第19話:チェーンメール
翌日。秋葉原ラジオセンターの地下深く、第零技術局本部。
無数のサーバーラックが低い唸り声を上げる「電子とニコチンの聖域」は、いつも以上に重苦しい空気に包まれていた。
「……なるほど。昨夜、ダミーマンションの外壁に設置した『対バグ結界・弐式』が、何者かに視認された形跡がある、と」
局長の九条院紗夜が、冷めた紅茶のカップを指先で回しながら言った。
彼女の視線の先には、パイプ椅子に座らされた深澄カナがいる。
カナは今日も学校を休んでいた。左肩の治療痕がまだ疼いているのもあるが、それ以上に精神的な動揺が大きかったからだ。
「はい。……リナが、帰る時に何かを見たみたいなんです。怯えていて……」
カナが膝の上で拳を握りしめる。
「あの『蜘蛛』は、私の部屋を守るための防衛プログラムですよね? 敵じゃないのに、どうしてリナには見えたんでしょうか」
開発室の奥で、椚蓮治が紫煙を吐き出しながら答えた。
「……そこが問題なんだよ。あの蜘蛛は、俺が組んだプログラムに、葛城さんの『呪術的コード』を混ぜて作った式神だ。物理的な実体はねえ。脳のフィルタが正常に機能している一般人には、ただの『空気の揺らぎ』にしか見えねえはずだ」
椚はCRTモニターに表示された波形データを睨みつけた。
「それを『黒い怪物』として視認したってことは、松浦リナの脳内フィルタはもうボロボロだってことだ。……奴らの毒に侵食され始めてる」
「そんな……!」カナが顔を上げる。
「じゃあ、リナも私みたいに?」
「いや、適合者(お前ら)ほどじゃねえ。……だが、境界線上にいるのは確かだ」
ここで、医務室から戻ってきた白衣姿の医師・葛城が会話に割って入った。
「通常、免疫のない一般人が『あちら側』の論理に触れれば、脳が処理落ちして発狂するのがオチだ。だが、あの子はまだ正気を保ってる……ドッペルゲンガーとの接触が、あの子の中に『抗体』のようなものを作ったのかもしれんな」
カナは懇願するように局長を見た。
「局長、お願いします。リナを助けてください。……記憶処理でも何でもして、あの子を日常に戻してあげてください」
「……記憶処理は万能ではありませんわ」
紗夜は静かに首を横に振った。
「脳の一部を焼くことになります。下手をすれば廃人になる。……それに、一度『視えてしまった』眼は、記憶を消しても無意識下で異界を捉え続けます」
「じゃあ、どうすれば……」
カナの声が震える。
「……いっそ、私たちの仲間に引き入れれば、守れるんじゃないですか? 私たちが近くで監視して、戦い方を教えれば……」
『バンッ!!』
椚が乱暴にキーボードを叩き、椅子を回転させてカナを睨みつけた。
「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、深澄」
いつになくドスの効いた声だった。
「お前、こっち側の世界がどういう場所か分かってて言ってんのか? ……俺たちが、どういう思いでここにいるか」
カナが息を呑む。椚、葛城、そして九条院紗夜。
彼ら「大人たち」は、カナや莉子のような、体内にバグを宿した「適合者」ではない。灰谷のような、視えない一般人とも違う。
彼らはかつて、何らかの形で「世界の真実」に触れてしまい、精神を焼かれながらも生き残った、言わば「汚染された生存者」だ。
適合手術で肉体を変異させたわけではない。
ただ、「知ってしまった」が故に、日常へ帰る切符を破り捨てられた人間たち。
その絶望と、二度と戻れない孤独を「知識」と「技術」という武器に変換して、この薄暗い地下にへばりついている。
「俺たちはな、好きでこんなモグラ暮らしをしてるわけじゃねえ。……外の世界じゃ息ができねえから、ここで毒を喰らって生きてるんだ」
椚は吐き捨てるように言った。
「あの子をこっち側に引き込むってことは、その『地獄』への片道切符を、お前の手で渡すってことだぞ。……その覚悟がお前にあるのか?」
「…………」カナは言葉を失った。
リナを、あの日なたの匂いのする世界から、このオイルとニコチンの臭いが染み付いた世界へ引きずり込む。
それは、ドッペルゲンガーがやろうとしていたことと、何が違うのか。
「殺してしまった方が、楽かもしれないぞ?」「!!!!」
カナがその場から崩れ落ちる。
「……椚さん、言い過ぎよ」
それまで壁際で黙って缶コーヒーを飲んでいた沢良木莉子が、静かに口を開いた。
彼女はカナの肩に手を置き、椚を睨み返した。
「深澄だって、分かってるわよ。……ただ、友達を失いたくないだけでしょ」
莉子の指先は冷たかったが、その重みには確かな連帯感があった。
「……でも、椚さんの言う通りよ。一般人を巻き込むのは最終手段。今はまだ、私たちが守れる範囲で動くしかないわ」
「……監視は強化します」紗夜が結論を下した。
「乃亜、学校のサーバーとリナさんの携帯、常時モニタリングなさい。……少しでも『閾値』を超えたら、即座に介入します」
『……了解。リナさんの視覚データ、共有設定完了』
スピーカーから、乃亜の淡々とした声が響いた。
カナは自分の無力さを噛み締めながら、モニターに映った「日常」の映像
——高校の正門を見つめることしかできなかった。
その日の夜。松浦リナは、自室のベッドの中で膝を抱えていた。
部屋の明かりは消しているが、眠れる気配はない。
(……うるさい)
耳鳴りがする。いや、耳鳴りではない。
部屋の隅にあるコンポの待機電源のランプ。
机の上の携帯電話の充電器。窓の外にある自動販売機。
それらから発せられる微弱な電子音が、リナの耳にはまるで「虫の羽音」や「断末魔の悲鳴」のように聞こえていた。
『ジジ……ジジジ……ミテ……』
『……コッチ……キテ……』
「……やだ、もう」リナは布団を頭から被り、耳を塞いだ。
昨日、カナのマンションで見た「蜘蛛」。あれ以来、世界がおかしい。
コンビニの店員が商品をスキャンする「ピッ」という音が、骨を折る音に聞こえる。
通学路のカーブミラーに映る自分の顔が、一瞬だけ知らない誰かの顔に見える。
(カナに、相談したい……)
携帯に手を伸ばす。
発信履歴の一番上には『カナ』の名前。
でも、指が止まる。
「……こんなこと言ったら、頭おかしいって思われるかな」
昨日の今日だ。
やっと仲直りして、カナのことを信じるって決めたのに。
「変なものが見えるの」「音が聞こえるの」なんて言ったら、今度こそ嫌われるかもしれない。それに、カナは風邪で寝込んでいる。迷惑はかけられない。
その孤独感が、リナの心の隙間を広げていく。
誰にも言えない秘密。共有できない恐怖。
それは、かつてカナが一人で抱えていた孤独と、皮肉にも同じ形をしていた。
『ブー……ブー……』
不意に、携帯が震えた。ビクリと体を震わせ、画面を見る。
カナからではない。着信画面には『【緊急】拡散希望』という、見知らぬ件名が表示されていた。
「……チェーンメール?」
当時、女子高生の間で流行っていた「不幸の手紙」のデジタル版。
『このメールを5人に回さないと呪われます』といった類のものだ。
普段なら無視して削除する。だが、そのメールの冒頭の文章が、リナの視線を釘付けにした。
『To: 迷える子羊さん
件名: あなたの視ている世界は本物ですか?』
「……え?」
『最近、変なものが見えませんか?
誰にも言えない音が聞こえませんか?
それはあなたが壊れているからではありません。
世界の方がバグっているのです。
同じ悩みを持つ仲間が、ここにいます。
↓↓↓
http://ur-tokyo.net/bug_report...』
指が震えた。まるで自分の心を見透かしたような内容。
罠かもしれない。イタズラかもしれない。
でも、今のリナにとって、「同じ悩みを持つ仲間」という言葉は、何よりも甘美な救いのように思えた。
「……見るだけ、なら」
リナは誘われるように、そのURLをクリックした。
画面が暗転し、小さな砂時計のアイコンが回り始めた。
翌朝。
雨は上がっていたが、空はどんよりとした鉛色だった。
松浦リナは、重い足取りで教室に入った。
カナの席は、今日も空席だった。
やはり、風邪が治っていないのだろうか。
(カナに会いたい……)
リナは自分の席に座り、机に突っ伏した。
教室の空気が、妙にざわついている。
いつもなら「おはよー」「宿題見せてー」といった明るい声が飛び交う時間だ。
しかし今日は、どこか湿っぽく、ヒソヒソとした囁き声が充満していた。
「ねえ、これ見た?」
「回ってきたー! 超怖くない?」
「てかマジっぽくない? 私もたまにあるし」
女子生徒たちが携帯を見せ合い、異様な熱気で話している。
ミキのグループも例外ではない。
「おはよ、松浦さん」
ミキが声をかけてきた。その目は少し充血し、興奮しているように見えた。
「ねえ、昨日『裏サイト』見た? なんかすごいことになってるよ」
「え……?」
「ほら、これ」
ミキが突きつけてきた携帯の画面。
黒い背景に、赤い文字でおどろおどろしく書かれたスレッド。
『世界のバグ報告スレ 109』
『562: 昨日、新宿で顔のない男見た』
『563: 俺も。てか、鏡見たら自分の顔が溶けてた』
『564: みんな気づいてないフリしてるだけだよね?』
『565: カナは二人いる』
「ッ……!?」リナの心臓が早鐘を打った。
『カナは二人いる』。
あの時の噂だ。ミキが新宿で見たカナと、電話に出たカナ。
それが、都市伝説としてネット上で増殖している。
「なんかさー、気持ち悪いよね。……でも、ちょっと分かるかも」
ミキがふと、真顔で呟いた。
「最近さ、携帯の電波とかおかしいし。……たまに、通話してる相手の声が、機械みたいに聞こえることない?」
(……やめて)
リナは耳を塞ぎたくなった。
教室中の生徒たちの会話が、不協和音のように頭の中で反響する。
みんなの意識の底に、確実に「あちら側」への疑念が植え付けられている。
これは、ただの噂話ではない。
あのサイト——ドッペルゲンガーが遺した「精神汚染ウイルス」が、学校という閉鎖空間でパンデミックを起こしているのだ。
『ブー……ブー……』
リナの手の中で、携帯が震えた。
画面を見る。
また、あのメールだ。
『To: リナ
件名: 迎えに行くね』
『本文:
今、あなたの後ろにいるよ。
目を開けて。
本当の教室を見せてあげる』
恐怖で体が凍りつく。
後ろ?リナは恐る恐る振り返ろうとした。その時。
『キィィィィィィィィィィン……』
鼓膜を引き裂くようなモスキート音が、教室全体に響き渡った。
「……あ、あぁ……」
リナの視界から、色が消えた。
教室の壁が、ドロドロとした灰色の粘液のように溶け落ちていく。
窓の外の景色は、ノイズが走る砂嵐の壁に変わった。
そして、クラスメイトたち。ミキも、男子生徒も、先生も。
全員の顔が、つるりとした「のっぺらぼう」に変わっていた。
『リナちゃん』『リナちゃん』『コッチヲ見テ』
『キヅイタ?』『キヅイタ?』
のっぺらぼうたちが、一斉に首を180度回転させ、リナの方を向いた。
口はないはずなのに、頭の中に直接響くような声で話しかけてくる。
それは、昨日の「チェーンメール」の文面を読み上げる無数の合成音声だった。
「いや……いやぁぁぁっ!!」
リナは悲鳴を上げて席を立ち上がった。しかし、足が動かない。
床から伸びた無数の「黒い手」が、リナの足首を掴み、引きずり込もうとしていた。
『オイデ』『オイデ』
『カナハ、コッチニイルヨ』
教室の黒板から、上半身だけの少女が這い出してきた。
深澄カナと同じ顔。しかし、その体は無数のLANケーブルと肉塊で構成されている。ネットの海で再構成された、ドッペルゲンガーの怨念。
『リナ……寂シカッタデショ?』
偽物が、長い腕を伸ばしてリナの頬に触れようとする。
その指先からは、毒々しい紫色のスパークが散っている。
あれに触れれば、リナの精神は完全に書き換えられ、二度と戻れない「あちら側」の住人になってしまう。
「……カナ、助けて……!」
リナが絶望の中で、本物の名前を叫んだ。
誰もいないはずの空席に向かって、助けを求めた。その時。
「——させないッ!!」
『ドォォォォォォォォンッ!!』
凄まじい轟音と共に、教室の後ろの扉が蹴り破られた。
いや、蹴り破られただけではない。扉そのものが衝撃波で吹き飛び、廊下の壁にめり込んだ。
「下がって、リナ!!」
土煙の中から現れたのは、息を切らせた深澄カナだった。制服の上からパーカーを羽織る。その左目は充血し、幾何学模様の痣がこめかみで激しく明滅している。
乃亜からの緊急アラートを受け、組織の車から飛び降りて駆けつけたのだ。
「椚さんからもらった新装備のテストには、ちょうどいいわね!」
カナは右手に握りしめた白いデバイス——『HDDオーディオプレーヤー』のホイールを、親指で激しく回転させた。液晶画面に『Volume: MAX』の文字が踊る。
「消えろ、スパムメール!!」
『PLAY』
MDとは比較にならない、膨大なデータ量の奔流が解き放たれた。
5GBのハードディスクから読み出された重厚な音圧が、可視化された衝撃波となって教室を薙ぎ払う。
『ギャァァァァァァッ!?』
黒板から這い出していた偽物の影が、衝撃波に煽られて霧散する。
床から伸びていた黒い手も、のっぺらぼうの幻覚も、ガラスが割れるように砕け散った。
「……ハァ、ハァ……!」
教室に、静寂が戻る。色が戻り、クラスメイトの顔が戻る。
ミキたちが、ぽかんとした顔で、突然乱入してきたカナを見ている。
彼女たちには、今の攻防は見えていない。
ただ、リナが叫んで倒れそうになり、休んでいたはずのカナが凄い勢いで飛び込んできて、それを支えたようにしか見えていないのだ。
「……リナ、大丈夫?」
カナが震えるリナの体を抱きしめた。
その体温は熱く、汗で濡れている。
「……カナ……?」
リナが虚ろな目でカナを見上げる。
「……私、変な夢を……また、カナが……」
「ううん、夢じゃない。……でも、もう大丈夫」
カナはリナの頭を撫でながら、心の中で誓った。
もう隠せない。ここまで侵食が進んでしまった以上、ただ「知らないフリ」をさせることはできない。
カナはポケットの中で、まだ熱を帯びているHDDプレーヤーを握りしめた。
それは、リナをこちらの世界(地獄)へ連れて行くための、覚悟の重さのように感じられた。




