表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
MADE IN 東京  作者: 水色蛍
擬態される日常編
19/19

第19話:チェーンメール

翌日。秋葉原ラジオセンターの地下深く、第零技術局本部。

無数のサーバーラックが低い唸り声を上げる「電子とニコチンの聖域」は、いつも以上に重苦しい空気に包まれていた。


「……なるほど。昨夜、ダミーマンションの外壁に設置した『対バグ結界・弐式スパイダー』が、何者かに視認された形跡がある、と」


局長の九条院紗夜が、冷めた紅茶のカップを指先で回しながら言った。

彼女の視線の先には、パイプ椅子に座らされた深澄カナがいる。

カナは今日も学校を休んでいた。左肩の治療痕がまだ疼いているのもあるが、それ以上に精神的な動揺が大きかったからだ。


「はい。……リナが、帰る時に何かを見たみたいなんです。怯えていて……」

カナが膝の上で拳を握りしめる。

「あの『蜘蛛』は、私の部屋を守るための防衛プログラムですよね? 敵じゃないのに、どうしてリナには見えたんでしょうか」


開発室の奥で、椚蓮治が紫煙を吐き出しながら答えた。


「……そこが問題なんだよ。あの蜘蛛は、俺が組んだプログラムに、葛城さんの『呪術的コード』を混ぜて作った式神だ。物理的な実体はねえ。脳のフィルタが正常に機能している一般人には、ただの『空気の揺らぎ』にしか見えねえはずだ」


椚はCRTモニターに表示された波形データを睨みつけた。

「それを『黒い怪物』として視認したってことは、松浦リナの脳内フィルタはもうボロボロだってことだ。……奴らの毒に侵食され始めてる」


「そんな……!」カナが顔を上げる。

「じゃあ、リナも私みたいに?」


「いや、適合者(お前ら)ほどじゃねえ。……だが、境界線上にいるのは確かだ」


ここで、医務室から戻ってきた白衣ツナギ姿の医師・葛城が会話に割って入った。

「通常、免疫のない一般人が『あちら側』の論理に触れれば、脳が処理落ちして発狂するのがオチだ。だが、あの子はまだ正気を保ってる……ドッペルゲンガーとの接触が、あの子の中に『抗体』のようなものを作ったのかもしれんな」


カナは懇願するように局長を見た。


「局長、お願いします。リナを助けてください。……記憶処理でも何でもして、あの子を日常に戻してあげてください」


「……記憶処理フォーマットは万能ではありませんわ」

紗夜は静かに首を横に振った。


「脳の一部を焼くことになります。下手をすれば廃人になる。……それに、一度『視えてしまった』眼は、記憶を消しても無意識下で異界を捉え続けます」


「じゃあ、どうすれば……」

カナの声が震える。

「……いっそ、私たちの仲間に引き入れれば、守れるんじゃないですか? 私たちが近くで監視して、戦い方を教えれば……」


『バンッ!!』

椚が乱暴にキーボードを叩き、椅子を回転させてカナを睨みつけた。


「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、深澄」

いつになくドスの効いた声だった。


「お前、こっち側の世界がどういう場所か分かってて言ってんのか? ……俺たちが、どういう思いでここにいるか」


カナが息を呑む。椚、葛城、そして九条院紗夜。

彼ら「大人たち」は、カナや莉子のような、体内にバグを宿した「適合者」ではない。灰谷のような、視えない一般人とも違う。


彼らはかつて、何らかの形で「世界の真実バグ」に触れてしまい、精神を焼かれながらも生き残った、言わば「汚染された生存者」だ。

適合手術で肉体を変異させたわけではない。

ただ、「知ってしまった」が故に、日常へ帰る切符を破り捨てられた人間たち。

その絶望と、二度と戻れない孤独を「知識」と「技術」という武器に変換して、この薄暗い地下にへばりついている。


「俺たちはな、好きでこんなモグラ暮らしをしてるわけじゃねえ。……外の世界じゃ息ができねえから、ここで毒を喰らって生きてるんだ」


椚は吐き捨てるように言った。


「あの子をこっち側に引き込むってことは、その『地獄』への片道切符を、お前の手で渡すってことだぞ。……その覚悟がお前にあるのか?」


「…………」カナは言葉を失った。

リナを、あの日なたの匂いのする世界から、このオイルとニコチンの臭いが染み付いた世界へ引きずり込む。

それは、ドッペルゲンガーがやろうとしていたことと、何が違うのか。


「殺してしまった方が、楽かもしれないぞ?」「!!!!」

カナがその場から崩れ落ちる。


「……椚さん、言い過ぎよ」

それまで壁際で黙って缶コーヒーを飲んでいた沢良木莉子が、静かに口を開いた。

彼女はカナの肩に手を置き、椚を睨み返した。


「深澄だって、分かってるわよ。……ただ、友達を失いたくないだけでしょ」

莉子の指先は冷たかったが、その重みには確かな連帯感があった。

「……でも、椚さんの言う通りよ。一般人を巻き込むのは最終手段。今はまだ、私たちが守れる範囲で動くしかないわ」


「……監視は強化します」紗夜が結論を下した。


「乃亜、学校のサーバーとリナさんの携帯、常時モニタリングなさい。……少しでも『閾値』を超えたら、即座に介入します」


『……了解。リナさんの視覚データ、共有設定完了』

スピーカーから、乃亜の淡々とした声が響いた。


カナは自分の無力さを噛み締めながら、モニターに映った「日常」の映像

——高校の正門を見つめることしかできなかった。


その日の夜。松浦リナは、自室のベッドの中で膝を抱えていた。

部屋の明かりは消しているが、眠れる気配はない。


(……うるさい)


耳鳴りがする。いや、耳鳴りではない。

部屋の隅にあるコンポの待機電源のランプ。

机の上の携帯電話の充電器。窓の外にある自動販売機。


それらから発せられる微弱な電子音が、リナの耳にはまるで「虫の羽音」や「断末魔の悲鳴」のように聞こえていた。


『ジジ……ジジジ……ミテ……』

『……コッチ……キテ……』


「……やだ、もう」リナは布団を頭から被り、耳を塞いだ。


昨日、カナのマンションで見た「蜘蛛」。あれ以来、世界がおかしい。

コンビニの店員が商品をスキャンする「ピッ」という音が、骨を折る音に聞こえる。

通学路のカーブミラーに映る自分の顔が、一瞬だけ知らない誰かの顔に見える。


(カナに、相談したい……)


携帯に手を伸ばす。

発信履歴の一番上には『カナ』の名前。

でも、指が止まる。


「……こんなこと言ったら、頭おかしいって思われるかな」


昨日の今日だ。

やっと仲直りして、カナのことを信じるって決めたのに。

「変なものが見えるの」「音が聞こえるの」なんて言ったら、今度こそ嫌われるかもしれない。それに、カナは風邪で寝込んでいる。迷惑はかけられない。


その孤独感が、リナの心の隙間を広げていく。

誰にも言えない秘密。共有できない恐怖。

それは、かつてカナが一人で抱えていた孤独と、皮肉にも同じ形をしていた。


『ブー……ブー……』


不意に、携帯が震えた。ビクリと体を震わせ、画面を見る。

カナからではない。着信画面には『【緊急】拡散希望』という、見知らぬ件名が表示されていた。


「……チェーンメール?」


当時、女子高生の間で流行っていた「不幸の手紙」のデジタル版。

『このメールを5人に回さないと呪われます』といった類のものだ。

普段なら無視して削除する。だが、そのメールの冒頭の文章が、リナの視線を釘付けにした。


『To: 迷える子羊さん

件名: あなたの視ている世界は本物ですか?』


「……え?」


『最近、変なものが見えませんか?

誰にも言えない音が聞こえませんか?

それはあなたが壊れているからではありません。

世界の方がバグっているのです。

同じ悩みを持つ仲間が、ここにいます。

↓↓↓

http://ur-tokyo.net/bug_report...』


指が震えた。まるで自分の心を見透かしたような内容。

罠かもしれない。イタズラかもしれない。

でも、今のリナにとって、「同じ悩みを持つ仲間」という言葉は、何よりも甘美な救いのように思えた。


「……見るだけ、なら」


リナは誘われるように、そのURLをクリックした。

画面が暗転し、小さな砂時計のアイコンが回り始めた。


翌朝。

雨は上がっていたが、空はどんよりとした鉛色だった。

松浦リナは、重い足取りで教室に入った。


カナの席は、今日も空席だった。

やはり、風邪が治っていないのだろうか。


(カナに会いたい……)


リナは自分の席に座り、机に突っ伏した。

教室の空気が、妙にざわついている。

いつもなら「おはよー」「宿題見せてー」といった明るい声が飛び交う時間だ。

しかし今日は、どこか湿っぽく、ヒソヒソとした囁き声が充満していた。


「ねえ、これ見た?」

「回ってきたー! 超怖くない?」

「てかマジっぽくない? 私もたまにあるし」


女子生徒たちが携帯を見せ合い、異様な熱気で話している。

ミキのグループも例外ではない。


「おはよ、松浦さん」

ミキが声をかけてきた。その目は少し充血し、興奮しているように見えた。

「ねえ、昨日『裏サイト』見た? なんかすごいことになってるよ」


「え……?」

「ほら、これ」


ミキが突きつけてきた携帯の画面。

黒い背景に、赤い文字でおどろおどろしく書かれたスレッド。


『世界のバグ報告スレ 109』

『562: 昨日、新宿で顔のない男見た』

『563: 俺も。てか、鏡見たら自分の顔が溶けてた』

『564: みんな気づいてないフリしてるだけだよね?』

『565: カナは二人いる』


「ッ……!?」リナの心臓が早鐘を打った。

『カナは二人いる』。


あの時の噂だ。ミキが新宿で見たカナと、電話に出たカナ。

それが、都市伝説としてネット上で増殖している。


「なんかさー、気持ち悪いよね。……でも、ちょっと分かるかも」

ミキがふと、真顔で呟いた。

「最近さ、携帯の電波とかおかしいし。……たまに、通話してる相手の声が、機械みたいに聞こえることない?」


(……やめて)


リナは耳を塞ぎたくなった。

教室中の生徒たちの会話が、不協和音のように頭の中で反響する。

みんなの意識の底に、確実に「あちら側」への疑念が植え付けられている。


これは、ただの噂話ではない。

あのサイト——ドッペルゲンガーが遺した「精神汚染ウイルス」が、学校という閉鎖空間でパンデミックを起こしているのだ。


『ブー……ブー……』


リナの手の中で、携帯が震えた。

画面を見る。

また、あのメールだ。


『To: リナ

件名: 迎えに行くね』


『本文:

今、あなたの後ろにいるよ。

目を開けて。

本当の教室せかいを見せてあげる』


恐怖で体が凍りつく。

後ろ?リナは恐る恐る振り返ろうとした。その時。


『キィィィィィィィィィィン……』


鼓膜を引き裂くようなモスキート音が、教室全体に響き渡った。


「……あ、あぁ……」


リナの視界から、色が消えた。

教室の壁が、ドロドロとした灰色の粘液のように溶け落ちていく。

窓の外の景色は、ノイズが走る砂嵐の壁に変わった。


そして、クラスメイトたち。ミキも、男子生徒も、先生も。

全員の顔が、つるりとした「のっぺらぼう」に変わっていた。


『リナちゃん』『リナちゃん』『コッチヲ見テ』

『キヅイタ?』『キヅイタ?』


のっぺらぼうたちが、一斉に首を180度回転させ、リナの方を向いた。

口はないはずなのに、頭の中に直接響くような声で話しかけてくる。

それは、昨日の「チェーンメール」の文面を読み上げる無数の合成音声だった。


「いや……いやぁぁぁっ!!」


リナは悲鳴を上げて席を立ち上がった。しかし、足が動かない。

床から伸びた無数の「黒い手」が、リナの足首を掴み、引きずり込もうとしていた。


『オイデ』『オイデ』

『カナハ、コッチニイルヨ』


教室の黒板から、上半身だけの少女が這い出してきた。

深澄カナと同じ顔。しかし、その体は無数のLANケーブルと肉塊で構成されている。ネットの海で再構成された、ドッペルゲンガーの怨念。


『リナ……寂シカッタデショ?』

偽物が、長い腕を伸ばしてリナの頬に触れようとする。

その指先からは、毒々しい紫色のスパークが散っている。

あれに触れれば、リナの精神は完全に書き換えられ、二度と戻れない「あちら側」の住人になってしまう。


「……カナ、助けて……!」


リナが絶望の中で、本物の名前を叫んだ。

誰もいないはずの空席に向かって、助けを求めた。その時。


「——させないッ!!」


『ドォォォォォォォォンッ!!』


凄まじい轟音と共に、教室の後ろの扉が蹴り破られた。

いや、蹴り破られただけではない。扉そのものが衝撃波で吹き飛び、廊下の壁にめり込んだ。


「下がって、リナ!!」


土煙の中から現れたのは、息を切らせた深澄カナだった。制服の上からパーカーを羽織る。その左目は充血し、幾何学模様の痣がこめかみで激しく明滅している。

乃亜からの緊急アラートを受け、組織の車から飛び降りて駆けつけたのだ。


「椚さんからもらった新装備これのテストには、ちょうどいいわね!」


カナは右手に握りしめた白いデバイス——『HDDオーディオプレーヤー』のホイールを、親指で激しく回転させた。液晶画面に『Volume: MAX』の文字が踊る。


「消えろ、スパムメール!!」


『PLAY』


MDとは比較にならない、膨大なデータ量の奔流が解き放たれた。

5GBのハードディスクから読み出された重厚な音圧プレッシャーが、可視化された衝撃波となって教室を薙ぎ払う。


『ギャァァァァァァッ!?』


黒板から這い出していた偽物の影が、衝撃波に煽られて霧散する。

床から伸びていた黒い手も、のっぺらぼうの幻覚も、ガラスが割れるように砕け散った。


「……ハァ、ハァ……!」


教室に、静寂が戻る。色が戻り、クラスメイトの顔が戻る。

ミキたちが、ぽかんとした顔で、突然乱入してきたカナを見ている。

彼女たちには、今の攻防は見えていない。

ただ、リナが叫んで倒れそうになり、休んでいたはずのカナが凄い勢いで飛び込んできて、それを支えたようにしか見えていないのだ。


「……リナ、大丈夫?」


カナが震えるリナの体を抱きしめた。

その体温は熱く、汗で濡れている。


「……カナ……?」

リナが虚ろな目でカナを見上げる。

「……私、変な夢を……また、カナが……」


「ううん、夢じゃない。……でも、もう大丈夫」


カナはリナの頭を撫でながら、心の中で誓った。

もう隠せない。ここまで侵食が進んでしまった以上、ただ「知らないフリ」をさせることはできない。


カナはポケットの中で、まだ熱を帯びているHDDプレーヤーを握りしめた。

それは、リナをこちらの世界(地獄)へ連れて行くための、覚悟の重さのように感じられた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ