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空気のなかの自我  作者: 設楽七央


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春の風にほどける髪

朝、玄関を出た瞬間、髪がふわりと揺れた。冬のあいだはコートの襟に押し込められていたはずの髪が、今日はなぜか自由に動いている。風が変わったのだと、髪のほうが先に教えてくれた。


春の風は、冬の風と違って命令口調ではない。押し倒すのでも、切り裂くのでもなく、ただ触れてくる。指先で頬をなぞるような軽さで、存在を主張しすぎずに、こちらの境界をほどいていく。その風に触れられると、体の輪郭が少し曖昧になる気がした。


信号待ちのあいだ、風が前髪を乱し、結んだ毛先をほどく。ゴムの中で収まっていたはずの髪が、勝手に外へ逃げ出していく。整えてきた秩序が、外気に触れただけで簡単に崩れる。その無秩序が、なぜか心地よい。


子どもの頃、母はいつも「髪を結びなさい」と言った。風に乱れるのはだらしないからだと。けれど、春の風にほどける髪は、だらしなさというよりも、季節への同調のように思える。自然の側に合わせて、人の形が少しだけ崩れる瞬間。


歩道の桜の蕾はまだ固いが、枝先はもう冬の緊張を失っている。木々も、地面も、空気も、どこかで少しずつほどけ始めている。その「ほどけ」は、冬という長い結び目を解く行為なのだろう。


髪が頬に触れ、そのまま首筋へと流れる。その感触に、身体が外界と直接つながっていることを思い出す。冬は布と布の間に閉じ込められていた皮膚が、風に触れ、光に触れ、季節に触れ始める。生きているという感覚は、こうして触れられることで更新される。


春の風は、決意をほどく。固めていた心の結び目を、言葉もなく解いてしまう。今日何かを始めようとしていたはずなのに、風に触れた途端、計画よりも感触のほうが大切に思えてくる。


春の風にほどける髪とは、自分の輪郭が季節に溶け出す合図。私は今日、その風に髪を預けながら、冬の間に結びすぎていた自分の結び目を、ひとつずつ無言で解いていった。


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