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MADE IN 東京  作者: 水色蛍
擬態される日常編
20/28

第20話:新たな境界線

 凄まじい衝撃音が去った後の教室は、白い粉塵と、焦げたような異臭——オゾンとプラスチックが溶けた匂いで満たされていた。


 吹き飛んだ扉。

 ひび割れた黒板。


 そして、床にへたり込む松浦リナと、彼女を抱きかかえる深澄カナ。


 クラスメイトたちは、まだ状況を飲み込めていなかった。


 ある者は悲鳴を上げ、ある者は腰を抜かし、またある者は理解不能な光景にただ立ち尽くしている。


 上位者の空気。そしてドッペルゲンガーという「怪異」は見えていなくても、目の前で起きた物理的な破壊現象は現実だ。


「……あ、あ……」


 ミキが震える手で口元を覆い、瓦礫の山を見つめている。


 パニックが伝播する。

 このままでは、誰かが警察に通報し、事態は収拾がつかなくなる。


 その時だった。


「はい、そこまで! 全員、動かないで!」


 廊下の粉塵を切り裂いて、鋭い声が響いた。

 現れたのは、紺色の制服に身を包んだ二人の警察官——いや、警察官の制服を着た「処理班」だった。


 一人は、灰谷誠二。


 いつもの気のいいあんちゃん風情は消え失せ、制帽を目深に被り、手には誘導灯を持っている。元警察官の彼は現役さながらの動きを見せる。


 そしてもう一人。

 灰谷の背後に立つのは、透き通るような肌と冷ややかな瞳を持つ、美青年だった。


 彼も同様に警察の格好をして同じように働く。


「深川署の者だ! ガス漏れの通報があった! フロア全体の爆発の危険がある、直ちに避難を!」


 灰谷が怒鳴る。


 その声には、有無を言わせぬ威圧感があった。「ガス漏れ」という言葉が、パニック状態の生徒たちの脳に「納得できる恐怖」として刷り込まれていく。


「リコさん!」


 カナが叫ぶ。

 その声に応えるように、壊れた窓枠から黒いライダースジャケットの影が飛び込んできた。沢良木莉子だ。


 彼女は愛用のデジタルカメラ——改造された『Nikon COOLPIX』を構え、生徒たちの集団に向けた。


「……悪いわね。ちょっと眩しいわよ」


 莉子の指がシャッターボタンにかかる。


 レンズの周囲に取り付けられた、増設ストロボのコンデンサがキーンというモスキート音のような甲高い充電音を奏でる。


「はい、チーズ」


『カッッッ!!!!』


 閃光。それは通常のカメラのフラッシュではない。


 網膜を焼き、視神経を通じて脳の海馬に直接干渉する、特定周波数の「光情報のオーバーライト(上書き)」だ。

 視界が真っ白に染まり、生徒たちの意識が一瞬だけ空白になる。


(……今ッ!)


「うわぁっ!? 眩しッ!」

「え、何……?」

「ガス爆発……?」


 生徒たちが目をしばたたかせる。


 彼らの短期記憶から、非現実的なノイズが白飛びして消え去り、代わりに灰谷が植え付けた「ガス爆発事故」というキーワードが定着していく。完全に記憶を消すわけではない。


 矛盾した記憶の辻褄を、強引に合わせる「強制終了フォース・クローズ」だ。


「怪我人はいないかー! 誘導に従って校庭へ出ろ!」


 灰谷が誘導灯を振り、生徒たちを廊下へと促す。

 その混乱に乗じて、美青年がカナとリナの元へと歩み寄った。


 彼は無表情にリナを一瞥すると、カナに向かって短く告げた。


「……回収する。急げ」


 カナは頷き、呆然としているリナの肩を抱いた。


「リナ、行こう。……私の友達が助けてくれるから」


「……え、カナ……? 警察……?」


 リナはまだ焦点の合わない目で呟くが、カナに引かれてよろよろと立ち上がった。


 校舎の外からは、タイミングよくサイレンの音が近づいてきていた。


 本物の消防車とパトカーだ。

 九条院紗夜が裏から手を回し、「近隣でのガス管破裂事故」として通報を入れたのだろう。警察庁と警視庁すら電話一本で動かせる。

 この完璧な隠蔽工作こそが、第零技術局の真骨頂だった。


 雨上がりの国道を、白いワンボックスカーが滑るように走っていた。

 車体には架空の電気工事会社のロゴが入っている。

 ワイパーが、フロントガラスに残る水滴を一定のリズムで拭い去っていく。


 車内は、重苦しい沈黙に包まれていた。


 運転席には灰谷。


 彼は時折バックミラーで後部座席を確認しながら、慣れた手つきでハンドルを操作している。助手席には、先ほどの美青年。


 彼は腕を組み、目を閉じてシートに深く沈み込んでいた。その整いすぎた横顔は、彫像のように微動だにしない。


 その後ろ、二列目のシートには、カナとリナが座っている。

 リナは毛布にくるまり、小動物のように震えていた。


 顔色は青白く、手元の缶コーヒー(灰谷が渡したものだ)は開けられないまま冷たくなっている。カナは隣で、リナの冷え切った手を両手で包み込んでいた。


 一番後ろの三列目シートには、莉子と乃亜がいた。


 乃亜はヘッドホンを首にかけ、膝の上の『ノートパソコン』を猛烈な速度で操作している。


「……学校裏サイトのログ、消去完了。……チェーンメールの発信源サーバー、特定して物理破壊コマンド送信。……これで、今日の騒ぎはネット上からも『なかったこと』になる」


 乃亜が独り言のように呟き、エンターキーを強く叩いた。


「……リナさんの携帯のデータも、遠隔でクリーニングした。……変なメールはもう届かない」


「……お疲れ」


 隣で足を組んでいた莉子が、デジカメのプレビュー画面を確認しながら短く労った。

 彼女の視線は、前の座席のリナの背中に注がれている。


 その目は、いつになく複雑な色を帯びていた。一般人を巻き込んでしまったことへの後悔か、それとも。


 車は首都高速の高架下を抜け、隅田川にかかる橋を渡っていく。

 窓の外を流れる東京の景色は、何事もなかったかのように日常を営んでいる。

 サラリーマン、学生、主婦。彼らは誰も知らない。


 つい先程、一つの教室が異界に飲み込まれかけ、一人の少女の日常が崩壊したことを。


「……カナ」


 リナが、掠れた声で呟いた。


「……私、夢見てたのかな」


 カナはリナの手を強く握り返した。その手には、戦闘の熱がまだ残っている。


「……ううん。夢じゃないよ」


「……そっか」


 リナは力なく笑った。


「だよね。……カナの手、あったかいもん」


 その言葉に、カナの胸が締め付けられる。

 夢だと言ってあげたほうが幸せだったのかもしれない。


 でも、もうリナは「視て」しまった。


 あの蜘蛛を、のっぺらぼうを、そしてカナが放った衝撃波を。


 助手席の美青年が、ふと目を開けた。ミラー越しにカナと視線が交差する。

 彼は何も言わなかったが、その瞳は『覚悟を決めろ』と告げているようだった。


 車は江東区・門前仲町にあるダミーマンションの前に到着した。


 組織の本部がある秋葉原へ直行するには、まだリナの精神状態が不安定すぎると判断されたのだ。


「……ここで降ります」


 カナが告げる。

 スライドドアが開くと、湿った外気が車内に流れ込んだ。


「……深澄、一人で大丈夫なの?」


 莉子が三列目から声をかけた。


「あの子、パニックになるかもよ。……私がついてた方が」


「いえ」


 カナは首を振った。


「……私が説明します。これは、私の責任だから」


 運転席の灰谷が、シートベルトを外しかけた莉子を制した。


「リコちゃん、やめときな」


 灰谷はタバコをくわえようとして、思いとどまって耳に挟んだ。


「ここは彼女の判断に任せよう。……局長からも『まずは落ち着かせろ』って指示が出てる」


「……チッ、分かったわよ」


 莉子は不服そうに鼻を鳴らし、再びシートに背を預けた。


「……入ろう、リナ」

「うん……」


 オートロックを抜け、エレベーターで上がり、カナの部屋へ。

 昨日は「防衛結界の蜘蛛」がへばりついていたドアの前。


 今は何もいない。

 少なくとも、リナの目には見えない。


 部屋に入り、カナはリナをソファに座らせた。

 ホットミルクを作り、二つ並べて置く。

 湯気が立ち上るマグカップ。その温もりが、少しだけ部屋の空気を緩ませた。


「……リナ」


 カナはリナの向かいに座り、意を決して口を開いた。


「……怖がらせて、ごめん」


 リナはマグカップを両手で包んだまま、俯いている。


「……ううん。……助けてくれたんだよね、カナが」


「うん」


 カナはリナの目を見た。


「……私ね、普通の高校生じゃないの」


 そこからは、堰を切ったように言葉が溢れた。

 数年前の地下鉄事故で、自分だけが生き残ったこと。

 その時に体の中に「バグ」が入ってしまったこと。


 それ以来、東京の裏側に潜む「上位者」という怪物たちと戦う組織に属していること。学校に通っているのも、一人暮らしをしているのも、全ては組織が作った「偽物の日常」であること。


「……嘘ついてて、ごめん。……巻き込みたくなかったの」


 カナは膝の上で拳を握りしめ、頭を下げた。沈黙。


 部屋の中には、冷蔵庫のモーター音と、時計の秒針の音だけが響いている。


 リナは、黙って聞いていた。


 普通なら「頭がおかしい」と笑い飛ばすか、恐怖で逃げ出すような話だ。


 でも、彼女は今日の教室で、その「非日常」を肌で感じてしまった。

 そしてここ数日の違和感が、カナの「ファンタジーのような妄想話」を確かに現実としてゆっくり咀嚼させる。


「……戦うって」


 リナがぽつりと呟いた。


「……命がけ、なんでしょ?」


「……うん」


「……ずっと、一人で?」


「……仲間はいるけど。でも、リナには関係ない世界でいてほしかった」


 リナが顔を上げた。

 その目には、涙が溜まっていた。

 恐怖の涙ではない。

 悲しみの涙だ。


「……バカ」


 リナの声が震えた。


「……何が関係ない、よ。……友達でしょ?」


「リナ……」


「私、何も知らなかった。……カナが怪我してる時も、変な噂立てられてる時も、私はのんきにプリクラ撮って、彼氏ほしいとか言って……」


 リナはボロボロと涙をこぼした。


「……悔しいよ。カナがそんな大変なことしてるのに、私、守られてばっかりで……」


 リナはカナの手を掴んだ。その握力は、驚くほど強かった。


「……私、忘れたくない」


 リナは真っ直ぐにカナを見つめた。


「今日のことも、カナの正体も。……記憶を消したりしないで。……私も、カナの戦いを知っておきたい。……もう、置いてけぼりは嫌だ」


 その言葉は、カナが予想していた拒絶でも、恐怖でもなかった。

 それは、リナという少女が持つ、芯の強さそのものだった。


 彼女は「2000年代の光」の象徴だ。


 その光は、闇を恐れるのではなく、闇の中にいる友人を照らそうとする暖かさを持っていた。


「……分かった」


 カナも涙ぐみながら、頷いた。


「……ありがとう、リナ」


 二人の間にあった見えない壁が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。


『ピリリリリリ……!』


 感動的な空気を切り裂くように、カナの携帯電話が鳴り響いた。

 無機質で、緊急性を帯びた着信音。

 画面を見るまでもない。組織専用の回線だ。


「……もしもし」


 カナは涙を拭い、声を正して電話に出た。


『……いいお話でしたね』


 スピーカーから聞こえたのは、九条院紗夜の優雅で、しかし絶対的な冷たさを帯びた声だった。この部屋には盗聴器が仕掛けられている。

 カナも承知の上だったが、今はそのプライバシーの無さが疎ましい。


「……聞いていたんですか、局長」


『ええ。……松浦リナさんの「覚悟」、確かに聞きました』


 紗夜の声色が、少しだけ変わる。


『彼女は、記憶消去を拒否しましたね。……ならば、選択肢は一つです』


 カナはごくりと唾を飲み込んだ。


「……どういう、ことですか」


『彼女を連れてきなさい。……本部アキハバラへ』


「本部へ!? でも、彼女は一般人です! あそこに入れるなんて……」


『一般人? ……いいえ、違います』


 紗夜が冷徹に告げた。


『乃亜の解析結果が出ました。……松浦リナさんの脳波は、昨日の接触以降、特異な変質を遂げています。彼女は、ドッペルゲンガーの精神汚染ウイルスに耐えきっただけでなく、それを「抗体」として取り込みつつある。これは葛城も確信を得ている。』


「抗体……?」


『彼女には、私たちにはない「才能」があるかもしれません。……戦う力はありませんが、バグを嗅ぎ分ける「眼」を持っている。……彼女をテストします』


 電話の向こうで、キーボードを叩く音が聞こえる。


『拒否権はありませんよ。……彼女が「知りたい」と望んだのですから。……30分以内に迎えの車を行かせます。準備なさい』


『プツッ。ツーツーツー……』


 通話が切れた。カナは携帯を握りしめたまま、呆然と立ち尽くした。


「……カナ? 誰から?」


 リナが不安そうに顔を覗き込む。


 カナはゆっくりと顔を上げた。

 もう、後戻りはできない。

 リナをこの世界に引き込んだのは、ドッペルゲンガーでも組織でもなく、カナ自身だったのかもしれない。


「……リナ」


 カナは真剣な眼差しで、親友に向き合った。


「……私の『本当の家』に、来ないか、って」


「本当の家……?」


「うん。……そこに、全部があるから。……リナが知りたいこと、全部」


 リナは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに力強く頷いた。


「行く。……カナと一緒なら、どこでも行く」


 窓の外では、再び雨が降り始めていた。

 その雨音は、二人の少女が踏み出す新たな境界線への足音を、静かに包み込んでいた。

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