第089話:将来の設計と、退屈なクラシック
七月下旬。夏休みに入った山高の軽音部室には、息苦しいほどの蝉時雨が響いていた。
『ワイルド・カード』と『ハート・オブ・プリンセス』の二つのバンドの練習が終わり、後輩たちが帰った後の部室。残された俺たち『beat less』の五人は、開け放たれた窓からのぬるい風を浴びながら、パイプ椅子に座ってサイダーの缶を傾けていた。
「……で、来年の今頃は、俺たちもいよいよ受験生ってわけだ」
薫が、空になった缶をゴミ箱に放り投げながら言った。進学校である山高の生徒にとって、二年生の夏休みは「引退と受験」の足音が聞こえ始める時期だ。
「先輩たちは、高校を出たらどうするつもりですか」
俺が淡々と尋ねると、薫、勝、博士の三人は顔を見合わせ、当然のように笑った。
「決まってんだろ。デビューだ」薫がニヤリと歯を見せる。「CD売りまくって金を稼ぐ。で、デカいステージで音を鳴らして、いつかは世界ツアーだ」
勝と博士も「違いない」と深く頷いている。彼らは進学校の生徒でありながら、頭の中は完全にバンドドリームに侵食されていた。俺たちの仕掛けた熱狂の波を最も近くで浴びているのだから、当然の帰結だ。
俺は小さく息を吐き、隣で黙ってサイダーを飲んでいた智ちゃんに視線を向けた。
「智ちゃんはどうするの?」
「私? 私は……一応、大学には行きたいかな」
智ちゃんは少し申し訳なそうに、言葉を選びながら言った。
「みんながデビューするならバンドには参加するけど、学校を卒業できる範囲内でやりたい。……お父さんに、あまり心配をかけたくないの。とりあえず大学だけは出てくれって言われてるし」
彼女の家庭は、父親と妹の三人暮らしだ。堅実な道を歩んでほしいという親の願いを無碍にできない、長女としての責任感。
「何学部に行くつもりですか。バンドがダメだった時の保険で、学校の先生? それとも教育学部の音楽科とか」
俺が現実的な選択肢を並べると、智ちゃんは「うーん、その辺りかな」と曖昧に頷いた。
「おいおい、智子。大学に行きながらじゃ、まともに練習なんてできねえぞ。一緒にデビューしようぜ」
薫が身を乗り出して口を挟む。だが、俺は薫を片手で制し、智ちゃんを真っ直ぐに見た。
「……じゃあ、まずは東京の音大ですね」
「えっ、音大?」
「ええ。俺たちのバンドがこのままヒットすれば、その実績で私立音大の奨学生枠に入れるかもしれません。学費が免除されれば、親御さんの負担も消える。うまく行けば、の話ですが」
大人のシステムを逆手に取り、特待生という名目で最高峰の音楽インフラを合法的に確保する。俺の頭の中にある長期的な設計図の一部だ。
「……なるほどな。まあ、東京なら俺たちが智子の大学の近くに住めばいいだけだし、なんとかなるか」
薫が楽観的に笑い、勝と博士も「俺たちのたまり場ができるな」と頷き合っている。智ちゃんも、少しだけ安心したように頬を緩めた。
俺は彼らの顔を見回し、冷たい声で釘を刺した。
「先輩たち。東京に行くのはいいですが、ちゃんと勉強しないと落第して、俺と一緒に卒業することになりますよ」
「わかってんよ。うっせえな」
薫が顔をしかめてそっぽを向く。進学校のカリキュラムは甘くない。彼らが最低限の免罪符を維持できるように、秋以降も徹底的に管理する必要がある。
「……で、アキラ。お前はどうすんだよ」
不意に、薫が俺を真っ直ぐに見据えて尋ねてきた。
「お前も当然、東京に来るんだろ?」
「俺の目標も、やはり音大です」
俺は迷いなく答えた。
「……はあ? 音大?」
薫が素っ頓狂な声を上げ、勝と博士も目を丸くした。
「お前みたいに、ヤバいロックをやってる奴が、なんで今更あんなお上品な学校に行くんだよ」
「今はロックを鳴らしていますが、将来はクラシックも考えているので」
俺が淡々と告げると、薫は呆れ果てたように大きなため息をついた。
「クラシックだぁ? あんな退屈な音楽、やりたいわけ? アホじゃん」
「ええ、そうですね。今のクラシックは、退屈です」
俺は傍らに置いてあるベースの弦を、指先で静かに弾いた。
この世界が二百年かけて磨き上げてきた、感情を殺した完璧な調和。
「……でも、俺はクラシックにロックを吹き込みたいんです。まだ、先のことになるでしょうが」
俺が思い描いているのは、この狂った世界に失われた『第九』を蘇らせることだ。ロックの熱量と情念を持った交響曲。それを実現するためには、アンダーグラウンドのバンド活動だけではなく、音楽の権威の中枢に乗り込む必要がある。
「……お前の言うことは、さっぱりわかんねえぜ」
薫が肩をすくめ、勝と博士も「頭良すぎるやつの考えることは謎だな」と苦笑いしている。
それでいい。彼らが俺の意図をすべて理解する必要はない。
蝉の声が降り注ぐ夏の部室で、俺は静かに口角を上げた。それぞれの思惑と野心を抱えたまま、俺たちの時間は次のステージへ向けて加速し始めている。




