第11話:地下約42m
深夜24時。
東京という巨大な回路が、昼の喧騒という熱を冷まし、夜の湿った欲望へと電圧を切り替える時間。
六本木通りを、一台の白いワンボックスカーが滑るように走っていた。
窓の外には、毒々しいほどのネオンサインと、夜を遊び尽くそうとする若者や外国人の群れが流れていく。歩道には黒服の客引きが立ち並び、クラブからは重低音のビートが漏れ出している。
「……なんか、怖い街ですね」
後部座席で、深澄カナは身を小さくしていた。黒いパーカーのフードを目深に被り、外の景色を恐る恐る覗き込んでいる。
秋葉原のジャンクな空気や、浅草橋の下町感とは違う。
ここは「大人の闇」が凝縮された場所だ。
「ビビってんじゃないわよ、田舎娘」
隣に座る沢良木莉子が、呆れたように足を組んだ。彼女もまた、目立たない黒のジップアップパーカーを着ているが、その下にはVivienne Westwoodのアーマーリングが鈍く光っている。
「六本木なんて、ただの『欲の掃き溜め』よ。私たちが見てる『あっち側』に比べれば、よっぽど健全だわ」
「そうかなぁ……。あ、見て。あそこ、すごい工事してる」
カナが指差した先には、巨大なフェンスで囲まれた広大な更地があった。
無数のクレーンが、墓標のように夜空に突き刺さっている。
六本木六丁目地区再開発——数年後に『六本木ヒルズ』と呼ばれることになるその場所は、今はまだ、巨大な穴が開いただけの「都市の空洞」だった。
「……森ビルが新しい街を作るらしいな。人間ってのは、高い場所が好きだから」
ハンドルを握る灰谷誠二が、バックミラー越しに言った。
「だが、お前たちの行き先は逆だ。……一番低い場所だぞ」
車は六本木交差点を抜け、大通り沿いに停車した。
ハザードランプの点滅音が、車内の沈黙を刻む。
「ここだ。大江戸線・六本木駅」
灰谷が顎で示した先には、地下鉄への入り口を示す看板がぼんやりと光っていた。
2000年に全線開通したばかりの最新鋭の路線。
だが、カナたちの間では、別の意味で有名な場所だった
「……できたばっかりなんですよね、ここ」カナが呟く。
「ああ。そして、日本一深い地下鉄駅だ。地上からホームまで、深さ42メートル。ビルにすれば地下14階分に相当する。もっとも東京でやつらにとっちゃ都合良い寝床ができたようなもんだろうな」
「うげっ」莉子が顔をしかめた。
「潜るだけで一苦労ね。……で? ターゲットは?」
「終電はもう行った。今は構内の清掃と点検の時間だが……」
灰谷は腕時計を見た。秒針が時を刻むのを待ちながら、静かに続ける。
「ここ数日、この駅の最深部で『局所的な地震』が頻発している。だが、気象庁のデータにはない揺れだ。……位相ズレによる空間振動だな」
車内で待機すること数十分。
路上を行き交う人々の波が少し引き、酔っ払いやタクシー待ちの列だけが残る時間帯になった。
カナは膝の上で、武器であるMDプレーヤーを握りしめた。
ふと、疑問が口をついて出る。
「ねえ、灰谷さん。……いつも思うんですけど」
「ん?」
「どうして私たち、バレないんですか? 防犯カメラもあるし、終電後の駅なんて入ったら、すぐに警備員に見つかるはずじゃ……」
この疑問は、活動を始めてからずっとカナの中にあった。
いくら深夜とはいえ、近代的なセキュリティシステムをかいくぐって、女子高生と女子大生が線路に降り立つなど、常識では考えられない。
灰谷はシートに背を預け、タバコの箱を取り出して弄びながら答えた。
「……大人の事情、ってやつさ」
「え?」
「九条院局長と、椚さんの手回しだよ。あの人たちは、表の世界にも裏の世界にも太いパイプを持ってる。監視カメラの映像をリアルタイムでループ映像に差し替えるなんて、ノアちゃんの手を借りるまでもなく、局の技術班なら朝飯前だ。まあ色んな大人が”隠しあって”合理的にやってんのさ」
灰谷はニヤリと笑った。
「それに、警備会社のシフトも、警察の巡回ルートも、すべて『調整』済みだ。お前たちが潜入する時間だけ、そこは『空白地帯』になるようにできている」
「……すごい」
カナは息を呑んだ。自分たちが戦っている裏で、どれだけの大人が動いているのか。改めて《《少数精鋭の組織の巨大さ》》と、九条院紗夜という女性の底知れなさを感じる。
「だがな、深澄」
灰谷の声が、少しだけ低くなった。
「この過剰なまでの隠蔽工作は、お前たちを守るためだけじゃない。……世間に『気づかせない』ためだ」
「気づかせない……?」
「ああ。上位者の存在も。そして、それと戦うお前たち『適合者』の存在もだ」
灰谷は振り返り、真剣な眼差しで二人を見た。
「いいか。世間から見れば、お前たちはただの少女だ。その手に持っているMDプレーヤーも、莉子ちゃんのデジカメも、ガラケーも。……傍から見れば、ただの『家電製品』だ」
「……はい」
「それでいいんだ。世界を救うのはヒーローじゃない。どこにでもいる、音楽を聴いている女子高生と、写真を撮っている女子大生だ。……その『擬態』こそが、最大の防御なんだよ」
その言葉は、カナの胸に深く刺さった。誰にも知られてはいけない。賞賛もされない。
けれど、その「平凡なフリ」こそが、この狂った世界と戦うための唯一の作法なのだ。
ラジオから、聞き覚えのあるジングルが流れてきた。
『オールナイトニッポン』のテーマ曲。時刻は深夜1時(25時)。
「……時間だ、行け」
灰谷がドアロックを解除した。
「処理が終わったら、反対側の7番出口で拾う。……死ぬなよ」
「了解」
「行ってきます」
カナと莉子はフードを目深に被り直し、冷たい夜の六本木へと飛び出した。
誰もいない地下鉄への入り口。
シャッターの横にある通用口は、灰谷の言った通り、鍵が開いていた。
二人は音もなく侵入し、湿ったコンクリートの階段を降り始めた。
そこは、地上の喧騒が嘘のような静寂の世界だった。
あるのは、空調の低い唸り音と、二人の足音だけ。
「……ねえ、《《リナ》》さん。さっきの話だけど」
「リナじゃないわよ、リコよ。なんで今更間違えてるのよ」
「あ、ごめん。……地下、深すぎない?」
カナが愚痴をこぼすのも無理はなかった。
降りても降りても、改札が見えてこない。
エスカレーターは停止しており、ただの長い階段と化している。
「文句言わない。……ほら、B1F通過。あと地下4階分くらいよ」
莉子は息一つ乱さずに降りていく。
その背中を追いかけながら、カナは自分の呼吸が少しずつ荒くなっているのを感じた。
ただの運動不足ではない。地下深くへ潜るにつれて、左腕の痣が熱を持ち始めているのだ。濃度が増している。この先に、確実に「奴ら」がいる。
「……ハァ、ハァ……」
「ちょっと、息あがってるわよ。だらしない」
「だって……空気が、重い……」
ようやくホーム階に辿り着いた時、カナの背中は冷や汗で濡れていた。
蛍光灯が間引かれた薄暗いホーム。
『大門・両国方面』の表示板が、幽霊のように青白く光っている。
「……ここね」
莉子が立ち止まり、線路を覗き込んだ。
トンネルの奥、闇の深淵から、生温かい風が吹いてくる。
腐った花のような、甘くて不快な匂い。
「準備はいい? カナ」莉子がポケットからデジタルカメラを取り出し、電源を入れた。『ウィィン……』というレンズの駆動音が、静寂を切り裂く。
「……うん」カナはMDプレーヤーを取り出し、イヤホンを片耳に装着した。
もう片方の手には、改造ガラケー。
「検索、開始」
カナはガラケーを開き、アンテナをスッと伸ばした。
2000年代の女子高生が、電波を探す時の仕草。
だが、彼女が探しているのは携帯の電波ではない。
『…………ザザ……ギ……ギギ……』
アンテナの先端が、虚空を指し示す。ホームの端。トンネルの入り口付近。
何もない空間に、強烈な「ノイズ」が渦巻いている。
「そこ……! 座標固定!」
カナの叫びと共に、二人はホームから線路へと飛び降りた。
バラスト(砂利)を踏みしめる音。
やってはいけないことをしている背徳感と、命のやり取りが始まる緊張感。
『…………』
カナがアンテナを向けた空間が、歪んだ。
まるでテレビの砂嵐が立体化したような、不快な視覚ノイズ。
そこから、ズルリと「何か」が滲み出してきた。
それは、人型をしていた。サラリーマンのようなスーツを着ている。
だが、頭部がない。首から上が、無数の「携帯電話のアンテナ」と「LANケーブル」で構成されたような、黒い棘の集合体になっていた。
『…………』
声はない。上位者は言葉を発しない。
彼らにとって、コミュニケーションとは「データの送受信(パケット通信)」であり、空気の振動による音声言語などという原始的な手段は持ち合わせていないのだ。
だが、その「沈黙」こそが、何よりも恐ろしかった。意思が読めない。感情がない。ただ、そこに「バグ」として存在し、周囲の正常な空間を書き換えようとする、宇宙的なエラー。
「……キモいのが出たわね」莉子が嫌悪感を隠さずに吐き捨て、カメラを構えた。「来るよ……ッ!」
カナが警告した瞬間、アンテナ頭の怪物が揺らいだ。
次の瞬間、怪物の背後から、影のような黒いケーブルが槍のように伸びてきた。
「させない!」
カナはMDプレーヤーの再生ボタンを親指で弾いた。『PLAY』。
ディスクが高速回転し、空間安定化プログラムが起動する。
『キィィィィィィン————!!』
高周波の不可視の障壁が展開され、迫り来るケーブルを弾き返した。
火花のようなノイズが散る。左腕に激痛が走る。
シールドへの衝撃は、ダイレクトにカナの神経へとフィードバックされるのだ。
「ぐっ……!」「ナイスガード! 今度はこっちの番よ!」
莉子がサイドステップで怪物の死角へと回り込む。シャッターボタンに指をかける。ファインダー越しに、怪物の「核」——胸元のポケット付近で明滅する赤い光——を捉える。
「ハイ、チーズ」
カシャッ!!強烈なストロボが、地下の闇を白く塗りつぶした。
それは光ではない。対象の時間を切り取り、データを凍結させる「封印」の閃光。
『……!!?』
怪物の動きがピタリと止まった。体が白黒のネガのように反転し、空間から剥離され始める。
「……今だ、深澄!! 止めを!」
「了解!」
カナはシールドを解除し、ガラケーを折りたたんで、その先端——充電端子の部分を、凍結しかかっている怪物のコアへと突き出した。
「消去……完了ッ!!」
バシュッ!!
怪物の体が、無数のポリゴン片となって砕け散った。
それらは空気に触れて灰色の粒子となり、地下鉄の風に乗って溶けていく。
「……はぁ、はぁ……」
カナはその場にへたり込んだ。戦闘時間はわずか数分。
だが、体感時間は数時間に感じられた。
左腕の痣が、ドクンドクンと脈打っている。痛い。熱い。
「……大丈夫? 」
莉子が手を差し伸べてくれた。その手も、少しだけ震えている。
普段は冷たいくせにやっぱり優しい。彼女の方が侵食は進んでいるというのに。
「うん……なんとか」
カナはその手を掴み、立ち上がった。
トンネルの奥から、再び生温かい風が吹いてきた。
だが、先ほどまでの腐臭は消えている。ただの、埃っぽい地下鉄の匂いだ。
「終わったわね。……さ、帰るわよ。始発の準備が始まる前に」
「……うん。でも、また階段……?」
「文句言わない。……あ、灰谷さんに連絡しといて」
カナはガラケーを開き、手慣れた手つきでメールを打った。
『任務完了。六本木交差点方面へ移動中』
送信完了の文字を見つめながら、カナはふと、誰もいないホームを見渡した。
「……帰ろう、リコさん」
「ええ。……あーあ、お腹空いた。牛丼でも食べて帰る?」
「え、六本木で牛丼?」
「いいじゃない、この格好で。どうせ誰も見てないわよ」
「じゃあ。灰谷さんに奢ってもらおう」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
パーカーのフードを目深に被り直し、二つの影は出口へと向かう。
地上には、まだ眠らない街のネオンが待っているはずだ。
深夜25時30分。六本木の地下深く。
一つのバグが修正され、世界はまた、何事もなかったかのように朝を迎える準備を始めていた。




