第4話:普通の女子高生
秋葉原の喧騒から電車で隣駅。
JR総武線「浅草橋駅」。
住宅街と繁華街の境界にある、灰色の雑居ビル。
築年数は古いが、オートロックや監視カメラなどのセキュリティだけは妙に新しい。
地図上では「雑居ビル」としか表記されていないこの建物こそが、第零技術局がエージェントたちのために借り上げている「セーフハウス(隠れ家)」だった。
「……ふぅ。重い」
エレベーターのない階段を3階まで上がり、深澄カナはスーパーの白いレジ袋を指に食い込ませながら、重たい鉄扉の前で立ち止まった。
鍵を取り出す。
ピッキング対策が施された特殊なディンプルキー。
ガチャリ、と重厚な開錠音が廊下に響く。
「ただいま」
返事がないのは分かっている。
それでも言わずにはいられない習慣。
ドアを開けると、そこには彼女が必死に作り上げた「普通の女子高生」の世界が広がっていた。
玄関には厚底のブーツと、学校指定のローファーが並んでいる。 6畳ほどのワンルーム。
壁紙は、元々の殺風景なコンクリートを隠すように、淡いピンクの花柄のクロスが貼られていた。
壁にはコルクボードが掛けられ、プリクラや、ファッション誌から切り抜いたモデルの写真、そしてあの日亡くなった家族と撮った最後の写真が飾られている。
ここは、組織が用意した「鳥籠」だ。
家賃、光熱費、生活費はすべて組織持ち。
その代わり、彼女たちの生活圏は常に監視下に置かれている。
それでもここだけが唯一、カナが「武器」を手放して息ができる場所だった。
カナは制服のカーディガンを脱ぎ、部屋着のジャージに着替えると、すぐに狭いキッチンへと立った。 レジ袋から食材を取り出す。
特売の豚ひき肉、玉ねぎ、卵、そして牛乳。
「今日はハンバーグでいいか」
包丁を握る手つきは慣れていた。
トントントントン……。 玉ねぎを刻むリズミカルな音が、静まり返った部屋に響く。
料理は嫌いじゃない。むしろ、無心になれるから好きだ。 彼女が料理を覚えたのは、あの事件——地下鉄での実験事故——の後だった。
両親と弟はあの時、裏東京の「亀裂」に飲み込まれて消滅した。
いや、奴らに喰われた。
唯一生き残ったカナは、その日から一人で生きていくしかなかった。
食べることは、生きること。
上位者の餌になるのを拒み、人間として生き続けるための、ささやかな抵抗。
「……しょっぱいな、これ」
フライパンでソースの味見をして、カナは小さく呟いた。 換気扇が古く、ゴウンゴウンと低い音を立てて回っている。
ガスコンロの火を見つめていると、時折、フラッシュバックのように昨夜の怪物の姿がちらつく。
カナは首を振ってそれを打ち消し、皿にハンバーグと付け合わせのレタスを盛り付けた。
ちゃぶ台代わりのローテーブル(冬場はコタツになるタイプ)に食事を並べ、テレビの電源を入れる。 14インチのブラウン管テレビ。
画面の四隅が少し丸く歪んで見えるのが、今の当たり前だ。
スイッチを入れると、「ブゥン」という特有の帯電音と共に、バラエティ番組の笑い声が流れ出した。
画面の中の明るい世界。
カナは箸を進めながら、ふと天井を見上げた。
このフロアには3つの部屋がある。
301号室はカナ。
302号室は、沢良木 莉子。
303号室は、朝比奈 乃亜
同じ組織に属し、同じ「毒」を持つ運命共同体。 だが、九条院局長の方針で、生活空間は完全に分けられていた。
『過度な馴れ合いは判断を鈍らせる』
『プロの同僚として、適切な距離を保ちなさい』
その言葉通り、彼女たちはお互いの部屋を行き来することはほとんどない。
ノアの部屋は、壁一面にサーバーとゲームソフトが積まれた「電子要塞」になっているらしいし、リコの部屋は、趣味の現像機や暗室セットが置かれた「黒い部屋」だと聞いたことがある。それぞれの部屋には小さいながらキッチンも風呂もある。
——バタン。
隣の302号室のドアが閉まる音が聞こえた。
重たいブーツの足音。リコが帰ってきたのだ。
(…大学生だもんね)
カナはテレビの音量を少し下げ、壁越しに隣の気配を探った。時間は21時を回っている。
支部で先に出たのはカナだった。
大学のサークル? それとも合コン? 買い物だろう?派手なメイクをして、パンクファッションに身を包むリコは、外の世界ではどんな顔をしているのだろう。
少しだけ羨ましくもあり、同時に、自分には決して手に入らない「普通の青春」を謳歌しているように見える彼女が、少しだけ疎ましくもあった。自身の侵食を自覚してながらも、それでも必死に1人の人間としてあろうとする彼女の生き様。
「……ごちそうさま」
カナは空になった皿を流しに運んだ。 お腹が満たされると同時に、鉛のような眠気が襲ってくる。 半感染状態の体は、常人の何倍ものカロリーを消費し、常に休息を求めている。
「お風呂……入らなきゃ……」
メイクも落としていない。でも、もう指一本動かせない。
カナは吸い込まれるように、テレビの前のクッションに倒れ込んだ。
ブラウン管の中で、司会者が何かを叫んでいる。
意識が遠のく。 画面の砂嵐と、番組のエンドロールが混ざり合い、彼女を深い眠りの底へと引きずり込んでいった。
『——こちらは、朝のニュースです』
つけっぱなしだったブラウン管テレビから流れる、アナウンサーの無機質な声。
カナはソファ代わりのクッションの上で、不自然に折れ曲がった体勢のまま目を覚ました。
「……んぅ……」
首が痛い。喉が渇いた。 重たい瞼をこじ開け、ローテーブルの上に放り出していたガラケーを手に取る。 サブディスプレイのバックライトを点灯させる。
【 8:15 】
「……はち、じ……?」
カナは一度目を閉じ、数秒後にカッと見開いて、もう一度画面を見た。 8時15分。 予鈴まであと10分。学校までは走って15分。電車なら1駅で2分だが、そんな余裕はない!
「——やっば!!!!」
カナはバネ仕掛けのように跳ね起きた。
「嘘でしょ!? 目覚ましは!? っていうか電池切れてるし!」
パニック状態で洗面所へ飛び込む。
鏡に映った自分は、まさに「昨日の残骸」だった。 髪は爆発し、制服はシワだらけ。地下鉄のオイルと埃の混ざった匂いが、まだ微かに残っている気がする。
「シャワー浴びてる時間ない……!」
カナは洗面台に頭を突っ込み、「前髪」だけをお湯で濡らした。女子高生にとって、前髪のコンディションは命だ。ここさえ整っていれば、なんとかなる。 濡れた前髪をタオルで拭きながら、後ろ髪は手櫛で強引に雑に。
「制汗スプレー、スプレー……あった!」
『8×4(エイトフォー)』の缶を掴み、制服の下に猛烈な勢いで噴射。さらに、甘いベリー系のボディミストを全身に振りまく。 地下鉄の匂いも、バグの残り香も、すべてこの人工的な甘さで上書き保存する。
スカートを履き替え、ウエスト部分をクルクルと巻き上げる。 鏡を見る余裕はない。
昨日の残りのクリームパンを口に咥え、カナは部屋を飛び出した。
「行ってきます!!」
もちろん、返事はない。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
校門を駆け抜けた瞬間、予鈴のチャイムが鳴り響いた。 上履きに履き替える手間すら惜しい。
カナは廊下をスライディングするように走り、2年B組の教室のドアを勢いよく開け放った。
「セーーーーフッ!!!」
教室中の視線が集まる。
担任はまだ来ていない。
カナは肩で息をしながら、自分の席へと雪崩れ込んだ。
「……おはよ、カナ。全然セーフじゃないけど」
前の席のリナが、呆れ顔で振り返った。
彼女はカナの顔をジロジロと観察し、鼻をクンクンと動かす。
「あんた、盛大に寝坊したでしょ」
「……なんで、わかるの」
「バレバレだって。前髪だけ妙にサラサラだし、後ろ髪ボサボサだし。それに」
リナはニヤリと笑って、カナのスカートを指差した。 「スカートの丈、いつもより3センチは短いよ? 急いで巻いたでしょ」 「うっ……」 「あと、ボディミストの匂い強すぎ。香害レベル」
「うう……面目ない」
カナは机に突っ伏した。
やはり、親友の目は誤魔化せない。
これがもし「敵」だったら、即座に正体を見破られてゲームオーバーだ。
「ま、間に合ったからいいじゃん」
リナは笑って、机の上にファッション誌を広げた。
「ていうかさ、昨日の『うたばん』見た? モー娘。の新曲、超良くなかった?」
「あー……ごめん、見逃した。バイトで遅くて」
「えー、マジで? トーク超ウケたのに。あ、じゃあ今日の帰りTSUTAYA寄ってかない? あゆ(浜崎あゆみ)の新しいリミックスアルバム、レンタル始まってるはずなんだよね」
「TSUTAYA? ……うん、いいね。行こう」
カナは顔を上げて微笑んだ。 TSUTAYAの棚に並ぶCDやDVD。 マクドナルドでダベる時間。 プリクラ帳の交換。 それが、この時代の「正解」の日常だ。 平和で、能天気で、そして何よりも守るべき光景。
『ガラッ』
教室のドアが開き、担任の竹内が入ってきた。 「おい、席につけー。朝のHR始めるぞ」ざわついていた教室が、緩やかに静まっていく。 カナは姿勢を正し、黒板を見つめた。 その背筋に、冷たい緊張が走る。
(……TSUTAYA、か)
放課後の約束。 本来なら楽しみなはずの予定が、今は重い足枷のように感じる。 彼女の脳裏に、昨夜の指令室での九条院の言葉がリフレインする。
——『近日中に、大規模な位相ズレが発生する可能性があります』
——『場所は、あなたの学校の近く。学校生活を維持しつつ、警戒を厳に』
カナはチラリと窓の外を見た。 どんよりとした曇り空。 校庭の隅にある焼却炉の煙が、風に流されず、不自然に真上へと立ち上っている。
(……来てる)
まだ微弱だが、肌がチリチリとするような違和感。 この教室の空気の中に、目に見えないノイズが混じり始めている。
バグは、すぐそこまで来ている。
「深澄、日直だろ。号令」 「あ、はい!」
カナは慌てて立ち上がった。 「起立、礼!」
椅子を引く音が一斉に響く。
カナは頭を下げながら、スカートのポケットの中にあるガラケーを強く握りしめた。
リナやみんなには、指一本触れさせない。
たとえ、私が「普通の女子高生」でいられなくなるとしても。




