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MADE IN 東京  作者: 水色蛍
擬態される日常編
22/27

第22話:Casio EX-word

 放課後の教室。茜色の夕陽が、ブラインドの隙間から差し込み、無人の机たちに長い影を落としていた。部活動の掛け声や吹奏楽部の楽器の音が、遠くから微かに聞こえてくる。それは平和な日常のBGMだ。

 だが、教室の片隅で行われているのは、日常とはかけ離れた「補習」だった。


「……違う、リナ。そのコードじゃ敵の論理ロジックに弾かれる」


 深澄カナが、前の席を振り返りながら指摘する。

 彼女の手にはチョークではなく、愛用のMDプレーヤーが握られている。

 一方、松浦リナは、配られたばかりの無骨な電子辞書——『Casio EX-word(改)』を机に置き、眉間にシワを寄せていた。


「う〜ん……。『停止(Stop)』じゃダメなの?」

「ダメ。相手は物理法則を無視した上位者だよ? 『停止』なんて単純な命令は、奴らの定義には存在しない場合が多いの。……もっと根源的な言葉を選んで」


 リナは辞書のキーボードをカチカチと叩いた。

 モノクロの液晶画面には、英単語の意味ではなく、複雑なコマンドラインと波形が表示されている。椚によって改造されたこの辞書は、現実を侵食する「バグ」の定義を検索し、一時的に書き換えるための対論理兵装だ。


「……じゃあ、『凍結(Freeze)』とか?」

「そう、それなら通る可能性が高い。……物理的に止めるんじゃなくて、時間を止めるイメージ」


 カナが少しだけ口元を緩めた。

 リナがこの「裏側の世界」に足を踏み入れてから2週間。

 最初は恐怖で震えていた彼女も、持ち前の勘の良さで、少しずつデバッガーとしての才能を開花させつつある。


「……はぁ、疲れたぁ。頭使いすぎて糖分足りないよ」

 リナが机に突っ伏した。

「ねえカナ、今度の任務って『お台場』なんでしょ? 私、初めて行くんだよね。ヴィーナスフォートとか」


「……奇遇ね。私も初めて」カナが苦笑する。

「東京に住んでても、意外と行かないよね。……あそこ、カップルばっかりだし」


「だよねー! カナとデートなら悪くないけど、今回は仕事かぁ……」

 リナは頬杖をついて窓の外を見た。

 夕焼けに染まる空。その向こうにある埋立地の人工都市。

 そこには今、日常を脅かす「歪み」が生まれている。


「……大丈夫だよ、リナ」

 カナがリナの手の上に、自分の手を重ねた。

「リナは私の後ろにいて。……前衛は私がやるから。リナは私の『目』になってくれればいい」


「……うん」

 リナはカナの顔を見上げた。

 以前よりも、カナの表情が柔らかくなっている気がした。

 一人で全てを背負い込んでいた「孤高のエージェント」の顔ではなく、背中を預ける仲間を得た「姉」のような顔。

 それが嬉しくて、リナは少しだけ怖さを忘れることができた。


『ブー……ブー……』


 二人の携帯が同時に震えた。画面には、乃亜からの短いメッセージ。

『お台場・パレットタウン周辺、空間歪曲率上昇。……24:00、作戦開始』


 深夜の首都高速11号台場線。

 レインボーブリッジのループを抜け、海上に浮かぶ埋立地へと向かう一台の黒いセダンがあった。

 いつもの灰谷のワンボックスカーではない。

 漆黒のボディが街灯を弾く、高級車だ。


 ハンドルを握っているのは、大友拓也。

 彼は仕立ての良いスーツを崩すことなく、滑るようなハンドルさばきで車を走らせている。

 助手席にはカナ。後部座席には、目深に帽子を被ったリナが座っている。


「……拓也さんの運転で任務に行くの、久しぶりだね」

 カナが流れる夜景を見ながら呟く。

「1年ぶりくらいかな。……あの頃は、まだ私も未熟で、よく拓也さんに助けられたっけ」


「はは、懐かしいね」

 大友が穏やかなバリトンボイスで笑った。灰谷のような豪快さはないが、包み込むようなスマートな優しさがある。

「でも、今のカナを見てると安心するよ。……いい相棒ができたみたいだしね」


 大友はバックミラー越しに、後部座席のリナに視線を送った。

 リナは少し緊張した面持ちで、窓の外の観覧車を見つめている。


「……ねえ、カナ」リナが身を乗り出した。

「私、今日家抜け出してきちゃった。……ママには『友達の家に泊まる』って嘘ついて」


「……ああ、それなら大丈夫だよ」大友が優しく声をかけた。

「九条院局長が裏で手を回してくれてる。……君のご両親の携帯には、君からの『今から寝るね、おやすみ』というメールが自動送信されている頃だね」


「えっ、すご……」

 リナは目を丸くした。

「アリバイ工作まで完璧なんだ……。なんか、悪いことしてる気分」


「いいんだよ。君は世界を守るためにここにいるんだから」

 大友がウィンカーを出しながら微笑む。

「安心して任務に集中していいよ、リナちゃん」


「……は、はい!」

 名前を呼ばれて、リナは少し顔を赤らめた。


「……それにしても、あのお姉さん——局長さんって、何者なの?」

 リナが素朴な疑問を口にする。

「めちゃくちゃ美人だし、偉そうだし……。なんか、住む世界が違うっていうか」


「ははっ」

 カナと大友が同時に笑った。

「リナ、それは禁句。……局長はね、私たちの想像以上の人だよ」

「そうだね。……僕たちですら、彼女の本当の『深さ』は知らない。……ただ一つ言えるのは、彼女が東京を守るための『システム』そのものだということかな」


 車は有明ジャンクションを降り、深夜の静寂に包まれたお台場エリアへと入った。

 巨大な観覧車のシルエットが、夜空に黒々と浮かび上がっている。

 目的地は、その足元にあるショッピングモール『ヴィーナスフォート』。


「……着いたよ」


 大友が車を寄せ、エンジンを切る。

 静寂。埋立地特有の、潮風と乾いたコンクリートの匂い。

 昼間の喧騒が嘘のように、人の気配は全くない。


「……じゃあ、行こうか」


 カナがブレザーの内ポケットからMDプレーヤーを取り出し、イヤホンを耳に装着した。リナも深く深呼吸をし、ポケットの電子辞書を握りしめた。


「うん!」


 深夜のヴィーナスフォート内部。

 営業終了後のモールは、非常灯の薄暗い緑色の光に照らされていた。

 中世ヨーロッパの街並みを模した回廊。

 石畳の通路、噴水広場、教会のようなファサード。

 それら全てが、作り物めいた静けさの中で、不気味なリアリティを放っている。


「……静かだね」

 カナがコツコツとローファーの音を響かせて歩く。

「……うん。……なんか、空気が重い」

 リナは天井を見上げた。


 そこには、ヴィーナスフォート名物の「空の天井画」がある。

『スカイプログラム』と呼ばれる照明演出で、昼の青空や夕焼けを映し出す巨大なスクリーン。今は深夜のため、照明は落ちているはずだ。

 だが、暗闇の中に、うっすらと「赤黒い雲」が渦巻いているように見える。


「……来る」リナが立ち止まり、耳を塞いだ。

「……聞こえる。……すごく、嫌な音」


『ギギ……ギギギ……』


 噴水広場の中央。空間が、ガラスのようにひび割れた。

 天井の「偽物の空」が剥がれ落ち、その裏側にある「亜空間の闇」から、何かが垂れ下がってきた。


「……ッ!?」

 リナは息を呑み、足が震えた。


 それは、天使と呼ぶにはあまりにも冒涜的な姿だった。

 石膏像のような白く美しい女性の上半身。

 だが、その下半身は、無数のマネキンの腕や脚、そして軟体動物のようなヌメリとした触手が複雑に絡み合った「肉塊」だった。

 顔には目も鼻もなく、ただ巨大な亀裂のような口が縦に裂けている。


 人工的に作られた理想郷(お台場)のデータ残滓と、人々の欲望が混ざり合って生まれた、この都市特有のバグだ。


『……キレイ……ニ……ナリ……タイ……』

『……ミテ……ワタシ……ヲ……』


 裂けた口から、ノイズ混じりの合成音声が響く。

 その声を聞いただけで、リナの胃液が逆流しそうになる。

 生理的な嫌悪感。足がすくんで動けない。


「カ、カナ…上…!」


「リナ、大丈夫!」カナの声が響く。

「私がいる。深呼吸して!」


 カナはMDプレーヤーの再生ボタンを押した。

『Track 01: Barrier』

 高周波のシーク音が空間に走り、カナの周囲に見えない障壁が展開される。


『ギャァァァッ!!』

 模造天使が触手を振り回す。

 石畳が粉砕され、噴水の水が弾け飛ぶ。

 カナは障壁でそれを弾き、隠し持っていた特殊警棒を展開して懐に飛び込んだ。


「はぁっ!」

 警棒が天使の脇腹を薙ぐ。しかし——。


「……!?」

 手応えがない。警棒は白い肢体をすり抜け、空を切った。

 まるで、ホログラムを殴ったような感覚。


『……イタイ……コト……シナイデ……』

 天使が笑ったように体を歪める。

 次の瞬間、カナの足元の床が、デジタルノイズのように点滅し、ドロドロの泥沼へと変質した。


「くっ……物理攻撃が通らない!? 『硬度』が設定されてないの!?」


 カナがバランスを崩す。この空間自体が、奴のプログラムによって書き換えられつつある。


「カナ!!」

 リナが叫ぶ。

 震える手で電子辞書を開く。

 液晶画面のカーソルが激しく明滅している。


(……落ち着け、私。カナを助けるんだ)


 リナは目を閉じ、耳を澄ませた。

 敵の触手が空気を裂く音。カナの荒い呼吸音。

 そして、その奥にある、敵を構成している「コード」を聞き取る。


『Object: Imitation_Angel』

『State: Floating(浮遊)』

『Attribute: Intangible(非実体)』


「……見つけた!」

 リナの指が、キーボードを叩く。

 カチ、カチ、カチ。

 Casio独特の、ゴムっぽいキータッチの感触が、指先に現実感を戻してくれる。


「カナ、あいつ実体がないよ! 『非実体』の属性がついてる!」

「やっぱり……! リナ、書き換えられる!?」

「やってみる!」


 リナは辞書の検索窓に『Intangible』と入力し、その対義語を呼び出した。

 候補が表示される。


『Tangible(実体的)』

『Corporeal(肉体的)』

『Materialize(具現化)』


「……これだ!」

 リナは『Materialize(具現化)』を選択し、エンターキーを強く叩き込んだ。


『Execute: Overwrite...』


 電子辞書の背面スリットから、青白い排熱光が漏れる。

 リナの指先から放たれた信号が、不可視の矢となって模造天使に突き刺さった。


『ギ……ギギッ!?』


 天使の動きが止まる。ノイズのように揺らいていた白い肢体が、ビキビキと音を立てて硬化していく。半透明だった輪郭が、明確な「物質」としての質量を持ち始めた。


「カナ、今!! 触れるよ!!」


「ナイス、リナ!」


 カナが泥沼から抜け出し、地を蹴った。

 左目が充血し、こめかみに幾何学模様の痣が浮かび上がる。

 MDプレーヤーのボリュームを最大に上げる。

 流れるのは、空間を固定し、バグを破砕するための攻撃トラック。


「消えなさい、失敗作!」


 カナの一撃が、実体化した天使のコア——裂けた口の奥にある黒い球体を捉えた。『ドォォォォン!!』

 重厚な打撃音と共に、石膏のような体が砕け散る。

 模造天使は断末魔を上げることなく、美しい光の粒子となって霧散し、ヴィーナスフォートの天井へと吸い込まれていった。


 戦闘終了。モールは、何事もなかったかのように静まり返っていた。

 崩壊しかけた噴水も、めくれ上がった床も、敵の消滅と共に、リセットされたかのように元の綺麗な状態に戻っている。


「……はぁ、はぁ……」カナが膝をつき、乱れた呼吸を整える。リナが駆け寄った。

「カナ、大丈夫!?」

「……うん。リナのおかげで助かったよ。……ナイスハッキング」


 カナが汗ばんだ顔で笑いかけ、親指を立てた。


 その時、モールの入口から、シューッというスプレーの音が聞こえた。

 大友拓也だ。彼は銀色のスプレー缶を手に、空間に残った微量な「バグの残り香」を中和しながら歩み寄ってきた。手にはモップのような清掃用具も持っている。


「お疲れ様。……見事な連携だったね」

 大友は、戦いの痕跡を一瞥し、満足げに頷いた。

「カナの突破力と、リナちゃんの解析能力。……うん、すごくいいチームになりそうだ。見ちゃいけないのが残念だけど」


 大友はビニール袋から缶コーヒーを取り出し、二人に手渡した。

「はい、ご褒美」


「……あ、ありがとうございます」


 リナはプルタブを開け、一口飲んだ。ブラックコーヒーだ。


「……にがっ」

 リナが顔をしかめる。

「うえぇ、泥水みたい……」


「失礼だなぁ。厳選された豆の香りだよ?」

 大友が苦笑しながら、自分のコーヒーを開ける。

「……リナ、それは『大人の味』って言うのよ」

 カナが微糖のカフェオレを飲みながら、いたずらっぽく笑った。


 三人でモールの外へ出る。お台場の空が、白み始めていた。

 東の空、ゲートブリッジの向こうから、朝日が昇ってくる。

 ヴィーナスフォートの「作られた空」ではない。

 冷たく、眩しく、どこまでも広がる本物の空だ。


「……綺麗」リナが呟く。

「……なんか、世界がいつもより綺麗に見える」


「……それが、私たちが守ったものだよ」カナが隣で言った。

「誰も知らないけど、確かにここにある日常」


 リナは電子辞書をポケットにしまい、深く息を吸い込んだ。

 恐怖で震えていた足は、もう止まっている。

 自分が何をしたのか、何をすべきなのか。それが分かった今、この朝日は自分への祝福のように思えた。


「さあ、帰ろうか」大友が車のキーを回した。


「リナちゃん、家まで送るよ」「はい!」


「……カナも、それでいい?」

 大友が優しくカナに視線を向ける。


「……ええ。今日は、もう少しこの余韻に浸っていたい気分ですから」

 カナはリナの肩に頭を預け、小さくあくびをした。

「……リナ、枕代わりにしていい?」

「えー、重いよー」


 文句を言いながらも、リナは嬉しそうにカナを受け止めた。

 黒いセダンが、朝日に照らされたレインボーブリッジを走り抜けていく。

 その車内には、戦いを終えた安堵と、確かな絆の温もりが満ちていた。


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