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MADE IN 東京  作者: 水色蛍
擬態される日常編
23/25

第23話:悪くない春になりそう

 東京の空には、春の訪れを告げる強い南風——「春一番」が吹き荒れていた。

 街路樹の桜の蕾がほころび始め、アスファルトには季節外れの埃っぽい風が舞っている。新年度の予感を目前に控え、世間が浮き足立つこの時期。秋葉原のガード下にある「電子とニコチンの聖域」もまた、別の意味で熱を帯びていた。


「……ふん。改めてバラしてみると、本当にスカスカだな」


 椚蓮治が、ピンセットで小さな基板を摘み上げながら独り言ちた。

 作業デスクの上には、カナが使用した白いデバイス——『HDDオーディオプレーヤー(プロトタイプ)』が無残な姿で分解されている。

 Apple社がまだ世に問う前の、極秘ルートで入手された5GBのハードディスク搭載機だ。


「……椚さん、それ壊さないでくださいよ。まだローン残ってるんですから(組織の経費だけど)」


 深澄カナが、パイプ椅子に浅く腰掛け、呆れたように言った。

 彼女は学校帰りだ。紺色のブレザーの袖にはチョークの粉が少し付いており、足元のローファーは履き潰されて踵が少し減っている。


「壊してるんじゃねえ、検分だ。……見てみろ深澄。この筐体の中、ドライブとバッテリー以外は空気だらけだ。メーカーの連中は『軽量化』とかほざくだろうが、俺たち技術屋からすりゃあ『空き地』に見える」


 椚はニヤリと笑い、デスクの脇にあるジャンクパーツの山から、怪しげなコイルと真空管を取り出した。

「これだけのスペースがありゃあ、予備の冷却ファンと、増幅用の回路をもう二つねじ込めるな。……出力がお前のMDの倍になるぞ」


「……あの、重くなるのは勘弁してほしいんですけど」

「甘えるな。重さは威力だ。それに、このホイールの感度も気に食わねえ。もっとこう、カチカチッとしたクリック感がねえと、戦闘中の誤操作を招く。いや、いっそこいつだけにするか?」


 椚はハンダごてを握り、楽しそうに作業を再開した。紫煙と松脂の焼ける匂いが混じり合う。この男にとって、最新のデジタルガジェットも、路地裏のジャンクも等しく「素材」でしかない。


「……終わったら連絡する。今日はもう上がれ」

 椚は背中を向けたまま、ヒラヒラと手を振った。


「……はぁ。お願いします」

 カナはため息をつき、鞄を肩にかけた。背後で、重厚な防音扉が開く音がする。


「カナ! お待たせー!」

 明るい声と共に、松浦リナが飛び込んできた。

 彼女もまた、制服姿だ。ただし、スカート丈はカナよりさらに短く、ソックスはルーズ。鞄にはジャラジャラと大量のストラップが付いている。

 ここ数週間で、彼女は「第零技術局」の空気にすっかり馴染んでいた。


「リナ、学校お疲れ。……補習は?」

「終わったよ! 椚さんの講義より簡単だったし!」

 リナはケラケラと笑い、椚の背中に向かって「おじさーん、お先でーす!」と声をかける。


「……うるせえ小娘だ。さっさと帰ってクソして寝ろ」

 椚は悪態をつきながらも、その声には微かな笑みが混じっていた。

 この殺伐とした地下室に、リナという「異物」が混ざったことで、澱んでいた空気が少しだけ対流し始めている。


「行こう、カナ。……今日は『お泊まり会』なんでしょ?」

 リナがカナの腕を引く。

「うん。……まあ、お泊まりっていうか、ただの夕飯だけど」


 二人は地下の魔窟を後にし、春の嵐が吹く地上へと上がった。


 秋葉原から、カナたちが住む浅草橋までは、総武線の高架沿いに歩いて15分ほどの距離だ。

 二人は電車を使わず、両国方面へと向かう昭和通りを歩いていた。


「うわっ、風つよっ!」

 リナがスカートを押さえながら声を上げる。

 ビル風が吹き抜け、ショーウインドウのガラスをガタガタと鳴らす。

 舞い上がった砂埃が目に入りそうになるが、春特有の湿った暖かさが肌にまとわりつく。


「……もうすぐ春休みだね」リナが歩きながら言った。

「カナ、3年生になったらクラス替えあるかな? 私、またカナと同じクラスがいいな」


「……どうかな。こればっかりは運だから」

 カナはマフラーを直しつつ答える。

 以前なら、「どうせ私はいつ死ぬか分からないし」なんて冷めた思考が頭をよぎっていただろう。だが今は、「同じクラスだといいな」と素直に思う自分がいる。


 神田川にかかる左衛門橋を渡る。

 川面には、どこかから飛んできた桜の花びらが数枚、油膜の浮いた水面に張り付いて流れていた。

 川沿いには屋形船の船着場があり、提灯が風に揺れている。

 その向こうに、カナたちが暮らす古いレンガ貼りのマンションが見えてきた。


「ここがカナの家か〜! 意外とフツーのマンションだね。いや、ビルかな?」

 リナが見上げながら感想を漏らす。

「もっとこう、窓が鉄板で塞がれてるとか、監視カメラだらけとか想像してた」


「……よく見て。カメラだけは最新式だから」

 カナが指差す先、エントランスの天井や電柱の影に、不釣り合いなほど高性能な監視カメラが光っている。築年数の古いこの建物は、組織が買い上げた彼女たちの「鳥籠」だ。家賃や光熱費はタダだが、その代わり、生活の全ては監視されている。


「エレベーターはないの。……3階まで階段ね」

「うへぇ、地味にキツい」


 二人はコツコツと足音を響かせ、薄暗い階段を上がった。

 3階のフロアには、鉄製の重いドアが3つ並んでいる。

『301』『302』『303』。

 表札はなく、郵便受けもテープで塞がれている。

 それぞれの部屋には、カナ、莉子、乃亜が住んでいるが、九条院局長の「馴れ合いは判断を鈍らせる」という方針により、生活は完全に分断されていた。

 キッチンも風呂も各個室に完備され、廊下ですれ違うことすら稀だ。


「……301号室。ここが私の部屋」

 カナが鍵を取り出す。

 この鍵を開ける時、いつも少しだけ緊張する。

 ここが「帰る場所」であってほしいと願いながら、同時にここが「隔離施設」であることを再確認させられるからだ。


「よし、行こう! ドーナツ溶けちゃう!」

 リナが手に持った『ミスタードーナツ』の箱を掲げる。


「ただいま」

「お邪魔しまーす!」


 ドアを開けると、そこはこぢんまりとしたワンルームだった。

 広さはわずか6畳。コンクリート打ちっ放しの冷たい壁。

 だが、その壁の一部には、淡いピンク色の花柄のクロスが不器用に貼られている。

 壁にかかったコルクボードには、学校の行事予定表や、リナと撮ったプリクラが飾られている。それは、カナが必死に作り上げた「普通の女子高生」としての擬態ディスプレイだった。


「へぇ〜! カナの部屋、結構かわいいじゃん!」

 リナが靴を脱いで上がり込む。

 部屋の中央にはコタツがあり、その上には14インチのブラウン管テレビが鎮座している。


「……狭いでしょ。座ってて」

 カナが制服のブレザーをハンガーにかける。

 リナは手に持っていた『ミスタードーナツ』の黄色い箱をコタツの上に置いた。


 箱を開けると、甘い香りが部屋に広がる。

 ポン・デ・リング、オールドファッション、エンゼルフレンチ。

 当時の女子高生の定番だ。


「……ありがとう。お茶入れるね」

 カナは廊下のミニキッチンでお湯を沸かし、マグカップを二つ持ってきた。


「いただきまーす!」

 二人はコタツに入り、ドーナツを頬張る。

 テレビからは、夕方のニュース番組が流れているが、二人の会話は学校の噂話や、新しいコスメの話だ。カナにとって、この「何の意味もない会話」こそが、何よりも貴重な鎮痛剤だった。


 二時間ほど経ち、窓の外が茜色に染まり始めた頃。突然、玄関のチャイムが鳴った。


『ピンポーン』


「……え?」

 カナが驚いてドアを開けると、そこには両手にスーパーの袋を持った沢良木莉子と、夕方なのに眠そうな目を擦る朝比奈乃亜が立っていた。


「リ、リコさん? ノアも?」

「……何よその顔。今日はリナが来てるって聞いたから、食材持ってきたのよ。餃子よ餃子。」莉子がぶっきらぼうに言い、強引に上がり込んでくる。

「……リナさんが来るなら、私の部屋よりマシかなって」

 乃亜もボソリと言い、ゲームボーイ片手に部屋に入ってきた。


 普段、互いの部屋を行き来することはほとんどない。

 302号室は現像液の匂いが充満する「暗室」。

 303号室はサーバーの排熱が籠もる「電子要塞」。

 リナを呼べるのは、かろうじて「普通の部屋」を保っているカナの301号室だけだった。


「うわっ、リコさんだ! ノアちゃんも!」

 リナが嬉しそうに手を振る。6畳の部屋に4人。一気に密度が高まる。


「……で、どうすんのこれ。狭すぎない?」

 莉子がコタツの周りを見渡して溜息をつく。

「仕方ないですよ。……じゃあ、ホットプレート出しますから」


 夕闇が迫り、部屋の明かりが灯る。

 コタツの上にはドーナツの箱の代わりにホットプレートが置かれ、ジュウジュウと食欲をそそる音が響き始めた。メニューは餃子だ。


「……ほら深澄、アンタも手伝いなさい」

 莉子は黒いキャミソールにカーディガンというラフな部屋着姿で、手際よく野菜を刻んだボウルを混ぜている。

「……リコさん、意外と家庭的」

「うるさい。一人暮らしが長いだけよ」


 4人がコタツを囲み、肩を寄せ合いながら餃子を包んでいく。

 狭い。肘が当たる距離だ。だが、その距離感が心地よい。


「……ねえカナ」

 リナが不恰好な形の餃子を作りながら、ふとカナの足元を見た。

 カナは部屋着のスウェットに着替える前で、まだスカート姿だ。


「カナのスカートさ、やっぱり短すぎない? ……私よりも短くない?」

「え? そうかな」

 カナは自分のスカートの裾をつまんだ。膝上15センチ。当時の校則ギリギリ、いや完全にアウトなラインだ。


「私のは標準だよ。……リナのがルーズすぎるだけ」

「いやいや! 私のは『可愛い』ラインだけど、カナのはなんかこう……『殺る気』満々って感じがするんだよね」


「……正解」

 餃子のひだを器用に作りながら、莉子がニヤリと笑った。

「深澄のそれは、太ももにMDプレーヤーの予備バッテリーやナイフを隠すための仕様よ。……あと、蹴り上げる時に邪魔にならないようにね」


「えぇ……そんな理由!?」

 リナが引いたような声を出す。

「でもさー、リコさんも人のこと言えないじゃん? ノアちゃんに見せてもらったよ、昔の写真」


「は?」莉子の手が止まる。「……おい乃亜、何見せた」


 乃亜が視線を逸らし、黙々と完璧な形の餃子を作り続ける。


「……サーバーの整理中に、偶然発掘された黒歴史。……金髪、日焼け、厚底ブーツの『ガングロ』時代のリコさん」


 改めてノアがその写真をリナに見せる。

 パンクロックで椎名林檎の様な少し毒のあるお洒落な雰囲気とは真逆の様な姿に。

 リナが爆笑し、狭い部屋の空気が震える。

「ちょっと! 消しなさいよそのデータ!!」

 莉子が顔を真っ赤にして立ち上がろうとして、コタツの天板に膝をぶつけた。「痛っ!」


「……黒歴史もまた、歴史の一部」乃亜が淡々と言い返す。

「……ちなみに、当時のリコさんのスカート丈、今のカナより5センチは短かった。……まさに『パンツ見せスタイル』」


「うっさい! あれはそういう時代だったのよ!」


 騒がしい笑い声。

 餃子が焼ける香ばしい匂いと、換気扇の古めかしい音。

 カナは、その騒がしい光景を見ながら、一つ一つ丁寧に餃子を包んでいた。

 ふと、胸の奥が熱くなるのを感じた。


(……温かい)


 地下鉄の事故以来、カナの世界は冷たいコンクリートと、血とオイルの匂いだけで構成されていた。3階の3つの部屋は、それぞれが孤独を飼い慣らすための独房だったはずだ。でも今、リナという「光」が中心にいることで、壁が取り払われたように繋がっている。これは「任務」でも「監視下での生活」でもない。ただの日常だ。


「……カナ? どうしたの、手止まってるよ」リナが心配そうに顔を覗き込む。

「……ううん、なんでもない」カナは小さく首を振り、微笑んだ。

「……早く焼こうか。お腹空いた」


 食後のコーヒー(リナと乃亜はカフェオレ)を飲み終える頃には、時刻は21時を回そうとしていた。リナは実家が遠く、そろそろ帰らなければならない。

 灰谷が車で送ってくれる手はずになっているが、到着まで少し時間があった。


 カナは窓を開け、ベランダに出た。

 そこは、洗濯機を置けばいっぱいになるほどの狭いスペースだ。

 だが、そこからは神田川が一望できた。


 春一番の風は止み、穏やかな夜風が吹いている。

 眼下を流れる神田川の水面が、街灯を反射して黒く光っている。

 川沿いの桜並木は、夜の闇の中で白く浮き上がり、時折ハラハラと花びらを散らせていた。


「……綺麗だね」背後から声がした。リナだ。

 彼女も、狭いベランダに出てきて、カナの隣に並んだ。


「うん。……今年は咲くのが早いみたい」カナが答える。


「……ねえ、カナ」

 リナが夜空を見上げたまま言った。

「私ね、ここに来るまで、東京って怖い場所だと思ってたんだ」

「……え?」

「ほら、人多いし、みんな冷たそうだし。……裏東京のこと知ってからは、もっと怖くなったけど」


 リナは視線を落とし、川を行く屋形船の赤い提灯を見つめた。

 その光は、水面に揺らめきながら、儚くも確かな温かさを放っている。


「でもね、今は違うの。……この景色の中に、リコさんやノアちゃん、大友さんや灰谷さんや組織の人たち……そしてカナがいるんだって思うと、なんか愛おしく思えてきて」


 リナはカナの方を向き、真剣な瞳で言った。

「……守りたいな、って思ったの。」

「……」

「カナがずっと一人で守ってきたこの景色も、この狭いけど温かいお部屋も。……私のパパやママがいる日常も。全部、壊させたくない」


 その言葉は、カナの胸に深く突き刺さった。

 これまでカナは、「復讐」や「義務」で戦ってきた。

 バグを排除しなければ自分が死ぬから。世界が壊れるから。

 それは「マイナスをゼロに戻す」ための戦いだった。


 でも、リナは違う。彼女は「プラスを守る」ために戦おうとしている。

 今日食べた餃子の味、くだらないお喋り、この夜桜の美しさ。

 それらを愛しているからこそ、守りたいと願う。


「……そうだね」

 カナは夜風に髪をなびかせながら、深く頷いた。

「……私も、守りたい。リナと出会って、やっとそう思えた気がする」


「えへへ、言質とったー!」

 リナが無邪気に笑い、カナに抱きついた。

「じゃあ、これからもよろしくね、相棒!」

「……重いってば。ここ狭いんだから落ちるよ」


 カナは文句を言いながらも、リナの背中に手を回した。

 その体温は温かく、鼓動がトクトクと伝わってくる。

 この小さなベランダは、確かに「鳥籠」かもしれない。

 けれど、ここから見る景色は、今までで一番輝いて見えた。


 階下から、軽くクラクションが鳴る音がした。

 見下ろすと、路肩に灰谷の白いワンボックスカーが停まり、ハザードランプを点滅させている。


「あ、お迎えだ」リナが体を離し、手を振った。

「じゃあねカナ! 明日、学校で!」

「うん。……気をつけて」


 リナが部屋に戻り、莉子と乃亜に賑やかな挨拶をして出て行く音がする。

『じゃあねリコさん! ノアちゃんバイバイ!』

 鉄のドアが閉まる重い音が響き、静寂が戻る。


 カナは一人、ベランダに残った。


 春の夜風が、散り始めた桜の花びらを一枚、カナの手のひらに運んできた。

 それは薄ピンク色で、壊れやすく、でも美しい。

 カナはその花びらを握りしめ、夜空を見上げた。


 日常は脆い。ガラス細工のように、いつ砕け散ってもおかしくない。

 だからこそ、私たちは戦うのだ。

 この暖かな場所を、理不尽な「上位者」たちの論理で上書きさせないために。


「……悪くない春になりそう」


 カナは小さく呟き、花びらを風に放った。

 それは闇の中へ舞い上がり、ネオンの光に溶けていった。

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