第21話:秘密と嘘
雨上がりの秋葉原。濡れたアスファルトが、街中に溢れるネオンサインの光を乱反射させ、極彩色のノイズを撒き散らしている。
灰谷の運転する白いワンボックスカーは、総武線のガード下にある薄暗いコインパーキングへと滑り込んだ。
「……着いたぞ。ここが俺たちの職場だ」
サイドブレーキを引く乾いた音が、車内の静寂を破る。
後部座席の松浦リナは、生唾を飲み込んだ。
窓の外に見えるのは、見慣れたはずの電気街だ。
ソフマップの青い看板、路上でビラを配るメイド姿の少女たち、怪しげなパーツを並べる露店。
だが、今夜のリナの目には、それら全てが違った解像度で映っていた。
自動販売機のコンプレッサーが唸る重低音。
雑居ビルの室外機が吐き出す、湿った熱気。行き交う人々の、無機質な足音。
それら全てが、今まで感じたことのない「情報の奔流」となって、リナの感覚神経を逆撫でする。
「……行こう、リナ」
隣に座る深澄カナが、優しく手を差し出した。
その手は少し冷たいけれど、頼もしく、温かい。
「うん……」
リナはカナの手を強く握り返し、車を降りた。
ガード下特有の、埃と鉄錆の匂いが鼻をつく。
二人は灰谷と美青年に導かれ、「秋葉原ラジオセンター」の細い通路へと足を踏み入れた。
シャッターが閉まった店が並ぶ中、奥の方に一軒だけ、まだ明かりのついている店があった。
『阿頼耶電子商会』。
ショーウインドウには、内臓をぶちまけたような分解されたPCパーツや、埃を被った真空管、用途不明のケーブルの束が乱雑に積み上げられている。
店先では、作業着姿の白髪の老人が、ハンダごてを握って基板と格闘していた。
「……おじさん、お疲れ様です」
カナが声をかけると、老人は保護メガネの奥からギョロリと目を向けた。
一見、気難しそうな頑固親父だが、その視線はカナの隣にいるリナを一瞬だけ捉え、微かに頷いたように見えた。
彼もまた、この場所を守る「門番」の一人なのだ。
「……入るぞ」
灰谷が、カウンターの裏側にある重厚な鉄扉の前で立ち止まった。
そこには『関係者以外立入禁止』の無骨な札が下がっている。
カナが扉の横にあるテンキーに指を走らせる。
『ピッ、ピッ、ピッ、ピー……』『認証:0番目のデバッガー』
カシャリ、と重厚な金属音が響き、ロックが解除された。
灰谷がドアを開けると、そこから漏れ出したのは、強烈な冷気(エアコンの風)と、タバコの紫煙、そして電子機器特有の焦げたようなオゾンの匂いだった。
「……うわぁ」
リナは息を呑んだ。
そこは、秘密基地という言葉では生易しい、「情報の魔窟」だった。
天井まで積み上げられたサーバーラックが、低い唸り声を上げている。
床を這い回る無数の黒いケーブルは、まるで血管のように脈動しているようだ。
壁一面のCRTモニター群には、理解不能なコードや波形が表示され、薄暗い空間の中で、無数のLEDランプだけが深海の生物の眼光のように明滅している。
ここが、東京の「裏側」つまり「裏東京」を管理する最前線。
第零技術局——通称「ゼロ・テクニカル・ビューロー」。
リナの心臓が早鐘を打つ。
自分は今、決して踏み込んではいけない境界線を越えてしまったのだという実感が、遅れて背筋を駆け上がった。
「……ようこそ、こちら側へ。松浦リナさん」
部屋の奥、革張りの椅子に深々と腰掛けた女性が、優雅に紅茶のカップをソーサーに置いた。九条院紗夜。
その美貌は、雑然としたジャンクパーツの山の中で、あまりにも異質で、神々しいまでの威圧感を放っている。
「あ、あの……はじめまして……」
リナが畏まって頭を下げる。喉がカラカラに乾いていた。
「堅苦しい挨拶は抜きだ。どうせここの連中は、社会不適合者ばかりだからな」
煙草を咥えたままキーボードを叩いていた白衣の男——椚蓮治が、椅子を回転させてニヤリと笑った。
その隣では、医師の葛城が「また面倒が増えそうだ」とぼやきながら、カルテを整理している。
そして、部屋の隅にあるソファには、見知った顔があった。
「……松浦、大丈夫?」
沢良木莉子が、少し心配そうに声をかける。
彼女の隣には、ヘッドホンをした朝比奈乃亜がちょこんと座り、興味深そうにリナを観察していた。
「……リナさん。……バグ反応、安定してる」
「みんな、揃ってるな」
灰谷が車のキーを指で回しながら入ってきた。
「おーい、こっちも紹介しとくぞ。……拓也、挨拶しろよ」
灰谷に促され、先ほどから無言で控えていた「美青年」が一歩前に出た。
学校での冷徹な指示出しとは打って変わり、彼は懐かしそうに室内を見渡した。
「改めて。お久しぶりです。みなさん」
その声は、よく通る落ち着いたバリトンだった。
彼は大友拓也。
仕立ての良いダークスーツを着こなし、理知的な瞳を光らせている。
年齢は26歳。灰谷の一つ年下だが、醸し出す雰囲気はもっと大人びて見える。
若くして司法試験をパスした弁護士資格持ちで、普段は組織の「対外的な交渉」や「法的隠蔽」を担当し、全国を飛び回っているエリートだ。
この組織においても古参のメンバーであり、カナたちがここに収容された当初から知る人物でもある。驚くほど端正な顔立ちで、俳優ともアイドルとも劣らない。
「だいぶ楽になるぜ、帰ってきてくれて嬉しいよ拓也」
灰谷が、大友の肩をバンと叩く。
「お前がいない間、書類仕事が溜まってて地獄だったんだからな。運転も俺一人だしよ」
「灰谷先輩が溜め込んだだけでしょう。……後でデスクを確認しますから、覚悟しておいてください」
大友は呆れたように肩をすくめたが、その口調には灰谷への信頼と親愛が滲んでいた。古くからのコンビ特有の空気感だ。
「拓也さん。久しぶり、挨拶遅れてごめん」
カナが声をかけると、大友は表情を崩した。
「久しぶりだね、カナ。……また少し、強くなったかな?」
「……うん、色々あったから」
大友は微笑んで頷くと、最後にリナの方へと向き直った。
「……そして、松浦リナさん。今更ですがはじめまして、大友拓也です。……君の勇気ある行動は聞いたよ」
「は、はじめまして……!」
リナは慌てて頭を下げた。
彼もまた、灰谷と同じく「視えない」一般人だという。
だが、その立ち居振る舞いからは、カナたち適合者とはまた違う、プロフェッショナルとしての凄みが漂っていた。
この組織には、異能を持つ少女たちだけでなく、彼女たちを支える大人たちが確かに存在している。
リナは、この奇妙な連帯感を持つ集団に、少しだけ安堵を覚えた。
「さて、と。……挨拶はこれくらいにして、本題に入ろうか」
椚がタバコを灰皿に押し付け、立ち上がった。
彼は作業台の上に置かれた、いくつかの電子部品——基板、メモリ、ハードディスクなどを指差した。一見すると、どれもただのジャンクパーツにしか見えない。
「松浦。お前には『視える』だけじゃねえ才能があるかもしれねえ。……ちょっとしたテストだ」
「テスト……?」
リナがおずおずと作業台に近づく。
「この中に一つだけ、昨日回収した『上位者の残滓』が付着したパーツがある。……どれか分かるか?」
リナはパーツを見つめた。カナや乃亜のように、数値や色で判断する術はない。
見た目はどれも、薄汚れた機械部品だ。
しかし——。
リナは、無意識に眉をひそめた。
並べられたパーツの一つ、何の変哲もない256MBのメモリカードを見た瞬間。
背筋がゾワリとした。
まるで、黒板を爪で引っ掻いたような不快な音が、頭の奥で鳴った気がした。
「……これ」リナは迷わず、そのメモリカードを指差した。
「……なんか、これだけ……気持ち悪い音がする」
「ほう」
椚がニヤリと笑った。
「正解だ。……乃亜、どうだ?」
「……すごい」
乃亜が手元の解析端末を見ながら呟いた。
「……私のセンサーが反応するより、0.5秒早かった。……リナさんは、論理じゃなくて、感覚でバグを捉えてる」
「マジかよ」灰谷が目を丸くする。
「機械より早いって、人間レーダーかよ」
「……どうやら、ドッペルゲンガーとの接触が、彼女の脳に『直感的なバグ検知回路』を焼き付けたようですね」
九条院が満足げに紅茶を啜った。
「戦う力はなくとも、索敵能力においては一級品……。これなら、現場での『目』として十分に機能します」
リナは自分の指先を見つめた。
自分の中に生まれた、この気持ち悪い「感覚」。
それが、カナの助けになるのなら——。
一通りのテストが終わると、空気は再び張り詰めたものになった。
九条院が、リナを真っ直ぐに見据える。
「さて、松浦リナさん。貴女の今後の処遇についてですが……」
リナがゴクリと息を飲む。
「……はい」
「貴女には、これまで通り、三鷹のご実家でご家族と過ごしていただきます」
「え……?」
リナは予想外の言葉に目を丸くした。
てっきり、カナたちのようにこの地下や、どこかの施設で隔離生活を送るものだと思っていたからだ。
「……よかったじゃん」
莉子が、少しだけ羨ましそうに、唇を噛みながら呟いた。
彼女たち3人は、地下鉄事故やその後の侵食によって、家族を失っている。
「日常」に帰る場所など、もうどこにもないのだ。
「しかし」
椚が、紫煙を吐き出しながら低い声で遮った。
「喜ぶのは早えぞ。……それが、ここでの生活よりもよっぽどの『地獄』になるかもしれねえからな」
「……どういうことですか?」
「覚悟が必要だってことだ」
椚はリナの目の前まで歩み寄り、威圧するように見下ろした。
「いいか? お前は今日から、組織の協力者だ。だが、家族には絶対に悟られちゃいけねえ。……『普通の女子高生』のフリをして、今まで通りメシを食い、テレビを見て、親と喧嘩しなきゃならねえ」
リナは呆然とする。
「それが……地獄?」
「嘘をつき続けることになるからだよ」
灰谷が、静かに補足した。いつもより真剣な顔だ。
「俺たちの存在も、上位者のことも、今日見た化け物のことも。……一番大切な人たちに、《《死ぬまで隠し通さなきゃいけない》》。もしバレれば、組織の規律でお前の記憶を真っさらに消さなきゃならなくなる。……それに、最悪の場合、奴ら(上位者)がお前の家族を狙う可能性だってある」
リナの顔色が蒼白になる。
自分が関わることで、パパやママが危険に晒されるかもしれない。
しかも、三鷹の実家はここ(秋葉原)から遠い。
何かあっても、カナたちがすぐに駆けつけられる距離ではない。
「だから、監視は続けさせてもらいますわ」
九条院が淡々と告げた。
「貴女の家、携帯電話、PC……全てこちらのシステムとリンクさせます。プライバシーはありません。……それが、貴女とご家族を守るための最低条件です」
「監視……」
リナは自分の携帯を握りしめた。
あのメールも、通話も、全て筒抜けになる。
それは、自由の剥奪に等しい。
だが、それ以上に重いのは、「家族に嘘をつき続ける」という罪悪感だ。
温かい食卓で、何も知らない家族と笑い合うたびに、自分だけが冷たい秘密を抱え続ける。それは、孤独な監獄に入るよりも辛いかもしれない。
室内が沈黙に包まれる。
カナは何も言わず、ただリナの決断を待っていた。
ここで「やっぱり無理です」と言えば、まだ記憶を消して日常に戻る道も、完全には閉ざされていないかもしれない。
リナは俯き、震える手を見つめた。
今日、教室で見た光景。
カナが必死に戦う姿。
そして、自分が感じた「誰にも言えない孤独」。
もしここで逃げたら、私は一生、カナに嘘をつかせて、自分だけ安全な場所で笑って過ごすことになる。
(……そんなの、嫌だ)
リナは顔を上げた。
その瞳には、恐怖を乗り越えた強い光が宿っていた。
「……やります」
はっきりとした声だった。
「私、嘘つくの得意じゃないけど……でも、カナを一人にするよりマシです。……それに、家族を守るためなら、何でもします」
「……リナ」
カナが泣きそうな顔で微笑む。
莉子も、ふんと鼻を鳴らしたが、その表情はどこか晴れやかだった。
「……いい目だ」
椚が満足げに口角を上げた。
「合格だ。……なら、これを持っていけ」
椚は作業デスクから、一台の無骨なデバイスを取り出し、リナに放り投げた。
「わっ!?」
リナが慌てて受け取る。
それは、ずっしりと重い、厚みのある電子辞書だった。
CASIOの『EX-word』に似ているが、側面には見たこともない端子が増設され、背面には冷却用のスリットが入っている。
「……電子辞書?」
「ただの辞書じゃねえ。……お前みたいな『半感染者』のために調整した、対論理干渉デバイスだ」
「半感染者?」
「あぁ、松浦は細かくいえば違うな。まぁ、そっち寄りであることは確かだ」
「……これ、どうやって使うんですか?」
リナがおそるおそる電子辞書を開く。
モノクロの液晶画面が起動し、ノイズ交じりのカーソルが点滅する。
「お前の『眼』は、俺たちのセンサーよりも早く、敵のバグを直感的に捉えることができる」
椚が説明を始めた。
「だが、お前には深澄や沢良木のような、物理的に空間を固定したり、敵を破壊する力はねえ。……だから、お前の仕事は『翻訳』と『書き換え』だ」
「書き換え……?」
「ああ。奴ら(上位者)が現実を侵食する時、そこには必ず独自の『論理』がある。例えば『ここを異界にする』とか『人間を消去する』とかいった命令コードだ」
椚はタバコの煙を吐き出し、ニヤリと笑った。
「その電子辞書は、奴らの論理コードを検索し、こちらの言葉に翻訳して表示する。……そして、その定義を強引に上書き(オーバーライト)できる」
「……つまり?」
横から乃亜が、ポツリと補足した。
「……例えば、敵が『消去(Delete)』って命令を出したら、リナさんが辞書でそれを引いて、『待機(Wait)』とか『矛盾(Error)』に書き換えちゃうの。……そうすれば、敵の攻撃は無効化される」
「す、すごい……!」
リナは手元の辞書を見つめた。
これがあれば、カナを守れる。
直接殴ったり撃ったりできなくても、敵の攻撃そのものを「なかったこと」にしたり、弱めたりできるのだ。
「ただし、頭を使うぞ。相手の論理を瞬時に読み解いて、一番効果的な『言葉』をぶつけなきゃならねえ」
椚が釘を刺す。
「カナたちが『物理』で殴るなら、お前は『意味』で殴るんだ。……今日からお前は、俺たちの『論理破壊担当』だ」
「デシフェラー……」
リナはその言葉を噛み締めた。
もう、守られるだけの存在じゃない。
戦う力がなくても、言葉と知恵で、この世界のバグと戦うことができる。
「頼りにしてるよ、リナ」
カナがリナの肩に手を置いた。
「リナの『眼』と、その辞書があれば……私たちはもっと強くなれる」
「……うん!」
リナは電子辞書を胸に抱きしめ、力強く頷いた。
その夜。リナは三鷹の実家へと帰る電車の中で、ずっとその重みを感じていた。
窓に映る自分の顔は、昨日までと同じ女子高生に見える。
だが、その内側には、もう誰にも言えない秘密と、確かな使命が宿っていた。
「どうしたんですか?灰谷さん」
灰谷の横に座る大友が、散らばった書類をまとめながら彼の顔を覗き込む。
「いや、なんつうかさ。また若い、しかも一人の高校生の女の子の人生が奪われたんだなって。戦うのはもっぱら彼女ら十代ばっかだ」
「歯痒いですね」
「なあ拓也。視えない方が随分と幸せだな」
「本当ですね」
大友はカバンから折り畳んだ財布を取り出す。
「だからこそ僕たちは弱音を吐いちゃいけない。何かあればすぐに駆けつけて、どんな荒れた場所も元に戻してあげる。隠してあげる。我々大人が守ってあげないと」
「はっ!強くなったなあ、お前も。けど、そうだな」
「さ、ラーメン食べに行きましょうか。奢りますよ」
「へえ、言う様になったな」
秋葉原の地下深くで動き出した歯車は、新たな適合者——いや、異質なハッカーを加え、次なる戦いへと回転数を上げていく。




