第1話:おはよう、深澄カナ
携帯を掲げろ。MDを回せ。――2001年、少女たちは神に抗う。
※この作品はすでに「カクヨム」様「NOVELDAYS」様でも連載されている作品となります。
※1話ごとの文字数が4000以上を超す長編作品となります。ご了承ください。
2001年、東京。
深夜25時を回った地下鉄の構内は、巨大な生き物の死骸のようだった。
終電が走り去り、酔っ払いや残業帰りのサラリーマンたちが吐き出された後のホームには、重苦しい油の匂いと、湿ったコンクリートの冷気だけが澱んでいる。
遠くで換気扇が回る低い唸り音が耳鳴りのように鼓膜に張り付いて離れない。
蛍光灯が一本だけ、接触不良を起こしたようにジジ、ジジと不規則に明滅を繰り返していた。
その光のリズムは、どこかモールス信号のような、あるいは不整脈のような不吉さを孕んでいる。
誰もいないはずの通路を、ローファーの足音が叩く。
深澄カナは、制服のプリーツスカートを翻しながら改札を抜け、清掃中の看板を無視して階段を降りていく。
彼女の首元には、流行りのブランドもののマフラーではなく無骨なヘッドホンがぶら下がっていた。
「……ここね。数値が跳ね上がってる」
彼女はブレザーのポケットから、シルバーの折りたたみ式携帯電話を取り出した。
親指で勢いよく端末を開く。
「カチッ」という硬質な音が、無人の構内に驚くほど大きく響く。
液晶画面のバックライトが、暗闇の中で彼女の蒼白い顔を照らし出した。
画面上のアンテナピクトは『圏外』を表示していたが、カナは構わずアンテナを最長まで引き伸ばし、それをダウジングロッドのように空間へとかざした。
通常なら通話やメール、あるいは画像の交換に使う赤外線ポート。
だが、この改造された端末においては、肉眼では捉えられない「境界の歪み」を検知するセンサーとして機能する。
彼女が端末を右へ左へと振るたびに、画面上のインジケーターが激しく上下し、ノイズ交じりの警告音を小さく奏でた。
<警告:位相ズレ検知。深度3。局所的バグ領域、拡大中>
<種別:自律型・侵食プロセス>
「深度3……。放っておけば、始発が出る頃には駅全体が『あっち側』に食われてる」
カナは小さく舌打ちをした。
深夜のアルバイトにしては、あまりに割に合わない。
ましてや私は高校生。
だが、やるしかなかった。
いつも通りに。
彼女の視線の先——ホームの突き当たりにある業務用通路の扉が、僅かに歪んでいた。
金属の扉であるはずなのに、まるで熱で溶けた飴のようにぐにゃりとたわみ、その隙間から「黒い何か」が漏れ出している。
それはコールタールのようであり、同時に無数の極小な蟲の集合体のようにも見えた。
現実というテクスチャが剥がれ落ち、その裏側にある「バグ」が露出し始めている。
「行くよ」
カナは誰に言うでもなく呟くと、ヘッドホンを首から外し、耳に装着した。
第零技術局から支給された対バグ用兵装。
MDプレーヤーの再生ボタンに指をかける。
ディスクが回転し始める微かな駆動音(シーク音)と共に、彼女の世界は「日常」から切り離された。
業務用通路の奥へ進むにつれ、世界は様相を変えていった。
壁のタイルは剥がれ落ち、代わりに赤黒い有機的なパイプが血管のように這い回っている。
天井からは蛍光灯の代わりに、正体不明の発光する粘液が垂れ落ちていた。
どこからともなく聞こえる機械的な駆動音と、湿った呼吸音。ここはもう、東京ではない。
東京の「裏側」に張り付いた、失敗した実験場——奴らの住処、『裏東京』だ。
カナは息を殺して進む。
彼女の眼前に、侵食の核とおぼしき物体が現れた。
それは、かつて自動販売機だったものだ。
しかし、今はもう原型を留めていない。
販売機の筐体から、人間の臓器を模したようなピンク色の肉塊が溢れ出し、それが周囲の配管と融合して脈打っている。
取り出し口からは缶ジュースではなく、ドロドロに溶けた鉄と油の混合物が、よだれのように垂れ流されていた。
「…う…趣味が悪い」
カナがそう呟いた瞬間、自販機の「目」が彼女を捉えた。
商品サンプルのディスプレイ部分に、無数の眼球のようなノイズが走り、一斉にカナを凝視する。
『ギギ……ガ……』 『……ケン……チ……』
スピーカーからではない。脳内に直接、不快なノイズが響く。
それは言葉というより、データの羅列だった。
——『異物検知』『ウイルス確認』
「ッ……!」
カナのこめかみに、焼きごてを当てられたような激痛が走る。
彼女の左目が、侵食された自販機と共鳴するように熱を持った。
視界の端に、現実には存在しないはずの文字列がオーバレイされる。
これが「半感染」の代償だ。
かつて地下鉄の奥深くで起きた事故の唯一の生存者である彼女は、体内に上位者の構成物質を宿している。
だからこそ、奴らの論理を理解できてしまう。
奴らにとって人間は、正常なシステム(裏東京)を汚染するウイルスであり、ただのエネルギー源だ。
その冷徹な敵意が、吐き気を催すほどの圧力となってカナを襲う。
自販機の肉塊が膨張し、触手のようなケーブルが鎌首をもたげた。
先端には、鋭利なプラグやカッターナイフのような工具が融合している。
物理的な攻撃と、精神汚染の同時攻撃。
「させない!」
カナはポケットからポータブルMDプレーヤーのリモコンを操作した。
「再生」 MDの中で回転するのは音楽ではない。
裏東京のノイズと真逆の位相を持つ、空間安定化プログラムだ。
キィィィィン——……!!
人間には聞こえない超高周波が、彼女の周囲に不可視の防壁を展開する。
襲いかかってきたケーブルの触手が、カナの数センチ手前で、見えない壁に弾かれたように軌道を逸らした。
空間の座標が固定され、侵食の進行が一時停止する。
MDのディスクが高速回転し、キュルキュルと悲鳴を上げる。
「今!」
間髪入れず、カナは右手でコンパクトデジタルカメラ(コンデジ)を構えた。
当時の最新モデルであるそのカメラは、レンズが異様に大きく改造されている。
電源を入れると、ウィーンというモーター音と共にレンズが繰り出し、ズームが作動した。
彼女はファインダーを覗かない。
背面の小さな液晶モニター越しに、怪物の「核」——肉塊の中心に埋まっている、青白く光る基板のような心臓——を捉える。 オートフォーカスの枠が、緑色に点灯した。
「はい、チーズ」
引き金を絞る。
暗闇の中で、高輝度ストロボ(フラッシュ)が炸裂した。
バシュッ!!
強烈な閃光が、地下通路の影を焼き尽くす。 ただの光ではない。
このストロボは、対象の情報を強制的に「静止画データ」として固定し、物理的な実体から切り離すための特殊波長を含んでいる。
「ギャアアアアアア!!」
自販機の怪物が、断末魔のようなノイズを上げる。
光に焼かれた肉塊が、テレビの砂嵐のように粒子化し、崩れ落ちていく。
その残骸はカメラのレンズへと吸い込まれ、SDカードの中へと封印されていくはずだった。
——だが。
「……嘘、効いてない!?」
カナは目を見開いた。
光が収束した後も、怪物の核である基板は砕けていなかった。
それどころか、粒子化した肉塊が再構成され、より凶悪な形態へと進化を始めている。
『……データ……更新……』
『……耐性……獲得……』
脳内に響く声が、嘲笑うように告げる。
こいつは、ただの野良バグじゃない。
上位者の意志が直接介入している「適応型」だ。
こちらの攻撃パターンを瞬時に学習し、プログラムを書き換えている。
「くっ……!」
再生された触手が、今度はMDプレーヤーの防壁ごとカナを薙ぎ払った。
「きゃあっ!」 カナの体が吹き飛び、冷たいコンクリートの床に叩きつけられる。
制服の袖が破れ、白い肌に赤い擦過傷が走る。
MDプレーヤーのイヤホンが外れ、空間安定化が解除された。
侵食が一気に加速する。
床から伸びた黒い血管が、カナの足首に絡みつき彼女をズルズルと引きずり始めた。自販機の怪物が、その巨大な口を開く。
中は空洞ではなく、無限に続く暗黒のデータ空間が広がっていた。
あそこに飲み込まれれば、深澄カナという存在は「削除」され、ただの文字列として処理される。
「離せ……!」
カナは足掻くが、拘束は強まるばかりだ。
頭痛が激化する。
体内のバグが、目の前の怪物に呼応して暴れ出す。 『混ざれ』『還れ』 甘美な誘惑。
抵抗をやめれば、楽になれる。
痛みも、孤独も、女子高生を演じる疲れもなくなる。
(……ふざけんな)
薄れゆく意識の中で、カナは奥歯を噛み締めた。
彼女の脳裏に浮かんだのは、かつて失った日常と、二度と戻らない家族の顔。
そして、自分をこんな体にした「裏東京」への、冷たい怒りだった。
「誰が……あんたたちの餌になんて、なるもんか」
カナは震える手で、放り出されたガラケーを掴んだ。 アンテナを伸ばすのではない。
彼女はガラケーの裏蓋を外し、バッテリーパックの脇にある、本来は触れてはいけない「強制接続端子」を露出させた。
そして、自分の左手の親指を噛み破る。
滲み出た血——それは鮮血ではなく、どこか黒ずんだ、バグの因子を含んだ血だった。
彼女はその血を、端子に擦り付ける。
「生体認証、強制解除。……コード、コラプション」
それは禁断の手だった。
自らの体内の「バグ」を活性化させ、ガラケーを媒介にして敵のシステムへ逆流させる。
毒をもって毒を制す、諸刃の剣。
ガラケーの画面が真っ赤に染まり、異常な熱を発する。
カナの左腕に、黒い幾何学模様の痣が浮かび上がり、脈打った。
「食われるのは……あんたの方だよ!」
カナは叫びと共に、ガラケーの赤外線ポートを怪物に向けた。
照射されたのは、探知用の弱い波形ではない。
彼女の命を削って生成された、破壊的なウイルスの奔流。怪物の動きが止まる。
今度は怪物の側が、内側から崩壊を始めた。
カナの流し込んだ「バグ」が、怪物の自己修復プログラムを食い荒らし、論理矛盾を引き起こさせたのだ。巨大な肉塊が、ドロドロの汚泥となって崩れ落ちていく。
「今だ……!」
カナは最後の力を振り絞り、再びデジカメを掴んだ。
フラッシュのチャージ音が、永遠のように長く感じる。
レディランプが点灯。
「消えろッ!!」
ゼロ距離からの射撃。
二度目の閃光が、完全に動きを止めた怪物の核を貫いた。
断末魔も残さず、怪物は今度こそ完全にデータ化され、小さなSDカードの中へと収束していった。
静寂が戻ってきた。
不気味な肉塊も、血管のようなパイプも全てが幻だったかのように消え失せている。残っているのは、古びた自動販売機と、薄汚れたコンクリートの壁だけ。
カナは床に大の字になって、荒い息をついていた。
全身が鉛のように重い。
左腕の痣はゆっくりと肌の下へ潜り込んでいったが、骨の髄に染み込んだような寒気は消えない。
ガラケーは高熱を持ち、バッテリー残量は点滅していた。
「……はぁ……はぁ……」
彼女は震える手で、スカートのポケットからミントタブレットを取り出し、数粒まとめて口に放り込んだ。
強烈な清涼感が、血と鉄の味を誤魔化してくれる。
デジカメの再生画面を確認する。
そこには、ノイズ混じりの抽象画のような画像が一枚、保存されていた。
「捕獲、完了……」
ヨロヨロと立ち上がる。
時計を見ると、時刻は28時——つまり朝の4時を回ろうとしていた。
遠くから、始発列車の準備をする駅員たちの気配と、シャッターが開く音が聞こえてくる。
日常が動き出す。
何事もなかったかのように。
誰も、この場所で世界が終わりかけていたことなど知らない。
カナは破れた制服の袖を安全ピンで留め、乱れた髪を手櫛で直した。
鏡に映った自分の顔は、ひどく青白く、目の下には隈ができている。
それでも彼女は、口角を無理やり持ち上げて、鏡の中の自分に笑いかけた。
「おはよう、深澄カナ。今日も普通の女子高生をやりましょう」
彼女は誰にも気づかれないように、業務用通路を抜け、朝の光が差し込み始めた改札へと向かった。
その背中は、世界を救った英雄には見えない。
ただの、少し夜更かしをしすぎた、不機嫌な少女にしか見えなかった。
先ずは第一話をお読みいただきありがとうございました。
時代は2001年、平成13年の東京。
携帯電話の背面に小さなカメラが搭載され始め、「写メール」という言葉が日常を彩り始めた頃。
カバンの中にはお気に入りの曲を詰め込んだMDウォークマンが潜み、街は新しいデジタルの波と、まだ色濃く残るアナログの余韻が交差する、独特の熱気を帯びていた時代の話です。
誰もが、明日も明後日も、同じような平穏な日常が続くと信じて疑わなかった時代。
皆さんは思い出しますでしょうか?
それともまだ生まれていない方もいらっしゃるかもしれませんね。
しかし――私たちの知る「あの頃の日常」の裏側で、世界は密かに綻び始めていた。
突如として現れ、見慣れた景色をグリッチのように歪め、人々の生活を静かに侵食していく未知の存在。
その世界のバグに気づき、抗うのは、他でもない少女たちだった。
彼女たちは、折りたたみ式の携帯電話や当時の最先端ガジェットを握りしめ、見えない脅威からこの街を、そして自分たちの世界を繋ぎ止めるために奔走する。
これは、少しだけ荒い画素数の写真に切り取られた、彼女たちの知られざる戦いの記録。
懐かしくも新しい、どこか切ない電子音が響く平成の東京へ、ようこそ。
さあ、イヤホンのジャックを挿して、再生(PLAY)ボタンを押してください――。
「面白い」「次も読みたい」と思っていただけましたら、
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