第22話:Casio EX-word
放課後の教室。茜色の夕陽が、ブラインドの隙間から差し込み、無人の机たちに長い影を落としていた。部活動の掛け声や吹奏楽部の楽器の音が、遠くから微かに聞こえてくる。それは平和な日常のBGMだ。
だが、教室の片隅で行われているのは、日常とはかけ離れた「補習」だった。
「……違う、リナ。そのコードじゃ敵の論理に弾かれる」
深澄カナが、前の席を振り返りながら指摘する。
彼女の手にはチョークではなく、愛用のMDプレーヤーが握られている。
一方、松浦リナは、配られたばかりの無骨な電子辞書——『Casio EX-word(改)』を机に置き、眉間にシワを寄せていた。
「う〜ん……。『停止(Stop)』じゃダメなの?」
「ダメ。相手は物理法則を無視した上位者だよ? 『停止』なんて単純な命令は、奴らの定義には存在しない場合が多いの。……もっと根源的な言葉を選んで」
リナは辞書のキーボードをカチカチと叩いた。
モノクロの液晶画面には、英単語の意味ではなく、複雑なコマンドラインと波形が表示されている。椚によって改造されたこの辞書は、現実を侵食する「バグ」の定義を検索し、一時的に書き換えるための対論理兵装だ。
「……じゃあ、『凍結(Freeze)』とか?」
「そう、それなら通る可能性が高い。……物理的に止めるんじゃなくて、時間を止めるイメージ」
カナが少しだけ口元を緩めた。
リナがこの「裏側の世界」に足を踏み入れてから2週間。
最初は恐怖で震えていた彼女も、持ち前の勘の良さで、少しずつデバッガーとしての才能を開花させつつある。
「……はぁ、疲れたぁ。頭使いすぎて糖分足りないよ」
リナが机に突っ伏した。
「ねえカナ、今度の任務って『お台場』なんでしょ? 私、初めて行くんだよね。ヴィーナスフォートとか」
「……奇遇ね。私も初めて」カナが苦笑する。
「東京に住んでても、意外と行かないよね。……あそこ、カップルばっかりだし」
「だよねー! カナとデートなら悪くないけど、今回は仕事かぁ……」
リナは頬杖をついて窓の外を見た。
夕焼けに染まる空。その向こうにある埋立地の人工都市。
そこには今、日常を脅かす「歪み」が生まれている。
「……大丈夫だよ、リナ」
カナがリナの手の上に、自分の手を重ねた。
「リナは私の後ろにいて。……前衛は私がやるから。リナは私の『目』になってくれればいい」
「……うん」
リナはカナの顔を見上げた。
以前よりも、カナの表情が柔らかくなっている気がした。
一人で全てを背負い込んでいた「孤高のエージェント」の顔ではなく、背中を預ける仲間を得た「姉」のような顔。
それが嬉しくて、リナは少しだけ怖さを忘れることができた。
『ブー……ブー……』
二人の携帯が同時に震えた。画面には、乃亜からの短いメッセージ。
『お台場・パレットタウン周辺、空間歪曲率上昇。……24:00、作戦開始』
深夜の首都高速11号台場線。
レインボーブリッジのループを抜け、海上に浮かぶ埋立地へと向かう一台の黒いセダンがあった。
いつもの灰谷のワンボックスカーではない。
漆黒のボディが街灯を弾く、高級車だ。
ハンドルを握っているのは、大友拓也。
彼は仕立ての良いスーツを崩すことなく、滑るようなハンドルさばきで車を走らせている。
助手席にはカナ。後部座席には、目深に帽子を被ったリナが座っている。
「……拓也さんの運転で任務に行くの、久しぶりだね」
カナが流れる夜景を見ながら呟く。
「1年ぶりくらいかな。……あの頃は、まだ私も未熟で、よく拓也さんに助けられたっけ」
「はは、懐かしいね」
大友が穏やかなバリトンボイスで笑った。灰谷のような豪快さはないが、包み込むようなスマートな優しさがある。
「でも、今のカナを見てると安心するよ。……いい相棒ができたみたいだしね」
大友はバックミラー越しに、後部座席のリナに視線を送った。
リナは少し緊張した面持ちで、窓の外の観覧車を見つめている。
「……ねえ、カナ」リナが身を乗り出した。
「私、今日家抜け出してきちゃった。……ママには『友達の家に泊まる』って嘘ついて」
「……ああ、それなら大丈夫だよ」大友が優しく声をかけた。
「九条院局長が裏で手を回してくれてる。……君のご両親の携帯には、君からの『今から寝るね、おやすみ』というメールが自動送信されている頃だね」
「えっ、すご……」
リナは目を丸くした。
「アリバイ工作まで完璧なんだ……。なんか、悪いことしてる気分」
「いいんだよ。君は世界を守るためにここにいるんだから」
大友がウィンカーを出しながら微笑む。
「安心して任務に集中していいよ、リナちゃん」
「……は、はい!」
名前を呼ばれて、リナは少し顔を赤らめた。
「……それにしても、あのお姉さん——局長さんって、何者なの?」
リナが素朴な疑問を口にする。
「めちゃくちゃ美人だし、偉そうだし……。なんか、住む世界が違うっていうか」
「ははっ」
カナと大友が同時に笑った。
「リナ、それは禁句。……局長はね、私たちの想像以上の人だよ」
「そうだね。……僕たちですら、彼女の本当の『深さ』は知らない。……ただ一つ言えるのは、彼女が東京を守るための『システム』そのものだということかな」
車は有明ジャンクションを降り、深夜の静寂に包まれたお台場エリアへと入った。
巨大な観覧車のシルエットが、夜空に黒々と浮かび上がっている。
目的地は、その足元にあるショッピングモール『ヴィーナスフォート』。
「……着いたよ」
大友が車を寄せ、エンジンを切る。
静寂。埋立地特有の、潮風と乾いたコンクリートの匂い。
昼間の喧騒が嘘のように、人の気配は全くない。
「……じゃあ、行こうか」
カナがブレザーの内ポケットからMDプレーヤーを取り出し、イヤホンを耳に装着した。リナも深く深呼吸をし、ポケットの電子辞書を握りしめた。
「うん!」
深夜のヴィーナスフォート内部。
営業終了後のモールは、非常灯の薄暗い緑色の光に照らされていた。
中世ヨーロッパの街並みを模した回廊。
石畳の通路、噴水広場、教会のようなファサード。
それら全てが、作り物めいた静けさの中で、不気味なリアリティを放っている。
「……静かだね」
カナがコツコツとローファーの音を響かせて歩く。
「……うん。……なんか、空気が重い」
リナは天井を見上げた。
そこには、ヴィーナスフォート名物の「空の天井画」がある。
『スカイプログラム』と呼ばれる照明演出で、昼の青空や夕焼けを映し出す巨大なスクリーン。今は深夜のため、照明は落ちているはずだ。
だが、暗闇の中に、うっすらと「赤黒い雲」が渦巻いているように見える。
「……来る」リナが立ち止まり、耳を塞いだ。
「……聞こえる。……すごく、嫌な音」
『ギギ……ギギギ……』
噴水広場の中央。空間が、ガラスのようにひび割れた。
天井の「偽物の空」が剥がれ落ち、その裏側にある「亜空間の闇」から、何かが垂れ下がってきた。
「……ッ!?」
リナは息を呑み、足が震えた。
それは、天使と呼ぶにはあまりにも冒涜的な姿だった。
石膏像のような白く美しい女性の上半身。
だが、その下半身は、無数のマネキンの腕や脚、そして軟体動物のようなヌメリとした触手が複雑に絡み合った「肉塊」だった。
顔には目も鼻もなく、ただ巨大な亀裂のような口が縦に裂けている。
人工的に作られた理想郷(お台場)のデータ残滓と、人々の欲望が混ざり合って生まれた、この都市特有のバグだ。
『……キレイ……ニ……ナリ……タイ……』
『……ミテ……ワタシ……ヲ……』
裂けた口から、ノイズ混じりの合成音声が響く。
その声を聞いただけで、リナの胃液が逆流しそうになる。
生理的な嫌悪感。足がすくんで動けない。
「カ、カナ…上…!」
「リナ、大丈夫!」カナの声が響く。
「私がいる。深呼吸して!」
カナはMDプレーヤーの再生ボタンを押した。
『Track 01: Barrier』
高周波のシーク音が空間に走り、カナの周囲に見えない障壁が展開される。
『ギャァァァッ!!』
模造天使が触手を振り回す。
石畳が粉砕され、噴水の水が弾け飛ぶ。
カナは障壁でそれを弾き、隠し持っていた特殊警棒を展開して懐に飛び込んだ。
「はぁっ!」
警棒が天使の脇腹を薙ぐ。しかし——。
「……!?」
手応えがない。警棒は白い肢体をすり抜け、空を切った。
まるで、ホログラムを殴ったような感覚。
『……イタイ……コト……シナイデ……』
天使が笑ったように体を歪める。
次の瞬間、カナの足元の床が、デジタルノイズのように点滅し、ドロドロの泥沼へと変質した。
「くっ……物理攻撃が通らない!? 『硬度』が設定されてないの!?」
カナがバランスを崩す。この空間自体が、奴のプログラムによって書き換えられつつある。
「カナ!!」
リナが叫ぶ。
震える手で電子辞書を開く。
液晶画面のカーソルが激しく明滅している。
(……落ち着け、私。カナを助けるんだ)
リナは目を閉じ、耳を澄ませた。
敵の触手が空気を裂く音。カナの荒い呼吸音。
そして、その奥にある、敵を構成している「音」を聞き取る。
『Object: Imitation_Angel』
『State: Floating(浮遊)』
『Attribute: Intangible(非実体)』
「……見つけた!」
リナの指が、キーボードを叩く。
カチ、カチ、カチ。
Casio独特の、ゴムっぽいキータッチの感触が、指先に現実感を戻してくれる。
「カナ、あいつ実体がないよ! 『非実体』の属性がついてる!」
「やっぱり……! リナ、書き換えられる!?」
「やってみる!」
リナは辞書の検索窓に『Intangible』と入力し、その対義語を呼び出した。
候補が表示される。
『Tangible(実体的)』
『Corporeal(肉体的)』
『Materialize(具現化)』
「……これだ!」
リナは『Materialize(具現化)』を選択し、エンターキーを強く叩き込んだ。
『Execute: Overwrite...』
電子辞書の背面スリットから、青白い排熱光が漏れる。
リナの指先から放たれた信号が、不可視の矢となって模造天使に突き刺さった。
『ギ……ギギッ!?』
天使の動きが止まる。ノイズのように揺らいていた白い肢体が、ビキビキと音を立てて硬化していく。半透明だった輪郭が、明確な「物質」としての質量を持ち始めた。
「カナ、今!! 触れるよ!!」
「ナイス、リナ!」
カナが泥沼から抜け出し、地を蹴った。
左目が充血し、こめかみに幾何学模様の痣が浮かび上がる。
MDプレーヤーのボリュームを最大に上げる。
流れるのは、空間を固定し、バグを破砕するための攻撃トラック。
「消えなさい、失敗作!」
カナの一撃が、実体化した天使の核——裂けた口の奥にある黒い球体を捉えた。『ドォォォォン!!』
重厚な打撃音と共に、石膏のような体が砕け散る。
模造天使は断末魔を上げることなく、美しい光の粒子となって霧散し、ヴィーナスフォートの天井へと吸い込まれていった。
戦闘終了。モールは、何事もなかったかのように静まり返っていた。
崩壊しかけた噴水も、めくれ上がった床も、敵の消滅と共に、リセットされたかのように元の綺麗な状態に戻っている。
「……はぁ、はぁ……」カナが膝をつき、乱れた呼吸を整える。リナが駆け寄った。
「カナ、大丈夫!?」
「……うん。リナのおかげで助かったよ。……ナイスハッキング」
カナが汗ばんだ顔で笑いかけ、親指を立てた。
その時、モールの入口から、シューッというスプレーの音が聞こえた。
大友拓也だ。彼は銀色のスプレー缶を手に、空間に残った微量な「バグの残り香」を中和しながら歩み寄ってきた。手にはモップのような清掃用具も持っている。
「お疲れ様。……見事な連携だったね」
大友は、戦いの痕跡を一瞥し、満足げに頷いた。
「カナの突破力と、リナちゃんの解析能力。……うん、すごくいいチームになりそうだ。見ちゃいけないのが残念だけど」
大友はビニール袋から缶コーヒーを取り出し、二人に手渡した。
「はい、ご褒美」
「……あ、ありがとうございます」
リナはプルタブを開け、一口飲んだ。ブラックコーヒーだ。
「……にがっ」
リナが顔をしかめる。
「うえぇ、泥水みたい……」
「失礼だなぁ。厳選された豆の香りだよ?」
大友が苦笑しながら、自分のコーヒーを開ける。
「……リナ、それは『大人の味』って言うのよ」
カナが微糖のカフェオレを飲みながら、いたずらっぽく笑った。
三人でモールの外へ出る。お台場の空が、白み始めていた。
東の空、ゲートブリッジの向こうから、朝日が昇ってくる。
ヴィーナスフォートの「作られた空」ではない。
冷たく、眩しく、どこまでも広がる本物の空だ。
「……綺麗」リナが呟く。
「……なんか、世界がいつもより綺麗に見える」
「……それが、私たちが守ったものだよ」カナが隣で言った。
「誰も知らないけど、確かにここにある日常」
リナは電子辞書をポケットにしまい、深く息を吸い込んだ。
恐怖で震えていた足は、もう止まっている。
自分が何をしたのか、何をすべきなのか。それが分かった今、この朝日は自分への祝福のように思えた。
「さあ、帰ろうか」大友が車のキーを回した。
「リナちゃん、家まで送るよ」「はい!」
「……カナも、それでいい?」
大友が優しくカナに視線を向ける。
「……ええ。今日は、もう少しこの余韻に浸っていたい気分ですから」
カナはリナの肩に頭を預け、小さくあくびをした。
「……リナ、枕代わりにしていい?」
「えー、重いよー」
文句を言いながらも、リナは嬉しそうにカナを受け止めた。
黒いセダンが、朝日に照らされたレインボーブリッジを走り抜けていく。
その車内には、戦いを終えた安堵と、確かな絆の温もりが満ちていた。




