第15話:松浦リナ
深夜26時。東京の西、三鷹市の閑静な住宅街。
街灯が等間隔に並ぶアスファルトの道路を、灰谷の白いワンボックスカーがエンジン音を殺して滑るように進んでいた。
「……ここか」
運転席の灰谷が車を停め、ルームランプを消した。
車内は闇に沈み、後部座席に座るカナ、莉子、乃亜の顔が、機材のLEDランプだけで青白く照らし出される。
「松浦宅。……一見すると、ただの平和な一軒家ね」
莉子が窓の外を睨みつけた。外観は、どこにでもある築浅の2階建て住宅だ。庭には手入れされた花壇があり、駐車場にはファミリーカーが停まっている。
「……ううん。違う」
カナは左目を押さえた。
深紅に充血した左目が、家全体を覆う「異常」を捉えていた。
「家全体が……『膜』に包まれてる。テレビの砂嵐みたいな、ザラザラしたノイズの繭の中に、あの家がある」
「空間位相がズレてるの。……あの中だけ、外の世界とは違う時間が流れてる」
乃亜が膝上の携帯ゲーム機を操作しながら、淡々と告げた。
「『認識阻害』の結界も張られてる。近所の人は誰も、あの家の異常に気づかない。……中で何が起きても、ね」
「突入するぞ」灰谷が振り返り、短く指示を出した。
「作戦目標は、2階のリナちゃんの部屋にある『感染源』の除去。……条件は分かってるな?」
「ええ」カナは手元のMDプレーヤーを握りしめた。
「リナも、家族も、絶対に起こさない。……誰にも気づかれずに、終わらせる」
もし一般人に「怪物」の姿を見られれば、その時点でアウトだ。
記憶処理で済めばいいが、最悪の場合、彼らの精神が崩壊する。
これは戦闘ではない。外科手術のような、極めて繊細な「切除作業」だ。
車を降りたカナと莉子は、夜陰に紛れて玄関先へと忍び寄った。
乃亜は車内に残り、遠隔で電子ロックの解錠を試みる。
『……セキュリティ、バイパス接続。……解除』
インカム越しに乃亜の声が響くと同時に、玄関の鍵が電子音もなく開いた。
「けど電子キーのお家なんてリナさんの家はお金持ちなのかな」
「まあ、貧しくはない。それに記憶にも新しい『一家殺人事件』などもあったからな、世間的には防犯意識を徹底するのは正しいのさ」
「物騒な世の中…」
「今に始まったことじゃないさ」
「お邪魔します……」
カナは息を殺してドアを開けた。
家の中は、奇妙なほど静まり返っていた。
いや、「音」はある。だが、それがおかしい。
リビングのドアが少し開いている。
そこから、テレビの光が漏れていた。
「……起きてるの?」
莉子が唇の動きだけで問いかける。
カナは首を振って、隙間から中を覗き込んだ。
そこは、異様な光景だった。
テレビがついている。だが、画面は真っ白な砂嵐だ。
『ザァァァァァァ…………』
深夜の放送終了後の、無機質な音がリビングを満たしている。
ソファには、リナの父親らしき男性が座ったまま眠っていた。
首をカックンと垂れ、いびきをかいている。しかし、そのリズムが異常だった。
『……グォ……。……グォ……。……グォ……。』
まったく同じ波形。まったく同じ間隔。
まるでサンプリングされた音声データを、編集ソフトでコピー&ペーストして並べたような、機械的すぎるいびき。
さらに、台所には母親の後ろ姿があった。エプロンをつけたまま、包丁を握り、まな板に向かっている。
『トン、トン、トン、トン……』
まな板の上には、何もない。
野菜も肉もない。
ただの空っぽの空間に、包丁を振り下ろし続けている。
その動作もまた、数秒の映像をループ再生しているかのように、不自然に滑らかで、そして永遠に続いていた。
「……なによ、これ」
莉子が顔をしかめ、吐き気をこらえるように口元を覆った。
『……家族ごと、バグに取り込まれてる』
インカムから乃亜の声が聞こえた。
『彼らは「待機状態」にされてるの。上位者がリナさんを取り込むまでの間、余計な邪魔が入らないように、昨夜の残像を繰り返させられているだけ。……放っておけば、死ぬまで包丁を振り続けるわよ』
カナは拳を握りしめた。これが、上位者のやり方だ。
人間を「命」ではなく、ただの「背景データ」として扱う冷徹な論理。許せない。
彼らと会話できるもんなら、一発強めのビンタをしてから納得いくまで説明してもらいたい。
「……行きましょう。2階へ」
カナは父親のループするいびきを背に、階段へと足を向けた。
ミシミシと鳴らないよう、階段の端を選んで踏みしめる。
2階の廊下は暗く、奥にあるリナの部屋のドアだけが、不気味な気配を放っていた。
「……深澄。準備は?」
莉子が腰のホルスターから、例の新兵器を取り出した。
『MiniDVビデオカメラ・シーケンスキャプチャ』。
銀色のボディが、闇の中で鈍く光る。
「いつでもいけます」
カナもMDプレーヤーを取り出し、イヤホンを装着した。
莉子が音もなくドアノブを回し、部屋へと踏み込む。その瞬間。
二人の肌に、ピリピリとした静電気が走った。
「……ッ!」
部屋の中は、昼間に見た「女子高生の部屋」のままだった。
勉強机、散らかった雑誌、ベッド。
そして、ベッドの上ではリナが安らかな寝息を立てていた。
だが。
「……嘘でしょ」
莉子が息を呑んだ。
ベッドで眠るリナの体。
その上から、覆いかぶさるようにして「黒い影」が乗っていた。
いや、乗っているのではない。
リナ自身の体から、影が剥がれ落ちるようにして立体化し、彼女の首を両手で絞めるようなポーズで固定されている。
影には顔がない。
だが、その頭部は、壁に貼られた浜崎あゆみや窪塚洋介のポスターの方を向いて、小刻みに痙攣していた。
『……ギ……ギギ……』
影から、ハードディスクがクラッシュする時のような異音が漏れている。
リナは苦しそうに眉を寄せているが、目は覚まさない。
「……あと少しで、同調が終わるわ」
莉子がビデオカメラを構え、液晶モニターを開いた。
「ナイトショット(暗視モード)、起動」
『フォン……』起動音と共に、液晶画面が緑色の暗視映像に切り替わる。
肉眼ではただの黒い影にしか見えないその物体が、カメラのフィルター越しには、無数の「LANケーブルと血管が絡み合った肉塊」として映し出された。
「……キモい。やるわよ、深澄」
「はい! 音響遮断結界……展開!」
カナがMDの再生ボタンを押す。『PLAY』。
ディスクが高速回転し、逆位相の音波が部屋の中に満ちる。
これにより、この部屋で発生するあらゆる物理的な衝撃音は、外部には漏れなくなる。
「撮影……開始ッ!!」
莉子が録画ボタンを押した。『REC』の赤文字が点滅する。
『ギャァァァァァァァ————!!』
影が絶叫した。だが、その声はカナの結界に阻まれ、空気を震わせるだけの振動となる。カメラを向けられた影は、レンズに吸い込まれることを拒絶するように、リナの体から触手を伸ばして暴れだした。
「させない!」
カナが前に飛び出し、触手をMDプレーヤーから発生させたシールドで弾く。
『バチッ! バチバチッ!』
火花が散るが、音はない。無音の火花が、暗い部屋をストロボのように照らす。
リナの枕元で、ポスターが激しく揺れる。
机の上のCDが崩れ落ちそうになるのを、カナは体で受け止めて防いだ。
絶対に、物音一つ立てさせない。リナの安眠を、何があっても守り抜く。
「……解析完了! 弱点は『左心房』にあたる座標!」
インカムから乃亜の指示が飛ぶ。
「了解! ……こっち向いて、ハイチーズ!」
莉子がカメラのアングルを変え、影の胸元へとズームインする。
ビデオカメラの赤外線ライトが、影の核を焼き尽くすように照射される。
影は苦悶し、リナの首から手を離して逃げようとした。
壁を伝い、天井へと這い上がる。
「逃がすか……!」
莉子はカメラを振り上げ、執拗に影をフレームの中に捉え続ける。
テープが回る音が、不気味に響く。
『ウィィィィン……』
磁気テープに、影の時間が記録されていく。
それは「封印」だ。奴らの存在を、0と1のデータに変換し、物理的なテープの中に幽閉する。
「……深澄! ラスト、押し込むわよ!」
「はい!」
カナは左目の痣の痛みに耐えながら、MDの出力を最大にした。
空間圧縮。部屋の四隅から見えない圧力をかけ、逃げ惑う影を一箇所に追い詰める。
『ギ……ギギ……ガガガ……』
影は断末魔と共に、カメラのレンズの中へと吸い込まれていった。
最後に残った黒い靄も、すべてテープの中に収束する。
「……カット!」
莉子が停止ボタンを押した。『ウィ……カチャ』
テープの回転が止まる音が、静寂を取り戻した部屋に響いた。
「……はぁ、はぁ……」
カナはその場に膝をついた。鼻からツーと赤いものが垂れる。鼻血だ。
脳への負荷が限界に近い。だがリナの私物に血がつかないように、服の袖で抑え拭き取る。莉子もまた、こめかみを押さえて顔をしかめている。
「……ったく。人の寝顔の横で、なんてことさせんのよ」
二人は顔を見合わせ、苦笑いをした。
ベッドの上では、リナが何事もなかったかのように、規則正しい寝息を立てている。
首元にあった絞められたような跡も、影が消えたことで綺麗に消滅していた。
「……よかった」
カナはそっとリナの前髪を直してやった。
「おやすみ、リナ」
二人は痕跡を消し、静かに部屋を出た。
1階に降りると、リビングの父親とキッチンの母親は、まだループを続けていた。
だが、その動きは先ほどよりも緩やかになり、徐々に「正常な時間」へと戻ろうとしていた。
朝になれば、彼らは何事もなかったかのように目を覚ますだろう。
昨夜の記憶を、ただの「よく寝た夜」として処理して。
車に戻ると、カナは泥のようにシートに沈み込んだ。
「任務完了ね。……テープ、回収したわ」
「2人もお疲れ様!」乃亜がパーカーを脱ぎ、少しぶきっちょな笑顔で迎える。
「ノアもありがとうね」「よし、帰るぞ。忘れ物はないか?」
「大丈夫。灰谷さんの仕事は残してないから」
莉子がMiniDVテープを取り出し、ケースに収める。
それが、今夜の戦いの唯一の証拠だ。
翌朝。通学中の電車の中で、カナのガラケーが震えた。
【送信者:リナ】
『おはよー! なんか昨日めっちゃ爆睡しちゃって肌の調子イイかも! 今日も放課後遊ぼうね!』
カナは画面を見て、ほっと息を吐いた。
守れた。彼女の日常は、まだ続いている。
その日の午後。秋葉原の第零技術局にて。椚が回収したテープを再生していた。
「……綺麗に撮れてるな。影の除去は成功だ。マーキングも消えてる」
モニターには、暗視モードの緑色の映像が映し出されている。
苦悶する影。それを封印する莉子のカメラワーク。完璧な仕事だった。
「……だが」椚がリモコンを操作し、映像をコマ送りした。
「ここだ。……最後の一瞬」
影がレンズに吸い込まれる直前。カメラがふと、部屋の窓の方を向いた瞬間があった。
『ザッ……』
ノイズが走る画面の隅。カーテンの隙間から、夜の闇が覗いている。その闇の中に。
「……ッ!?」
その様子を見ていた莉子と乃亜は息を呑んだ。
そこに映っていたのは、巨大な「眼球」だった。
爬虫類のような、あるいは昆虫のような、無機質で冷酷な瞳。
それが、窓の外から部屋の中を——眠るリナと、戦うカナたちを、じっと見つめていた。そして、その瞳の奥に、一瞬だけ浮かび上がったシルエット。
それは、血まみれで笑う、カナ自身の姿だった。
『プツン』映像が途切れた。
「……見られていたな」
椚が重い口調で呟いた。
「奴らは、リナという端末を諦めたわけじゃない。……むしろ、お前たちが守りに来ることを『学習』したのかもしれん」
守ったはずの日常のすぐ外側に、まだ奴らは張り付いている。
窓一枚隔てた向こう側で、その大きな目を瞬きもせずに開いて。
三鷹の平和な住宅街。その上空には、目に見えない灰色の雲が、依然として重く垂れ込めていた。




