第12話:大人のやり方
日曜日の朝8時。東京の空は、抜けるように青かった。浅草橋の街は穏やかな朝の光に包まれている。
カナは、セーフハウスの近くにあるコンビニ『am/pm』の自動ドアをくぐった。店内には、まだ眠気まなこの店員と、雑誌コーナーで『週刊ジャンプ』を立ち読みをする学生が数人。
天井のスピーカーからは、有線放送のランキングチャートが流れている。
Every Little Thingの『fragile』。切ないイントロと、持田香織の透き通った歌声が、日曜の朝の少し気怠い空気に溶けていく。
「……これと、これかな」
カナは陳列棚から、紙パックの『リプトン』のミルクティーと、新発売のメロンパン、そして自分へのご褒美に『プッチンプリン』をカゴに入れた。
レジで会計を済ませ、ビニール袋を提げて店を出る。
冷たい空気が肺に入り込み、戦いの記憶を一時的に薄めてくれる気がした。
(ねむいなあ……)
左肩の傷はまだ少し痛む。けれど、こうしてコンビニで買い物をしている瞬間だけは、ただの17歳の女子高生でいられる。
カナはミルクティーにストローを刺し、一口飲んだ。甘さが脳に染み渡る。
(これこれ、これよお)
駅前へ向かう信号待ちで、ふと視線を上げた時だった。
総武線の高架下、タクシー乗り場のあたりに、見覚えのある人影があった。
「……リコさん?」
沢良木莉子だ。しかし、いつもの黒いパンクファッションではない。深いワインレッドのワンピースに、黒の革ジャンを羽織っている。足元は高いピンヒール。彼女は、仕立てのいいスーツを着た一人の男性と向き合っていた。
「じゃあな、莉子」
「ええ。……また連絡するわ」
男性が軽く手を振り、タクシーに乗り込んでいく。
莉子はそれを見送ることなく、気怠げに髪をかき上げ、ポーチからタバコを取り出した。
「……あ」カナと目が合った。
「……何よ。朝っぱらから人の顔ジロジロ見て」
莉子は不機嫌そうに眉をひそめたが、その頬は少しだけ紅潮し、メイクも夜通し遊んだ後のように少し崩れている。
「おはようございます、リコさん。……朝帰りですか?」
カナが恐る恐る尋ねると、莉子はふんと鼻を鳴らし、火のついていないタバコをまた箱に戻した。
「別に。……ちょっと飲んでただけよ」
「あの人、彼氏ですか?」
「は? 違うわよ。ただの……まあ、腐れ縁の友達みたいなもん」
莉子が近づくと、甘い香水の匂いに混じって、微かなアルコールとタバコの匂いがした。それが、カナの知らない「大人の夜」の匂いだと気づき、少しだけドキリとする。
二人は並んで、セーフハウスへの道を歩き出した。
カナはジャージにサンダル。莉子はハイヒールにワンピース。
たった3歳の差なのに、隣を歩く彼女が、ひどく遠い世界の住人のように感じる。
「……何してたんですか? 朝まで」「いろいろよ……」
莉子はそう言うと、カナの手からメロンパンを奪い取り、勝手に袋を開けて一口かじった。「ん、甘っ。……これだから子供は」
「あ! ちょっと、私の朝ごはん!」
「減るもんじゃないでしょ。……で? アンタこそこんな早くから何してんの」
「あ、そうだ」
カナはポケットからガラケーを取り出し、メール画面を莉子に見せた。
【送信者:椚】
『新型のロールアウトだ。午後、暇な時に来い』
「椚さんが、新しい武器(電子端末)ができたから来いって。……この前の六本木の件も受けて、急いで調整したみたいです」
「ふーん。あのヘビースモーカー、仕事だけは早いのよね」
莉子はメロンパンをカナに返し、あくびをした。
「分かった。私、シャワー浴びて仮眠したら行くわ。先行ってて」
「ノアは?」
「あの子なら、多分もう向こうにいるわよ。……新しいオモチャが入るってなったら、部屋にじっとしてられない性格だしね。椚さんの手伝いしてるんじゃない?あの子学校行ってないしちょうどよかったんじゃない」
セーフハウスの階段を上がりながら、莉子のハイヒールの音がコツコツと響く。その背中を見ながら、カナは思った。夜遊びをして、男の人と会って、それでもこうして「戦士」の顔に戻る。沢良木莉子という女性の強さと、その裏にある、何かを紛らわせるような孤独を。彼女も人間のままであろうとしている。
午後。秋葉原ラジオセンターの地下、阿頼耶電子商会。第零技術局東京支部。
ハンダの焼ける匂いと、冷却ファンの唸り音が響く開発室で、カナは「それ」と対面していた。
「……ビデオカメラ?」
作業台の上に置かれていたのは、ソニーの『ハンディカム』によく似た、銀色の小型ビデオカメラだった。だが、レンズ周りは無骨な金属パーツで補強され、側面の液晶モニターには複雑な計器類が表示されている。
「ただのビデオじゃねえ。MiniDV方式デジタルビデオカメラ。俺が徹夜で組み上げた対・適応型バグ用兵装、『シーケンス・キャプチャ(連続事象封印機)』だ」
椚蓮治が、愛用の『セブンスター』を吹かしながら、誇らしげに言った。
その横では、予想通り乃亜がPCに向かい、興味津々な様子でカメラのドライバ設定を弄っている。
「……なんでビデオなんですか? 私のMDとか、リコさんのデジカメじゃダメなの?」
「デジカメは『瞬間』を切り取るには最強だ。だが、この間の奴らみたいに、攻撃パターンを学習して再生してくるタイプには相性が悪い」
椚は煙草の灰を空き缶に落とし、説明を続けた。
「奴らは常にコードを書き換えている。だから、『点』ではなく『線』で捉える必要があるんだ。……こいつは、奴らの行動プロセスそのものを磁気テープに記録し、時間の流れごと封印する」
「時間の流れごと……」
カナは恐る恐るカメラを手に取った。ずしりと重い。
側面のスロットを開けると、小さなカセットテープ——MiniDVテープが入っている。「使い方はこうだ。……お前ら三人で連携して使う」
椚がホワイトボードに図を描き始めた。
【運用プロセス】
カナ(解析): ファインダーを覗き、敵が「次にどの現実を書き換えるか」という数秒先の予兆を読み取る。
ノア(演算): i.LINKケーブルで接続された携帯ゲーム機で、カメラが捉えた映像をリアルタイム解析し、敵のソースコードの脆弱性を特定する。
莉子(制圧): カメラの「ナイトショット(赤外線撮影モード)」を起動し、特定された弱点を無限ループの映像データの中に閉じ込め、敵の時間を強制停止させる。
「すげえだろ? まさに21世紀の兵器だ」
椚はニヤリと笑ったが、すぐに真顔に戻った。
「だがな、深澄。……こいつにはデカイ弱点と、リスクがある」
「弱点?」
「一つは物理的な制約だ。テープは60分しか持たない。それに、激しく動けばヘッドが汚れてノイズが走るし、テープが絡まればその時点でアウトだ。……デジタルだが、構造はアナログなんだよ」
2000年代初頭。デジタル機器は進化していたが、記録媒体はまだ物理的な「テープ」や「ディスク」に依存していた。その脆さが、命取りになる。
「そして、もう一つのリスク。……これが一番厄介だ」
椚はカナの目を真っ直ぐに見た。
「こいつは『連続した時間』を吸い取る兵器だ。使用中、お前の脳味噌(CPU)には、敵のデータと現実の映像が同時に流れ込んでくる。……長時間使いすぎると、お前自身の記憶が『上書き保存』される危険がある」
「上書き……?」
カナの背筋が凍った。
「ああ。敵を封印したつもりが、気づいたら自分の『昨日の晩飯』や『大切な思い出』が、ノイズだけの映像に置き換わってるかもしれん。……脳のメモリ容量は有限だからな」
カナは手の中のカメラを握りしめた。私の記憶。
家族と過ごした日々。歩の笑顔。リナとの学校生活。
それが、バグのノイズに塗りつぶされて消えてしまうかもしれない。
それは、死ぬことよりも恐ろしいことのように思えた。
「……それでも、使います」カナは顔を上げた。
「奴らの『擬態』が進んでいるなら、今の装備じゃ守りきれない。……私が、忘れないように気をつければいい話です」
「……ふん。言うようになったな」
椚は満足げに鼻を鳴らし、新品のMiniDVテープのパックを放り投げた。
「ほらよ。テープ代もバカにならねえんだ。無駄撃ちすんなよ」
「……ありがとう、椚さん」
その時、奥の応接室のドアが開き、数人の男たちが出てきた。
仕立ての良いグレーのスーツを着た初老の男と、SPらしき屈強な男たち。
その中心に、局長の九条院紗夜が立っていた。
「——では、その手はずで。首都高速の封鎖については、警視庁交通部へは私から話を通しておきます」
「頼むよ、九条院さん。……あそこには、来年度の予算がつぎ込まれているんだ。工事の遅れは許されない」
初老の男は、紗夜に対して明らかに「遠慮」の色を見せていた。
いや、それは畏怖に近い感情かもしれない。
カナ、ノア、そして遅れてやってきた莉子の三人は、咄嗟に身構えた。
この場所は極秘だ。部外者がいること自体が異常事態。
「……おや、可愛いお嬢さんたちだ」初老の男がカナたちに気づき、目を細めた。
「彼女たちが、例の『掃除屋さん』かね?」
「ええ。私の自慢の子供たちですわ」紗夜は微笑みながら、カナたちの肩に手を置いた。
紗夜は微笑みながら、カナたちの前に進み出て、その視線を遮るように立った。
「ご紹介します。こちらは……そうね。この国の『血管』の流れを握っている方々です」
紗夜はあえて具体的な肩書を口にしなかった。だが、カナには分かった。
彼らが指先一つ動かすだけで、地図が書き換わり、法律がねじ曲がり、人の人生など簡単に消し飛ぶような、雲の上の存在であることを。
「安心してくれたまえ。我々も君たちの味方……というよりは、九条院さんに首根っこを掴まれている同類だよ。彼女は敵に回したくないからね」
老人はしわがれた声で笑い、出口へと向かった。
「それに、私たちは君たちの名前も何も知らない。ただの『機材トラブルの処理班』だと思っている。……頼んだよ。我々が作り上げた東京を、壊さないでくれ」
老人は去り際に、値踏みするように彼女たちを一瞥した。
それは、人間を見る目ではなく、切れ味の良い「凶器」を見る目だった。いや、それが正解だ。深入りして知る必要はないし知ってもいけない。彼女らが戦っている存在は彼ら普通の人間が触れては決していけないのだから。
「……待ってください」
紗夜の凛とした声が、老人の足を止めた。
彼女はカナ、莉子、ノアの三人を背に庇い、老人を真っ直ぐに見据えた。
「一つだけ、訂正を」
「……なんだね?」
「彼女たちは『処理班』でも、使い捨ての『道具』でもありません」
紗夜の声は、氷のように冷たく、けれど決して折れない鋼のような響きがあった。
「あの日、親を失ったこの子たちの命は……私が預かっています。彼女たちの手綱を握り、その最期まで見届けるのが『保護者』である私の義務です。……外野が気安く値踏みするのは、やめていただけますか?」
「……っ」
老人は一瞬目を丸くし、やがて愉快そうに喉を鳴らした。
「……クックッ。相変わらず、食えない女だ。だが確かに言う通りだ……失礼した」
重い鉄扉が閉まる。
後に残されたのは、高級な葉巻の残り香と、ピリつくような緊張の糸。
「……なによ、急に」
莉子が、照れ隠しのように舌打ちをした。
「保護者なんてガラじゃないでしょ」
「ふふ。……事実よ。あなたたちの衣食住からお高い学費も任務の葬式代まで、すべて私の財布から出ているのだから。まあ仕事の報酬は、違うから安心して」
紗夜はいつもの冷徹な表情に戻り、自身のデスクに歩み寄った。
「彼らは『擬態』の段階に入ろうとしている上位者が現れた際の、大規模な根回しのために呼んだのよ」「根回し?」
「ええ。もし街中で派手な戦闘になれば、目撃者を消すだけでは追いつかない。……その時は、物理的に街を封鎖する。道路工事、ガス管破裂、交通事故。……あらゆる『公的な理由』を使って、あなたたちの戦場を隔離するためにね」
紗夜は地図を広げた。そこには、渋谷、新宿、池袋といった主要都市の、深夜の交通規制スケジュールがびっしりと書き込まれていた。
時間は深夜。当時の社会情勢なら、多少の道路封鎖は「よくある工事」として処理できる。それを可能にするのが、先ほどの老人たちの力だ。
「いい? これから敵は、人間社会に溶け込んでくる。……戦いは、ただの力押しじゃなくなるわ。情報、隠蔽、そして政治。……大人の喧嘩を見せてあげる」
カナは、手元のビデオカメラと、紗夜の背中を見比べた。
新しい武器。そして、国家権力さえも動かす盤石なバックアップ。
戦力は整った。だが、それは同時に、敵の脅威がそこまで迫っているという証拠でもあった。
「……やるしかないわね」莉子がカメラのレンズを覗き込みながら言った。
「私のデジカメと、そのビデオ。……どっちが優秀か、試してやろうじゃない」
「……ん。解析なら、負けない」ノアもゲーム機を掲げる。
カナはMiniDVテープをカメラに装填した。『ウィィン……カチャッ』
小気味よい機械音が、戦いの準備完了を告げる。




