第18話:今の、何??
翌日、東京は朝から冷たい雨に沈んでいた。
湿ったアスファルトの匂いと、行き交う傘の波。
教室の窓ガラスには無数の水滴が張り付き、外の景色を灰色に歪ませている。
キーンコーン、カーンコーン……。
チャイムの音が、気圧のせいかいつもより低く、重く響く。
「——えー、というわけで、ここテスト出るぞ。ちゃんとノート取っとけよ」
数学教師の単調な声が、湿度を含んだ教室の空気に溶けていく。
チョークが黒板を叩く乾いた音だけが、催眠術のように生徒たちの意識を朦朧とさせていた。
松浦リナは、シャーペンを回しながら、ふと窓越しに後ろの席を見つめた。
そこは、空席だった。深澄カナの席。
机の上には何も置かれていない。昨日の放課後、彼女が座っていた温もりは、もうとうに冷え切って消失している。
(カナ、大丈夫かな……)
昨夜の電話。『うん、行く。絶対、行く』
そう言ってくれたカナの声は、涙ぐんでいたけれど、確かに力強かった。
仲直りはできたはずだ。
でも、今朝になって「風邪を引いたので休みます」という連絡が学校に入った。
「……はぁ」
リナは小さく溜息をつき、ポケットの中のガラケー(J-PHONE)をこっそりと開いた。机の下に隠して、親指だけで器用に文字を打つ。
『To: カナ
件名: 大丈夫?
本文: 学校休むって聞いたよー(>_<)
昨日の今日だし、疲れが出ちゃったのかな?
あんまり無理しないでね。
プリントとか、あとで届けるから!』
送信ボタンを押す。画面上のアンテナピクトから、小さな封筒のアイコンが空へと飛んでいくアニメーションが表示された。
『送信完了』。
「……松浦さん」
不意に、小さな声がした。授業が終わったことさえ忘れてしまっていた。
横を向くと、ミキが気まずそうな顔で立っていた。派手なメイクをしているが、その表情はいつもの強気なものではなく、雨に濡れた子犬のようにシュンとしている。
「あ、ミキ。……どうしたの?」
「その……深澄さん、休みじゃん?」
ミキは視線を泳がせながら、ボソボソと言った。
「やっぱさ、昨日の私が変なこと言ったからかな? 新宿で見たとか……。あれ、私の見間違いだったかもだし。……なんか、気に病んで来づらくなったのかなって」
「ううん、違うよ。ただの風邪だって」
リナは努めて明るく笑ってみせた。
「カナ、最近バイト詰め込んでたみたいだし。昨日のことなんか気にしてないよ」
「……そっか。ならいいんだけど」
ミキは少しホッとしたように息を吐き、自分の席に戻っていった。
リナは再び、窓に視線を戻した。
雨の音と、クラスメイトの私語が、頭の中でノイズのように混ざり合う。
ふと。視界の端で、何かが動いた気がした。
カナの席だ。誰もいないはずの椅子に、「誰か」が座っている。
(えっ……?)
それは、人間ではなかった。
輪郭が曖昧な、黒い砂嵐のような人影。
テレビの放送終了後の画面を切り抜いて、無理やり三次元に貼り付けたような、不快な「黒」。その人影は、背中を丸め、何かブツブツと呟きながら、机に向かっているように見えた。
『…………カ……ナ……』
『……ワタ……シ……』
ドクン、と心臓が跳ねる。リナは目をこすった。
「……あれ?」
もう一度見ると、そこには誰もいなかった。
ただの木製の椅子と、傷だらけの机があるだけだ。
雨に濡れた窓からの光が反射して、影を作っていただけなのかもしれない。
「……疲れてるのかな、私」
リナは首を振り、シャーペンの芯をカチカチと出した。
でも、指先の震えが止まらない。あの一瞬見えた「黒い影」。
それは、《《あの日のプリクラで見た自分の瞳の中の「コード」と》》、どこか似ているような気がしてならなかった。
同時刻。秋葉原、ラジオセンターのガード下。
ジャンクパーツの山に埋もれた「阿頼耶電子商会」のカウンターの奥。
組織の部屋とは異なる重厚な防音扉を開け、さらに錆びた螺旋階段を降りた地下深く。そこは、第零技術局の「機密医療区画」医務室——通称『ジャンク・クリニック』だった。
「……痛えか? 我慢しろよ、麻酔は効きにくい体質になってるんだからな」
くぐもった声が響く。部屋の中は、一般的な病院の清潔な白さとは無縁だった。
剥き出しの配管、天井を這う無数のケーブル、そして積み上げられた怪しげな医療機器。空気中には消毒液の匂いではなく、電子回路を焼くハンダごての鉛の匂いと、鼻をつくような強烈なメンソールの香りが混ざり合って漂っている。
「……う、ぐッ……!!」
手術台の上で、深澄カナはタオルを噛み締め、悲鳴を押し殺していた。
左肩の肉が、熱い。昨夜、ドッペルゲンガーの黒い刃に貫かれた傷跡だ。
物理的な傷はふさがっているが、傷口の奥に「敵性データ(バグ)」の残留思念がこびりつき、細胞を黒く腐食させている。
執刀しているのは、白衣ならぬ作業着を着た中年の男、ドクター・葛城だ。彼は「電子メス」を改造した特殊な焼灼器具を手に、カナの傷口を焼き切っている。
「普通の怪我なら治癒能力で治るが、こいつは『呪い』みてえなもんだ。……物理的にデータを焼き消すしかねえ」
ジジジジッ……!
器具の先端が傷に触れるたびに、黒い煙が立ち上り、カナの体がビクンと跳ねる。
「……はい、終わりだ。よく耐えたな。」
葛城は器具を置き、乱暴に——しかし手際は優しく、傷口にガーゼを当てた。
そして、棚から小瓶を取り出し、カナに投げ渡した。
「ほら、『メンソール・タブレット(改)』だ。……組織特製の抑制剤だ。傷の疼きと、脳のオーバーヒートを抑えてくれる。いつものフリスクのケースに入れ替えておけ」
「……ありがとう、ございます……」
カナは脂汗にまみれた顔で起き上がり、小瓶を受け取った。
見た目はただの清涼菓子だが、中身は適合者の暴走を防ぐための強力な鎮静剤だ。これを噛むことで、体内のバグの浸食を一時的に強制冷却できる。故に傷の痛みも和らげる。彼女らにとってみれば貴重な『回復アイテム』のようなものだ。
「……無茶しすぎだぞ、深澄」
手術室の影から、紫煙と共に椚蓮治が現れた。彼はカナの傷口を複雑な表情で見つめている。
「椚さん……」
「ドッペルゲンガーの残骸を解析した。……お前の予想通り、奴はお前の戦闘データを学習していた。だが、それだけじゃない」
椚は吸い殻を携帯灰皿に落とし、深刻な声で続けた。
「奴は、お前のDNA情報、思考パターン、そして『感情の揺らぎ』まで、サーバーにアップロードしやがった。……つまり、昨日の戦闘で奴は破壊されたが、その『経験値』は本体に還元されたってことだ」
「……じゃあ、次はもっと強いのが?」
「いや、強さの問題じゃねえ。……『質』が変わる」
椚はカナの目を真っ直ぐに見た。
「これまでは、奴らは人間を『外側の殻』としてコピーしようとしていた。だか、これからは違う。お前のデータを元に、もっと効率的に、人間社会に溶け込むための『内側』からの侵食を仕掛けてくるはずだ」
「内側から……」
「ああ。例えば、精神汚染。記憶の改竄。……あるいは、お前の大切な人間を使って、お前を揺さぶりに来るかもしれん」
カナは拳を握りしめた。リナの笑顔が脳裏をよぎる。
あの子を守るためには、もっと強くならなければならない。
「……これを持っていけ」
椚が白衣のポケットから、銀色に輝く小さなデバイスを取り出し、カナに放った。
「これは……?」
カナがキャッチする。それは、発売されたばかりのApple製品に似た、白いホイールがついた音楽プレイヤーだった。まだ市場には出回っていない、『HDD搭載型オーディオプレーヤー(プロトタイプ)』だ。
「MDじゃ容量が足りねえだろ。……こいつは5GBのハードディスクを積んでる。バカでかい容量を使って、より長時間、高密度の結界を展開できるはずだ。……まだ試作品だがな」
「5GB……すごい。何千曲も入る」
カナはデバイスを握りしめた。これがあれば、もっと長く戦える。もっと確実に、リナを守れる。戦いのこともさておき、純粋に噂で聞いていた最新の電化製品をいち早く手にした喜びや感動も織り混ざる。
「礼はいいぞ。……ただし、死ぬなよ。お前はウチの大事な『0番目のデバッガー』なんだからな」
椚はぶっきらぼうに言い捨て、背を向けてタバコを吹かした。
「しかしAppleはすごいな」と呟きながらも、その背中は、研究者としての冷徹さと、大人としての不器用な確かな優しさが同居していた。
『件名:これから行くね!
本文:授業終わったよー!
ミキたちも心配してるから、プリントとノート届けるね。
あと、お見舞いのプリンも買ったよ(笑)
学校出たから、門仲まで電車ですぐ着くと思う! 待っててねー!』
「……ッ!?」
カナの顔色がさっと変わった。「これから行く」?
まずい。非常にまずい。今カナがいるのは秋葉原の地下組織だ。
そして、リナが知っているカナの住所は、組織が用意した「公的なダミーマンション」——江東区・門前仲町にある。
「椚さん! リナが……リナが家に来るって!」
カナは半泣きで開発室に飛び込んだ。
「ああん? ……チッ、行動が早えな女子高生は」
椚は舌打ちをし、内線電話を掴んだ。
「おい灰谷! 車回せ! ……深澄を『C地点(門前仲町)』へ移送だ! 信号全部無視してもいいから10分で着け!」
『ええっ!? 今カップラーメンにお湯入れたばっかなんすけど!』
スピーカーから珍しく灰谷の情けない声が聞こえる。
「ラーメンなんか後で俺が食ってやる! 急げ!」
「カナ、傷は見せるなよ!」椚がカナの背中を叩く。
「左肩は固定したままだ。熱があるフリをして、ベッドに潜り込め。……絶対に、包帯の下を見られるな」
「は、はい!」
カナは制服のボタンを留めながら、出口へと駆け出した。
——その頃。
松浦リナは、ビニール傘を差して門前仲町の駅を降りていた。
雨に濡れた下町の商店街。
古くからの飲み屋と、新しいマンションが混在する街並み。
リナはコンビニの袋を提げ、永代通りを一本入った住宅街へと歩く。
「……寒いなぁ」
雨足は強くなるばかりだ。
リナはマフラーに顔を埋め、足早に歩く。
カナのマンションまでは、駅から歩いて5分ほど。
深川不動尊の近くで、お香の匂いが雨に混じって漂っている。
ふと、すれ違ったサラリーマンの顔を見た時だった。
(……え?)
傘の下。男の顔が、のっぺらぼうに見えた。
目も鼻も口もない、肌色のつるりとした平面。
リナは息を呑んで立ち止まり、振り返った。男はそのまま歩いていく。
その後ろ姿が、一瞬だけ「ノイズ」のように乱れ、空間に溶けるようにブレて見えた。
「……気のせい、だよね」
リナは目を強くこすった。最近、目が変だ。
昨日のプリクラといい、今日の教室での黒い影といい、何かがおかしい。
世界が、たまに「バグって」見える。
まるで、精巧に作られたゲームのグラフィックが、処理落ちしているみたいに。
『……リナ……』
風の音に混じって、誰かの声が聞こえた気がした。
カナの声?いや、もっと無機質で、冷たい声。
「……やだ、早く行こう」
リナは恐怖を振り払うように走り出した。雨音が、足音を消していく。
彼女は気づいていなかった。電柱の影、カーブミラーの裏、自動販売機の隙間から、無数の「視線」が彼女を追っていることに。
「……はぁ、はぁ、間に合った……」
カナは門前仲町にあるマンションの一室——『ダミーマンション』のベッドに滑り込んだ。灰谷の神懸かり的な運転(と、乃亜による信号操作)のおかげで、リナよりタッチの差で早く到着できたのだ。乃亜といえば引きこもりの影響もあってか、どんどん椚の技術や知識を吸収している気がする。もっぱら彼女がその気質があったのも幸いだろうが。
この部屋は、カナが「普通の女子高生」として生活しているというアリバイを作るための舞台セットだ。表向きは、海外赴任中の両親が借りている部屋で、カナが一人暮らしをしていることになっている。
部屋の中は、驚くほど生活感に溢れていた。
読みかけのファッション誌『Seventeen』や『egg』が無造作に置かれ、棚にはCDが並び、クローゼットには数着の私服(すべて莉子が選んで配置したもの)が吊るされている。キッチンには使いかけの調味料や、賞味期限ギリギリの牛乳まで冷蔵庫に入っている徹底ぶりだ。すべて、椚と灰谷、そして局長の九条院紗夜ら組織が作り上げた「たまに両親が帰国し、帰宅する雰囲気を残す。完璧な一人暮らしの部屋」の擬態だった。
ピンポーン。インターホンが鳴る。
カナは深呼吸をし、鏡で自分の顔を確認した。
顔色は悪いが、それは「風邪」のせいだと言い張れるレベルだ。
左肩の包帯は、パジャマ代わりの厚手のパーカーで隠している。
「……はーい」カナは少し声を枯らせて演出してから、ドアを開けた。
「あ、カナ! 大丈夫?」
ドアの向こうには、少し濡れたリナが立っていた。
心配そうな顔。手にはコンビニ袋。
「ごめんね、リナ。雨なのにわざわざ……」
「ううん、いいの。……顔、赤いよ? 熱あるんじゃない?」
リナが遠慮なく部屋に入ってきて、カナのおでこに手を当てる。
冷たい雨の匂いと、リナの甘い香水の匂いがふわりと漂う。
「……うん、ちょっと微熱がね。でも薬飲んだから大丈夫」
「そっか。……はいこれ、プリント。あとプリン」
「ありがとう。……ごめん、散らかってて」
「あ、お父さんとお母さんは海外なんだっけ?」
「そう、でもすぐ近くに親戚も居るし。よくお爺ちゃんお婆ちゃんが来てくれるから、1人暮らしってほどでもないけどね」
二人はリビングへ移動した。何気ない会話。
学校のこと、ミキのこと、テレビのこと。
リナは部屋の中をキョロキョロと見渡したが、特に違和感は抱いていないようだった。組織の「擬態」は完璧だ。
「……ねえ、カナ」リナがふと、真面目な顔で切り出した。
「昨日さ、電話で話した時……カナの声聞いて、すっごく安心したんだ」
「え?」
「ミキが『新宿でカナを見た』って言ってた時さ……正直、すっごく不安だったの。ミキは『本当にカナだった、超笑顔だった』って言ってたけど、それが逆に怖くて……」リナは少し恥ずかしそうに笑った。
「私の知ってるカナは、あんな派手な場所で、そんな風に笑わない気がして。……だから、夜に電話でカナの声聞いた時、心の底から『ああ、こっちが本物だ』って分かったんだ」
一瞬の違和感。だがカナの胸が締め付けられる。
リナは、無意識に「違和感」を感じ取っていたのだ。
ドッペルゲンガーの完璧な笑顔よりも、不器用で、少し影のある本物のカナを選んでくれた。
「……ありがとう、リナ」カナは微笑んだ。
「私も、リナが信じてくれて嬉しかったよ」
「えへへ。……じゃあ、長居すると悪いし、帰るね! 早く治してよー!」
リナは元気よく立ち上がり、玄関へと向かった。
カナも見送りのためにドアまで付いていく。
「じゃあね! お大事に!」
「うん、気をつけてね」
ドアが閉まる。カチャリ、と鍵をかける音が響く。
カナはドアに背中を預け、ズルズルと座り込んだ。
緊張が解け、左肩の痛みがどっと押し寄せてくる。
「……よかった、バレなかった……」
一方。マンションの廊下を歩き出し、エレベーターホールへ向かうリナ。
「……ふぅ。カナ、元気そうでよかった」
リナは傘を開き、エレベーターのボタンを押そうとした。
その時。
ふと、背中に視線を感じて振り返った。
カナの部屋のドア。もちろん閉まっている。
だが、リナの目には、そのドアが透けて見えたわけではない。
ドアの横にある、共用廊下の窓。
そこから、部屋の中の気配が漏れ出しているような——いや、もっと物理的な「何か」が見えた。
「……え?」
リナの動きが止まる。
彼女の視界の中で、マンションの壁面が一瞬だけノイズのように歪んだ。
そして、カナの部屋がある位置の外壁に。
巨大な、黒い蜘蛛のような「影」がへばりついていた。
それは数メートルの大きさがあり、無数の足でマンションの壁を掴み、カナの部屋を抱き込むようにして守っている——あるいは、封じ込めているように見えた。
その影の中心には、赤く光る単眼があり、それがギョロリと動いてリナを見下ろした。
『…………』
「……ひッ!?」
リナは悲鳴を上げそうになり、口を手で覆った。
瞬きをする。もう一度見る。
そこには、ただの雨に濡れたタイルの壁があるだけだ。
影などいない。赤い目もない。
「……な、なに今の……」
リナは震える手でエレベーターのボタンを連打した。
早く。早くここから離れたい。
カナの周りに、何かがいる。
私の知らない、恐ろしい何かが。
エレベーターが到着し、リナは逃げ込むように乗り込んだ。
扉が閉まる瞬間、彼女はもう一度だけ廊下を見た。誰もいない静まり返った廊下。
だが、空気中には、病院の消毒液とは違う、焦げたような機械油の匂いが、微かに漂っていた。




