第2話:星の記憶
——それは、問いである。
名を持たぬ我らから、名に縛られた汝らへ投げる、最初の観測。
問う。
汝らは、いつからそこに立っている。
星の皮膚にへばりつき、光を編み、影を生み、
それを「街」と呼び始めたのは、いつだ。
東京。
その響きは、柔らかすぎる。その意味は、浅すぎる。
あれはただの痕だ。我らが通過した、古い傷の名残に過ぎぬ。
それでも汝らは、そこに灯をともす。
小さく。脆く。瞬きほどの間に消えゆく光を、
何度でも。なぜだ。
問う。
終わると知りながら、なぜ形を保とうとする。
壊れると知りながら、なぜ名を呼び続ける。
消えると知りながら、なぜ——抗う。
我らには、それが理解できない。
増殖する記憶。過剰な意味。不必要な痛み。
それらすべてを抱え込み、なお、立ち続ける理由が。
ゆえに、測ろう。
生命としてか。現象としてか。
あるいは——誤作動としてか。
星は、我らのものだ。
光も、闇も、沈黙も。
そのすべては、すでに分割され、記述され、管理されている。
では。
その狭間に湧いた汝らは、何だ。誰の許しを得て、そこに在る。
答えよ。
その鼓動は、誰のものだ。その視線は、どこへ繋がっている。
——観測は、すでに始まっている。
汝らが見上げた、その瞬間から。
否。見上げるよりも、はるか以前から。
問う。
汝らは、何をもって「人間」とする。
そして——
それがまだ許されていると、
なぜ信じている。
✴︎
「でさー、昨日の『あいのり』見た!? マジありえないんだけど!」
「わかるー! てかさ、新曲の着メロ取った? 微妙に音割れすんだよねー」
2001年、両国にある都立某高等学校。
2年B組の教室は、昼休みの喧騒に包まれていた。 窓から差し込む気怠い午後の日差しが、チョークの粉が舞う空気を白く照らしている。
教室のあちこちで、ルーズソックスを履いた女子生徒たちが机を寄せ合い、携帯電話の画面を覗き込んでいた。 彼女たちの手にある端末は、アンテナが光るもの、巨大なストラップが何本もぶら下がっているもの、プリクラが裏蓋にびっしりと貼られているものなど、持ち主の個性が過剰なまでに主張されている。
そんな色彩の洪水から少し離れた窓際の後ろから二番目の席。
深澄カナは、机に突っ伏して泥のように眠っていた。
彼女のスクールバッグには、流行りのキャラクターのぬいぐるみストラップが付いている。
制服のスカート丈も短くし、指定のベストではなく淡いピンクのカーディガンを羽織るなど、一応は「普通のイマドキの女子高生」としてのファッションを整えていた。だが、その内側にある肉体は、鉛のように重い。
「カナ? ねーえ、カナってば」 「……ん……」 「また寝てんの? あんたホントによく寝るよねー。低血圧?」
頭上から降ってきた明るい声に、カナは重い瞼を少しだけ持ち上げた。 そこにいたのは、茶髪に緩くパーマをかけ、バッチリとメイクを決めたクラスメイトのリナだった。 彼女はこのクラスにおけるカナの数少ない「親友」であり、カナが裏の世界に生きていることを知らない一般人の代表でもある。
「……おはよ、リナ。今、何時……?」
「もう予鈴鳴るよー。次、現国だから。寝てたらまた竹内センセにチョーク投げられるよ?」
リナは笑いながら、自分の席——カナの前の席——に座り、手鏡を取り出して前髪を気にし始めた。
平和だ。 あまりにも平和すぎて、吐き気がするほどだ。
カナはあくびを噛み殺しながら、机の中のMDプレーヤーに触れた。 指先に伝わる冷たい金属の感触だけが、彼女を現実に繋ぎ止めていた。 (……少しだけ。授業が始まったら起きよう) 彼女は再び、机に顔を埋めた。 それが、悪夢の入り口だとも知らずに。
意識が落ちた瞬間、世界の彩度が反転した。
『——警告。汚染レベル、計測不能』 『ゲート閉鎖失敗。検体番号04、ロスト』
けたたましいサイレンの音。 赤色回転灯が、視界を暴力的に染め上げている。 そこは教室ではない。 地下深く、湿ったコンクリートと鋼鉄で囲まれた、巨大な実験施設。
「いや……やだ……!」
幼いカナは、冷たい床を這っていた。 足が動かない。感覚がない。 振り返ると、そこには「穴」が開いていた。 空間そのものが抉り取られ、その向こう側から、ドロドロとした黒い泥のようなものが溢れ出している。
泥の中から、無数の手が伸びる。 機械のコードと、人間の血管が混ざり合ったような、醜悪な触手。 それが研究員たちを捕らえ、飲み込み、咀嚼する音。 『グチャッ、バキッ、ジュルル……』
「助け……て……」
目の前に、白衣を着た男が倒れていた。
カナの手が、彼に伸びる。
だが、男の顔はすでに半分が「機械」に置換されていた。 カメラのレンズのような目が、無機質にカナを見下ろす。
『適合者ヲ、確認』
『インストール、開始』
男の口から、無数の黒い虫が吐き出され、カナの顔に降り注ぐ。 目に入る。耳に入る。皮膚を食い破って、中に入ってくる。
熱い。痛い。 私の体が、私じゃなくなる。
バグが、内側から私を書き換えていく——。
「アアアアアアアアアアッ!!!」
「——ッ!!!」
カナは弾かれたように顔を上げた。 「ひっ……!」という短い悲鳴が、静まり返った教室に響き渡る。
心臓が早鐘を打っている。背中には嫌な汗がびっしりと張り付いていた。視界が揺れる。赤いサイレンの残像が、網膜に焼き付いて離れない。
「……深澄?」
低い声に、我に返る。目の前には、チョークを持ったまま固まっている現代文の教師、竹内が立っていた。黒板には『山月記』の文字。 そして、クラス中の視線が、一点に集中している。
数秒の沈黙。 そのあと、ドッと教室中が爆笑の渦に包まれた。
「うわ、深澄マジで叫んだ!」 「どんな夢見てたんだよ!」 「虎にでも食われそうだったんじゃね?」
竹内は呆れたようにため息をつき、チョークを教卓に置いた。
「深澄、授業中に豪快な寝言は勘弁してくれよ。……まあいい、顔洗ってこい」
「……すみません」
カナは真っ赤になりながら、小さく頭を下げた。
笑い声の中に、リナの「あーあ」という苦笑いが混ざっているのが見えた。
(……最悪だ)
カナはふらつく足取りで教室を出る。 廊下の冷たい空気が、火照った頬を少しだけ冷やしてくれた。 左腕の、あの日刻まれた「痣」が、制服の下で微かに疼いている気がした。
放課後。 ホームルームが終わると同時に、教室は再び活気を取り戻した。 カナは逃げるように帰る支度を始めた。 スクールバッグに教科書を放り込み、MDプレーヤーのイヤホンを耳にかけるふりをして、周囲の音を遮断しようとする。
「カナ! 待ってよー」
リナが机にカバンを置き、行く手を阻んだ。
「今日こそ渋谷行かない? 新しいプリ機入ったんだって。センター街のゲーセン」
「ごめん、リナ。今日これからバイト」
カナは申し訳なさそうに眉を下げて、両手を合わせた。 これは嘘ではない。先ほど、ガラケーに暗号化されたメールが届いていた。『至急、局へ帰還セヨ。昨夜のデータの解析結果が出た』との指令だ。
「えー、またー? 最近付き合い悪くない?」 リナは頬を膨らませて、ジト目でカナを見つめた。 「ていうかさ、カナってなんのバイトしてるんだっけ?」
「え……」 カナは一瞬、言葉に詰まった。 世界を救うエージェント、とは言えない。清掃員、というには稼ぎが良すぎる(と思われている)。そもそも女子高生が放課後に清掃員をしているというのも変な話だ、と。
「……内緒。ちょっと、特殊なとこだから」
苦し紛れにそう答えて、彼女は購買で買った紙パックのリプトンミルクティーにストローを差した。
すると、リナは声を潜め、周囲を警戒するように顔を近づけてきた。
「ねえ……まさかとは思うけどさ」 「ん?」
「出会い系、とかじゃないよね?」
「ぶっ!!」
カナは危うく、口に含んだミルクティーをリナの顔に噴射するところだった。 激しくむせ返り、涙目で友人を睨む。 「けほっ、ごほっ! ……はあ!? なんでそうなるの!?」
「だってー! 最近多いじゃん、ニュースとかでも言ってるし。カナ、可愛いのに彼氏いないし、最近いつも寝不足だし、携帯ばっか気にしてるし……。変なオジサンとメールして小遣い稼ぎとか、してないよね?」
リナの瞳は、好奇心半分、本気の心配半分だった。 2000年代前半、携帯電話の普及と共に社会問題化していた「出会い系サイト」や「援助交際」。
女子高生が携帯を片手に夜の街を歩く姿は、世間的にはそういう風に見られているのだ。
「……バカ言わないでよ。そんなんじゃないって」
カナはハンカチで口元を拭いながら、呆れたように言った。
「ただの……そう、データ入力のバイトだよ。パソコン使うやつ」
「ふーん? まあ、カナに限ってそれはないか」
リナはあっさりと引き下がり、ニカっと笑った。
「じゃあバイト頑張ってね! 今度こそ絶対プリ撮るよ!」
「うん、また明日ね」
校門で手を振って別れる。
リナの背中が、夕暮れの雑踏に消えていく。
その背中を見送りながら、カナの表情から笑みが消えた。
あちら側に行けたら、どんなに楽だろう。普通の女子高生として、プリクラを撮り、カラオケで歌い、恋の話をする。バグも、侵食も、上位者の恐怖もない世界。
「……行けるわけ、ないか」
カナはガラケーを開き、誰もいない着信履歴を一瞥してから、パタンと閉じた。 彼女が向かう先は、センター街のゲームセンターではない。
電気と欲望とジャンクパーツの街、秋葉原だ。
電気街口を出ると、そこは部品と家電の迷宮だった。
まだメイド喫茶が乱立する前の、無骨で混沌としたアキバ。
路上には怪しげな露店が並び、海賊版のソフトや、出所不明の電子部品が山積みにされている。
カナはガード下のラジオセンターへと入っていった。 狭い通路の両脇に、抵抗器やコンデンサ、真空管を所狭しと並べた小さなブースがひしめき合っている。 電子部品特有の、半田と埃の匂い。
彼女にとっては、地下鉄の油の匂いと同じくらい、落ち着く匂いだった。
迷路のような通路を抜け、奥まった場所にある一軒の店。 『阿頼耶電子商会』 看板の文字は剥げかけ、ショーウインドウには「修理受付中」「ジャンク品買取」の手書きポップと共に、分解されたパソコンや基板が乱雑に置かれている。
一見すると、頑固親父が一人でやっている寂れた修理屋だ。
だが、カナはためらいなく店の奥へと進み、カウンターの裏にある「関係者以外立ち入り禁止」の札がかかったドアノブに手をかけた。
「……0番目のデバッガー、入ります」
小声で呟き、ドアを開ける。
そこは、ただのバックヤードではない。
壁一面にモニターが埋め込まれ、サーバーの冷却ファンが唸りを上げる、現代科学から逸脱した空間——第零技術局の東京支部だった。
「遅かったな、深澄」
奥の回転椅子から、白衣を着た男が振り向く。 ここが、彼女のもう一つの「教室」であり、本当の居場所だった。




