第16話:新宿歌舞伎町の夜
昼休みの教室は、購買のパンを争奪する男子生徒の叫び声と、机を寄せて弁当を広げる女子たちの笑い声で満ちていた。
窓の外は薄曇り。湿度を含んだ風が、カーテンを頼りなく揺らしている。
「……でさー、昨日の『ワンナイ』見た? ゴリエがさー」
松浦リナは、いつものように机に頬杖をつき、卵焼きを口に運びながらテレビの話に花を咲かせていた。その瞳はクリアだ。
先日、彼女の部屋で起きた「影の侵食」の後遺症は見られない。
睡眠学習のように、無意識下で彼女の日常は修復されている。カナが命がけで守った結果だ。
「……うん、見たよ。面白かったね」
カナは紙パックのミルクティーを飲みながら、穏やかに相槌を打つ。
(よかった。リナは何も覚えていない)
左目の奥が少し疼くが、それは心地よい痛みだった。
この平和なランチタイムこそが、カナにとっての報酬そのものだ。
「ねえ、深澄さん」
不意に、斜め前の席の女子生徒——クラス内でも派手なグループに属するミキが、身を乗り出してきた。「あんたさ、昨日新宿にいたでしょ?」
「……え?」カナの手が止まる。
「新宿? ……ううん、行ってないよ。昨日は放課後、すぐにバイト(任務)だったし」
「えー、嘘だぁ。私見たよ? アルタ前の待ち合わせ場所んとこ」
ミキは疑うような目でカナをジロジロと見た。
「なんかさ、すっごいイケメンの男の人と一緒に歩いてたじゃん。腕とか組んじゃってさー。意外とやるねぇ」
教室の空気が、一瞬で変わった。
リナが箸を止め、真顔でカナを見る。
「……は? カナ、昨日はバイトって言ってたじゃん」
「だ、だからバイトだよ! 新宿なんて行ってないって!」
カナは必死に否定する。実際、昨夜は秋葉原の拠点で椚と機材のメンテナンスをしていたのだ。
アリバイはある。だが、それを証明する手段はこの場にはない。
「えー、でも私絶対見たもん」ミキは譲らない。
「だって深澄さん、あの服着てたじゃん。X-girlのロゴTに、オーバーオール」
「ッ!?」
カナの心臓が早鐘を打った。
その服は、確かにリナに選んでもらい、買ったばかりのものだ。
まだ一度も袖を通していない。家のクローゼットの中に、大切にしまってあるはずだ。
なぜ、ミキがその服を知っている?
「……リナ、あの服のこと、誰かに話した?」
「話してないよ! ……てか、なによ。デートだったの?」
リナの声のトーンが落ちる。
「もし彼氏できたなら、言ってくれればよかったのに。……私に嘘ついてまで、隠したかったわけ?」
「違う! 誤解だよリナ! 本当に私じゃないの!」
「……ふーん。じゃあ、カナの『そっくりさん』が、カナと全く同じ服を着て、新宿を歩いてたってこと? そんな偶然あるわけないじゃん」
リナはプイと顔を背け、弁当箱を乱暴に閉じた。
「……ごちそうさま。私、トイレ行ってくる」
「あ、リナ!」
呼び止める声も虚しく、リナは教室を出て行ってしまった。
残されたカナに、ミキが「あーあ、怒らせちゃった」と無責任に笑う。
カナは震える手で携帯を取り出し、トイレに駆け込んだ。
個室に入り、鍵をかける。鏡に映る自分の顔は蒼白だ。
(私の偽物……?)
三鷹の夜、リナの部屋の窓から覗いていた「眼」。
そして、テープの最後に映り込んだ、血まみれで笑う自分自身。
奴らは学習したのだ。リナをコピーするよりも、この世界に干渉する力を持つ「深澄カナ」をコピーし、彼女の居場所を奪う方が効率的だと。
服のデータまで原宿での記憶から抽出して、完璧な「日常のカナ」を演じている。
カナは携帯を握りしめ、短縮ダイヤルを押した。
『プルルルル……』
電子音が、恐怖を煽るように狭い個室に響いた。
放課後。秋葉原ラジオセンターの地下、第零技術局本部。
紫煙が充満する開発室の空気は、かつてないほど重苦しかった。
「……なるほど。学校で『目撃情報』が出たか」
椚蓮治が、灰皿に吸い殻を押し付けながら言った。
モニターには、三鷹で回収したMiniDVテープの映像——ラスト数秒の「ドッペルゲンガー」のコマ送り画像が表示されている。
「奴らの狙いは明白だ。お前の社会的抹殺、そして『入れ替わり』だ」
椚がキーボードを叩く。
「この映像を解析したが、こいつは単なる光学迷彩やホログラムじゃねえ。……質量を持ってる」
「質量……?」
カナがパイプ椅子に座り込み、うなだれる。
「ああ。奴らはバグ領域の物質を使って、お前と全く同じDNA、同じ骨格、同じ声帯を持つ肉体を生成した。……言わば、お前の『バックアップデータ』を勝手に復元して、悪意あるOSをインストールした状態だ」
「そんな……。じゃあ、あいつは私の記憶も?」
「おそらく共有している。お前がリナちゃんと買った服、お前の口癖、思考パターン……すべてな」
だからこそ、厄介なのだ。
偽物は、カナ以上に「カナらしく」振る舞い、周囲の人間を騙すことができる。
そして本物のカナを「頭のおかしい偽物」として孤立させ、最終的に始末するつもりだ。
「……これは、現場の判断だけで処理できる案件ではありませんね」
重厚な防音扉が開き、局長の九条院紗夜が入ってきた。
今日はいつものスーツではなく、喪服のような漆黒のドレスに身を包んでいる。その纏う空気は、氷のように冷徹だ。
「局長……」
「新宿で目撃されたということは、奴らは人混みを利用して『認知』を広げようとしています。……大勢の人間が『深澄カナ』を目撃すればするほど、偽物の存在強度は増し、本物であるあなたが世界から弾き出される」
紗夜は優雅に歩み寄り、カナの肩に手を置いた。
「厄介なことになりそうね。……今の新宿は、ただでさえ『火種』がくすぶっていますから」
2001年、新宿。歌舞伎町ビデオ店爆破事件、外国人犯罪組織の抗争、そして警察の浄化作戦前夜。
あの街は今、暴力と欲望、そして死の匂いが濃厚に漂う「魔窟」と化していた。
警察でさえ、深夜の路地裏には容易に踏み込めない。
「警察上層部には、私から手を回しておきます。……今夜、新宿の一部エリアで『通信障害』と『監視カメラの不具合』が発生する……ということにして」
紗夜は妖艶に微笑んだ。それは、法の番人ではなく、この国を裏から操るフィクサーとしての顔だった。
「カナ、行きなさい。……あなたの『顔』を盗んだ泥棒に、教育的指導をしてあげて」
「……はい」カナは顔を上げた。
「私の居場所も、リナとの日常も、誰にも渡さない。……たとえ、相手が私自身でも」
夜22時。新宿。
靖国通りの信号が変わると、巨大な人の波が動き出す。
ネオンの光がアスファルトの水たまりに反射し、毒々しい極彩色を描いていた。
深澄カナは、人混みに紛れて歩いていた。
着ているのは、例の「X-girlのTシャツとオーバーオール」。
あえて偽物と同じ服を着ることで、奴を誘き出す囮となる作戦だ。
その上から大きめのパーカーを羽織り、フードを目深に被っている。
(……空気が、悪い。)
路地裏からは生ゴミと腐った酒の匂い。
客引きの男たちの怒声。中国語や韓国語のマイク放送。
どこからかパトカーのサイレンが聞こえるが、誰も気に留めていない。
2001年の歌舞伎町は、欲望が剥き出しになった、ある種の戦場だった。
「お、そこのお姉ちゃん。ひとり? 遊ばない?」
スカジャンを着た金髪の男が声をかけてくる。カナは無視して歩を進める。
ポケットの中のMDプレーヤーを握りしめ、左目の感覚を研ぎ澄ませる。
(どこ……? 私の偽物は、どこにいる?)
その時だった。「おい、君。ちょっといいかな」
背後から、低い声で呼び止められた。振り返ると、制服警官が二人、訝しげな顔で立っていた。
「こんな時間に、未成年だろ? 補導対象だよ。身分証見せて」
「……いえ、私は」
カナは舌打ちをこらえた。
局長が手を回しているとはいえ、末端の警官まですべて制御できるわけではない。
しかも、今の自分は「家出少女」のような格好だ。怪しまれて当然だった。
「ちょっと署まで来てもらおうか。親御さんに連絡するから」
警官がカナの腕を掴もうとする。
「離して! 急いでるの!」
「暴れるな! ……おい、応援呼べ!」
その瞬間。
カナの視界の端——雑居ビルの隙間の暗がりに、「それ」はいた。
パーカーのフードを被っていない、ショートカットの少女。
X-girlのTシャツ。カナと全く同じ顔。
しかし、その表情は、カナが決して見せないような、底知れぬほど明るく、そして虚ろな「満面の笑み」だった。
『…………』
偽物は、警官に取り押さえられそうになっているカナを見て、音もなく口を動かした。
——『ザ・マ・ア・ミ・ロ』——
「ッ……!!」
カナの全身の血が沸騰した。
あいつだ。あいつが、私の日常を壊そうとしている。
「どいて!!」
カナは警官の腕を振りほどき——いや、人間離れした力で突き飛ばした。
「うわっ!?」警官が尻餅をつく。
「待て! ……クソッ、逃げたぞ!」
背後で笛が鳴り響く中、カナは雑居ビルの隙間へと飛び込んだ。
偽物は、猫のような身軽さで路地裏の奥へと消えていく。
「逃がさない……絶対に!」
カナはパーカーを脱ぎ捨て、オーバーオール姿で夜の闇を駆けた。
ラブホテルの看板、風俗店の裏口、ネズミが走るゴミ捨て場。
新宿の血管のような入り組んだ路地を、二人の「深澄カナ」が疾走する。
人気のない場所へ。
偽物は、まるでカナを誘導するかのように、歌舞伎町の外れにある建設途中のビルへと逃げ込んだ。
再開発のために取り壊しが進む、廃墟同然のコンクリートの塊。
周囲は工事用の白いフェンスで囲まれ、街の喧騒が遠くにくぐもって聞こえる。
カナはフェンスを飛び越え、剥き出しの鉄骨が並ぶ広場へと着地した。
月明かりだけが頼りの薄暗い空間。
その中央に、偽物は立っていた。
「……なんで、私の顔をしてるの」
カナがMDプレーヤーを構え、問いかける。偽物はゆっくりと振り返った。
その顔には、相変わらず「張り付いたような笑顔」が浮かんでいる。
『……ナンデ? ……ナンデ?』
偽物が口を開いた。しかし、そこから聞こえてきたのは、人間の声ではなかった。
リナの声、学校の先生の声、テレビの音声、そしてカナ自身の声を細切れにして繋ぎ合わせた、不気味なサンプリング音声。
『ワタシ……カナ。……ホンモノノ、カナ』
『オマエ……イラナイ。……バグ。……ショウキョ』
「ふざけるな!」カナは再生ボタンを押した。
『PLAY』。空間が歪み、不可視の衝撃波が偽物を襲う。
だが。偽物は動じない。彼女もまた、ポケットから「何か」を取り出した。
それは、カナのMDプレーヤーと酷似しているが、有機的な肉とコードで構成された「生体MD」だった。
『PLAY』偽物の口から、機械音声が漏れる。
『ギャァァァァァッ!!』
偽物のMDから放たれたのは、カナの衝撃波と完全に「逆位相」のノイズだった。
二つの波が衝突し、空中で激しいスパークが発生する。
『バチチチチッ!!』
「くっ……!」カナは爆風に煽られ、後退った。
相殺された。こちらの出力、周波数、タイミング。すべてを完全にコピーし、計算している。
『オナジ……オナジ……』偽物が、首を90度傾げて笑った。
『ワタシノホウガ……ツヨイ。……ワタシノホウガ……ウマク、ワラエル』
偽物は、不意に表情を変えた。リナに見せていたような、愛想の良い、完璧な「親友」の顔に。そして、その顔のまま、右腕を異形へと変形させた。
皮膚が裂け、中から黒い刃のような骨が飛び出す。
「……私の居場所を、返せッ!!」
深紅の瞳が闇に輝く。痣がこめかみを侵食する。
「ここには、誰もいない。……警察も来ない」
カナはMDのボリュームを最大まで上げた。
「あんたをスクラップにするには、お誂え向きの場所だよ」
廃ビルの屋上で、二人の「深澄カナ」が激突する。
一方は、日常を守るために戦う、傷だらけのオリジナル。
もう一方は、日常を奪うために生まれた、完璧なコピー。
鉄骨が軋み、コンクリートが砕ける音が、新宿の夜に吸い込まれていく。
それは、誰にも知られることのない、自分自身との殺し合いの始まりだった。




