第24話:さよなら、スクラップ
深夜26時。眠らない街・六本木は、暴力的なまでの喧騒と、退廃的な静寂がまだら模様に混在していた。
ガスパニックのネオン、客引きの怒号、路地裏に座り込む外国人と若者たち。
かつて防衛庁があったこの街は今、世紀の再開発事業——のちの「六本木ヒルズ」となる巨大複合施設の建設工事によって、その腹を大きく抉り取られていた。
「……ここに来んのは、あの地下鉄での一件以来か」
灰谷誠二がハンドルを握る白いワンボックスカーが、六本木通りの渋滞を抜け、工事現場の搬入口へと滑り込んだ。助手席には深澄カナ。後部座席には、愛用のデジタルカメラ『Nikon COOLPIX 990』のメンテナンスをしている沢良木莉子が座っている。
カナが窓の外を見上げる。かつての街並みは消え失せ、そこには巨大なクレーターのような「穴」が広がっていた。東京の地下深くを掘り返し、新たなバベルの塔を築くための基礎工事現場。鉄骨とコンクリートの迷宮には、作業用の強力な投光器が焚かれ、昼間のような明るさだが、人の気配は絶えて久しい。
「……相変わらず嫌な空気ね」
莉子が、レンズの汚れをクロスで拭き取りながら呟いた。
「再開発だか何だか知らないけど、地面の下には寝た子を起こしちゃいけないものが埋まってるってのに。……人間ってのは、どうしても穴を掘りたがる生き物らしいわ」
「違げえねえ」
灰谷が車を止め、サイドブレーキを引いた。
「現場監督がパニックになって入れた110番通報を、ノアちゃんが傍受した。『重機が勝手に動く』『作業員が行方不明になった』ってな……。所轄が動く前に情報を握りつぶしたが、典型的な侵食パターンだ」
灰谷はダッシュボードからタバコを取り出し、二人に目配せした。
「俺はここで退路を確保しとく。……頼んだぞ、お嬢ちゃんたち」
「了解」
カナと莉子は車を降りた。
夜風には、掘り返された土の匂いと、錆びた鉄の匂い、そして微かな「腐臭」が混じっていた。
二人は工事用のフェンスをくぐり抜け、広大な「奈落」へと足を踏み入れた。
足元はぬかるんだ泥道。
頭上には、巨大なクレーンのアームが墓標のように突き刺さっている。
「……深澄、まずは位置を特定して。広いわよ、ここは」
莉子の指示に、カナは頷き、ブレザーのポケットから端末を取り出した。
シルバーの折りたたみ式携帯電話——一見するとただの『P503i』だが、中身は椚の手によって完全に作り変えられたバグ・スキャナーだ。
『パカッ』
親指で勢いよく端末を開く乾いた音が、静寂に響く。
カナは本体上部にあるアンテナを、カチリカチリと最長まで引き伸ばした。
そして、通常は電話番号交換などに使う先端の「赤外線ポート」を、闇が濃く淀んでいる方向へと向ける。
「……赤外線深度、スキャン開始」
カナが端末をダウジングロッドのようにゆっくりと振る。
当時の赤外線通信は、機器同士を一直線に向けなければ反応しないほど指向性が強い。その不便さを逆手に取り、空間の「歪み」をピンポイントで探り当てるのだ。
液晶画面には、通常の待受画面ではなく、荒いドットで描かれたレーダー波形が表示されている。カナが地下駐車場の基礎部分にポートを向けた瞬間、画面が激しく赤く点滅した。
『ピピピピピッ……!』
『Detection: High Distortion(高歪曲反応)』
「……見つけた。地下3層相当エリア、北側」
カナが携帯の画面を莉子に見せる。
肉眼ではただの暗闇だが、携帯のカメラ越しに見ると、そこには赤いノイズのような磁場が渦巻き、一台の重機を包み込んでいるのが映し出されていた。
「……ビンゴね。行くわよ」
莉子がライダースジャケットの襟を立て、カメラの電源を入れる。
『ウィーン……』というモーター音と共に、特徴的なスイバル(回転)レンズが前方を向く。カナも携帯を閉じ、MDプレーヤーのイヤホンを耳に押し込んだ。
現場の深部、地下駐車場の基礎となるエリアに到達した時だった。
異変は、唐突に訪れた。
『グオォォォォォン……!』
重苦しいディーゼルエンジンの駆動音が、地底から響き渡った。
しかし、それは通常の重機の音ではない。
まるで巨大な獣が唸るような、湿った咆哮を含んでいる。
「……来た」カナが身構え、警棒を展開する。
暗闇の中から現れたのは、一台の大型油圧ショベルだった。
だが、その姿は異様だった。黄色い塗装はボロボロに剥がれ落ち、露出した金属部分は赤黒い肉塊のように脈動している。
アームの関節部分からは、ドロリとした粘液がオイルのように滴り落ち、バケット(ショベル部分)は無数の牙が生え揃った「顎」に変貌していた。
地下深くに眠っていた古代の「上位者の種子」が、掘削によって目覚め、近代的な建設機械と融合した成れの果てだ。
『……埋メ……ロ……』
『……全ブ……埋メ……ロ……』
運転席には誰もいない。
いや、ガラス越しに見えるのは、運転席のシートと一体化した作業員の「顔」のようなものだった。彼は既に、この機械の一部——制御ユニットとして取り込まれてしまったのだ。苦悶の表情を浮かべたまま、ヘルメットごとうめ込まれている。
「……趣味が悪いわね」
莉子が吐き捨てるように言った。
「文明の進歩とやらの代償がこれ? ……反吐が出るわ」
『ガガガガガッ!!』
合成獣がキャタピラを軋ませ、猛スピードで突進してきた。
数トンの鉄塊が、生き物のような俊敏さで迫る。
「散開ッ!」
カナと莉子は左右に飛び退いた。
合成獣のアームが振り下ろされ、二人がいた場所のコンクリートを粉砕する。
飛び散る礫。
その破壊力は、これまでの敵とは桁違いだ。
「硬い……!」カナが側面から回り込み、MDプレーヤーの結界を展開して鉄パイプを叩き込む。
『ガギィン!』
しかし、金属と肉が融合した装甲は強固で、表面に浅い傷をつけるのが精一杯だ。
逆に、衝撃でカナの手首が痺れる。
合成獣が旋回し、その巨大な顎でカナを喰らおうとする。
「させないわよ」
冷徹な声と共に、闇夜に閃光が走った。
『カシャッ!!!!』
Nikon COOLPIX 990の増設ストロボが炸裂する。
その瞬間、世界の色が反転した。
網膜に焼き付くような強烈な白光。
莉子の能力——『瞬間凍結』。
彼女がシャッターを切った瞬間、被写体となった空間の時間は、写真のように「静止」する。
合成獣の動きが、空中でピタリと止まった。
振り上げられたアーム、飛び散る泥、滴る粘液。
すべてが「静止画」となって固定されている。
「深澄、今よ! 砕きなさい!」莉子の指示が飛ぶ。
「はいッ!」カナは静止した敵の懐に飛び込んだ。
MDプレーヤーのリモコンを操作し、ボリュームを最大まで回す。
『Track 03: Impact』
重低音の振動を鉄パイプに乗せ、敵の駆動部——キャタピラの付け根にある油圧シリンダーを狙う。
「はぁぁぁぁッ!!」
渾身の一撃。
鉄パイプが食い込んだ瞬間、莉子の「静止」が解除された。
『ズドォォォォォン!!』
蓄積された運動エネルギーが一気に解放される。
合成獣の左キャタピラが爆ぜ飛び、巨大な機体がバランスを崩して横転した。
「やった……?」カナが距離を取り、残心をとる。
しかし、敵はまだ終わっていなかった。
『ギギ……ギギギ……』
横転した合成獣が、周囲の鉄骨や資材を取り込み始めたのだ。
散乱していた単管パイプやワイヤーが、まるで触手のように敵の体に巻き付き、失ったキャタピラを「義足」のように再構築していく。
「再生した!? ……しかも、デカくなってる」カナが驚愕する。
敵は周囲の「物質」を取り込めば取り込むほど、強大になっていく。この現場には、餌となる資材が無限にある。
「……チッ、面倒な奴」
莉子が舌打ちし、CFカードの残量を確認する。
「深澄、長期戦は不利よ。……核を狙うわ。あの運転席の『顔』が怪しい」
「私が囮になります! リコさんは撮影の準備を!」
カナが叫び、制止を聞かずに駆け出した。
「ちょっ、待ちなさい深澄! 一人じゃ……」
カナは速い。瓦礫の山を駆け上がり、再生中の敵の頭上へと躍り出る。
しかし、敵の反応も早かった。
再構築されたワイヤーの触手が、鞭のようにしなり、空中のカナを襲う。
「くっ……!」
カナは空中で身を捻り、MDの障壁でガードするが、多方向からの攻撃を捌ききれない。鋭利なワイヤーの先端が、カナの頬を掠めた。鮮血が舞う。
「しまっ……」
体勢が崩れたカナに向かって、合成獣の巨大な顎が迫る。
回避できない——。
その時。
『カシャカシャカシャカシャカシャッ!!!!』
凄まじい速度の連写音が響いた。
まるでマシンガンのようなストロボの連閃。
カナの目の前に迫っていた顎が、コマ送りのようにカクカクと動きを止め、やがて完全に停止した。
莉子がカナの前に割り込み、至近距離でシャッターを切り続けていたのだ。
「……ッ!」莉子のカメラから、焦げ臭い煙が上がっている。
過負荷。
連続での空間固定は、彼女の精神と機材に多大な負荷をかける。
「リ、リコさん!?」カナが地面に着地する。
「……アンタねえ」
莉子はカメラを構えたまま、肩で息をしてカナを睨みつけた。
「死に急ぐなって、いつも言ってるでしょ! ……リナにあんなこと言われて、まだ分かんないの!?」
「……え?」
「『守りたい』って言われたんでしょ!? ……守られる側が先に壊れてどうすんのよ! 馬鹿!」
莉子の怒声が、工事現場に響いた。
それは、かつて自分も同じように焦り、傷ついてきたからこその言葉だった。
20歳という若さで「大人」を演じなければならなかった彼女の、不器用な愛情。
「私の可愛い後輩に傷をつけるなんて……」
莉子は血が滲むカナの頬を一瞥し、再び敵に向き直った。
その表情は、鬼気迫るほどに美しく、冷徹だった。
「……いい度胸じゃない。……『削除』してやるわ」
「深澄、耳塞ぎなさい」
莉子がカメラのダイヤルを操作する。
液晶画面のモード表示が『AUTO』から『M』、そして『BULB』へと切り替わる。
「……バルブ撮影(長時間露光)、セット」
バルブ撮影。シャッターボタンを押している間、シャッター幕を開き続け、光を取り込み続ける撮影技法。通常は星空や夜景を撮るための機能だが、莉子の手にかかれば、それは「対象の存在をデータとして吸い込み続ける」必殺の捕食行動となる。
「……私がシャッターを開けている間、奴は光に分解される。……でも、私は一歩も動けない。……背中は任せたわよ」
「……はい!」
カナは涙を拭い、莉子の背後に立った。
鉄パイプを構え、周囲から伸びてくる触手を迎撃する態勢をとる。
「……さよなら、スクラップ」
莉子が深く息を吸い、シャッターボタンを押し込んだ。
『カシャッ………………』
シャッターが開いたままになる。
と同時に、レンズの奥から信じられないほどの吸引力が発生した。
風ではない。「光」が吸い込まれているのだ。
『ガァァァァァァァァッ!?』
合成獣が絶叫する。
その巨大な体が、輪郭から徐々に崩れ出し、光の粒子となってカメラのレンズへと流れていく。肉も、鉄も、呪いも。すべてが等しく「0と1の信号」へと変換され、莉子のカメラの中に封印されていく。
敵は抵抗しようと、ワイヤーの触手を莉子に向けて伸ばす。
「させないッ!!」カナが叫び、触手を叩き落とす。
一本、また一本。莉子には指一本触れさせない。その背中は、私が守る。
「……終わりよ」
敵の核である運転席の「顔」が、恐怖に歪みながら光の中に溶けた。
数トンの巨体が完全に消滅し、ただのデータとして圧縮された瞬間。
『……ッ、カシャン』
莉子がシャッターボタンから指を離した。
幕が下りる音が、静寂を取り戻した現場に響く。
「……ふぅ」
莉子はその場にへたり込んだ。
カメラのボディは高熱を持ち、湯気を上げている。
「リコさん!」
カナが駆け寄り、肩を貸す。
「……重かったわ、今回のは」
莉子は苦笑し、ポケットからタバコ(と見せかけたメンソールの抑制剤)を取り出して口に含んだ。
「……でも、まあ。悪くなかったわよ、今日の動き」
「……リコさんのおかげです」
カナは莉子の横顔を見た。
汗で張り付いた黒髪、白い肌、そして不敵な笑み。
その姿は、悔しいけれど、どうしようもなくカッコよかった。
「……ほら、これ」
莉子がポケットから絆創膏を投げた。
「頬、手当しときなさい。……女の子なんだから」
「……ありがとうございます」
カナは絆創膏を受け取り、小さく笑った。
「……帰ったら、データ消去しなきゃ。……容量食いすぎよ、こいつ」
莉子がカメラの再生画面を確認する。
そこには、光の帯となって消えゆく怪物の姿が、幻想的なアートのように記録されていた。
東の空が白み始めている。
建設中の六本木のビル群の隙間から、朝の光が差し込む。
二人は互いに支え合いながら、灰谷の待つ車へと歩き出した。
その足取りは重いが、確かな信頼のリズムを刻んでいた。




