさいよ」
「……働いてる。昨日の逆探知、大変だった」
三人の間に、緩やかな空気が流れる。
この空気感だけが、彼女たちが唯一「安心」できる場所だった。
なぜなら、彼女たちは知っているからだ。
自分たちが、この世界から「弾かれた」存在であることを。
ふと、カナの視界が揺らいだ。
タバコの煙が、あの日の「白い霧」に見えた気がした。
——3年前。
あの日、地下鉄トンネル崩落事故の現場から救出されたカナが目を覚ましたのは、病院のベッドの上ではなかった。
そこは、窓のない白い部屋だった。壁も、床も、天井も、すべてが無機質な白。
自分は拘束着のような服を着せられ、ベッドに革ベルトで固定されていた。
『いや……っ! 何これ、離して! お父さん!お母さん!? 歩!?』
当時14歳のカナは、半狂乱で暴れた。だが、どれだけ叫んでも誰も来ない。
隣のベッドでは、当時17歳の莉子が獣のような咆哮を上げて拘束具をガチャガチャと鳴らしており、その向こうでは、当時12歳のノアが、ただひたすらに「ごめんなさい、ごめんなさい」と譫言のように繰り返していた。
ガラス張りの壁の向こうから、防護服を着た大人たちが、まるで実験動物を見るような目でこちらを見下ろしている。
そこへ現れたのが、九条院紗夜だった。彼女だけは防護服を着ていなかった。
喪服のような黒いスーツに身を包み、ハイヒールの音を響かせて、汚染区域である隔離室に入ってきたのだ。
彼女はカナのベッドの横に立ち、手にしたカルテを見下ろしながら、淡々と告げた。
『意識レベル安定。……おめでとう。あなたたちは「選別」を生き残りました』
『な、何言ってるの……!? お母さんは!? みんなどこ?!』
カナは叫んだ。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃだった。
紗夜は表情一つ変えず、冷酷な事実を口にした。
『深澄家、4名死亡。沢良木家、3名死亡。朝比奈家、両親ともに死亡。……いいえ、正確には「処理」されました。あのような肉塊になり果てては、もはや人間として葬ることもできませんから』
『……は?』思考が停止した。肉塊。処理。何を言われているのか分からない。
『嘘よ……嘘だッ!!』
莉子が叫んだ。
『ふざけんな! 返せよ! パパとママを返せよおおおおッ!!』
『嘘ではありません』
紗夜は懐から数枚の写真を取り出し、彼女たちの目の前に放り投げた。
そこに写っていたのは、地下鉄のホームで融合し、ねじれ、人間の原型を留めていない「何か」の山だった。その中に、見覚えのある衣服の切れ端が見えた瞬間、カナの喉から空気が漏れた。
『ひゅ……っ、あ、あぁ……』
嘔吐した。胃液がシーツを汚す。
ノアは写真を見た瞬間、白目を剥いて痙攣を始めた。莉子は絶叫し、拘束具が手首に食い込んで血が噴き出すのも構わずに暴れ続けた。
地獄だった。希望も、救いも、神様もいなかった。
紗夜は汚れたシーツを一瞥もしないまま、冷たく続けた。
『あなたたちも同じです。体には、あの場所で浴びた「毒」がたっぷりと染み込んでいる。社会的に見れば、あなたたちは歩く汚染源。本来なら、ここで殺処分される運命です』
彼女は手袋をした手で、痙攣するノアの頭を撫で、嘔吐するカナの顎を強引に持ち上げた。
『でも、私はあなたたちに「選択肢」をあげましょう。……ここで死ぬか。それとも、その毒を飼い慣らして、この世界を守るための「道具」になるか』
『嫌だ……死にたくない……でも……』
カナは泣きじゃくった。家族がいない世界で、怪物になりかけの体で、どうやって生きろというのか。死んだほうがマシだ。殺してくれ。そう言おうとした。
その時。
『……殺す』
隣のベッドから、地の底を這うような低い声が聞こえた。
莉子だった。彼女は血まみれの手首でベッドの柵を握りしめ、血走った目で紗夜を睨みつけていた。
『あんたたちが殺さないなら……私が殺す。……パパたちをあんな目にあわせた奴らを……一匹残らず……ぶっ殺してやる……!!』
それは、生きる希望などという綺麗なものではない。
純粋な殺意と憎悪。けれど、それが彼女を「死」の淵から引きずり戻していた。
『……私も』
ノアが、虚ろな目で天井を見上げたまま呟いた。
『……一人は、寂しい。……死ぬのは、怖い』
カナは、自分の手のひらを見た。黒い痣が脈打っている。家族を奪った力の残滓。
弟の歩は、助けてと言っていた。あの子を見殺しにして、私だけがここで「かわいそうな被害者」として死ぬのか?
(……許せない)
自分自身が。そして、理不尽にすべてを奪った「何か」が。
カナは震える唇を噛み切り、口の中に広がる血の味と共に、紗夜を睨み返した。
『……道具で、いい』カナは掠れた声で言った。
『あいつらを……全部消せるなら……私はなんだってやる』
紗夜は初めて、薄く笑ったように見えた。
それは慈愛ではなく、使える武器を手に入れた商人の顔だった。
『契約成立ね。……ようこそ、第零技術局へ』
それが、彼女たちの「日常」が終わった日。そして、終わりのない地獄への入り口だった。「……カナ? おーい、カナ」
莉子の声で、カナは現実に引き戻された。
「あ、ごめんなさい。ちょっと、ボーッとしちゃって」
全身に冷や汗をかいていた。
3年経っても、あの日の記憶は鮮明だ。消毒液の匂いを嗅ぐたびに、胃の奥が縮み上がる。
「また昔のこと思い出してたんでしょ。……顔色、真っ青よ」
莉子はそう言いながら、飲みかけの缶コーヒー(微糖)をカナに差し出した。
「ほら、飲みなさい。糖分足りてないんじゃない?」
「……ありがとう、リコさん」
カナはコーヒーを受け取り、一口飲んだ。
苦くて、甘い。あの日の嘔吐感を洗い流してくれる気がした。
「ねえ、リコさん。……私たち、いつまで戦うのかな」
カナの問いに、莉子はふっと遠くを見るような目をした。
「さあね。……体内の毒が限界を迎えて、私たちが『あっち側』に行くまでじゃない?」「リコさん!」ノアが強い口調で咎める。
「冗談よ。……でもね。私は感謝してるのよ、あのオバサンに」
「え?」
「だって、あのまま死んでたら、ただの『被害者A』で終わりだった。でも今は、あのふざけた連中に一矢報いることができる。……代償はデカかったけど、泣き寝入りするよりはマシでしょ。それにただ単に復讐じゃない、何か。こう「私たちが東京を守ってる」みたいな使命感が今は出てきてるし。らしくないけど」
莉子はニヤリと笑った。その笑顔は、どこか痛々しく、けれど強烈な生命力に満ちていた。パンクファッションも、刺々しい言葉遣いも、すべては彼女があの日の恐怖に負けないための武装なのだ。
「……私も」
ノアがゲーム機を置いて言った。
「あの時、カナさんとリコさんがいなかったら、私、壊れてた。……三人が一緒だったから、今ここにいる」
ノアの言葉に、カナは胸が熱くなった。
そうだ。私たちは家族を失ったけれど、新しい「繋がり」を得た。
それは美しい家族愛などではない。同じ傷を舐め合い、同じ地獄を這いずり回るための、共犯者の絆。けれど、この冷たい東京の地下で、お互いの体温を感じられる唯一の場所だ。
「……そうだね。私たち、三人で一つだもんね」
カナは包帯の巻かれた左肩をそっと撫でた。痛みはまだある。
でも、この痛みがある限り、私は忘れない。そして、戦える。
私たちは「生き残り3姉妹」だ。




