第088話:切り札(ジョーカー)と、真夏の王女
約束の月曜日。放課後の軽音部室で、俺は長机の上に二束の分厚い五線譜を置いた。
「約束通り、二バンド分の設計図です」
部室に集まった十数人の部員たちが、息を呑んでその束を見つめる。
俺はまず、ドラムの岡田先輩と、一年生の男子三人に視線を向けた。
「岡田先輩たち男子四人のバンド名は『ワイルド・カード』。どんな手札にも化けるジョーカーです。曲はこれを用意しました。タイトルは『リンダリンダ』」
「……おいアキラ、ちょっと待て」
部屋の隅でギターを抱えていた薫が、呆れたように口を挟んだ。
「曲を持ってくるのはいいが、なんでバンド名までお前が勝手に決めてんだよ。そういうのは自分たちで決めさせるもんじゃねえのか?」
一年生の男子たちも「そうですよ」と小さく頷いている。俺は静かに首を振った。
「これはただの名前じゃありません。この学校のお行儀の良い空気を内側から壊すための『役割』です。複雑なテクニックは一切不要。ただドラムのビートに合わせて弦をかき鳴らし、腹の底から泥臭く叫んでください。あなたたちは、この退屈な日常をひっくり返すための切り札なんです」
俺が淡々と告げると、一年生の男子たちが、その単純で荒々しいメッセージ性に顔を見合わせ、やがてゴクリと生唾を飲み込んだ。彼らの指導は、完全に岡田に一任して問題ないだろう。
次に俺は、女子たちのグループに向き直った。
元ハトクイのベースである翔子を筆頭に、ボーカルの麻耶、ギターの佐藤しおり、ドラムの尾崎なな、そしてコーラスの高梨ミキ。一年生の三人はハトクイに憧れて入部してきた素人だが、佐藤と尾崎にはピアノの経験があるという。
「あなたたち女子のバンド名は、『ハート・オブ・プリンセス』。略してハトプリです。表舞台から姿を消した『クィーン・オブ・ハーツ』の後継者であると、周囲の大人たちを完全に油断させるための建前(看板)になります。曲は『世界でいちばん熱い夏』」
麻耶が楽譜を覗き込み、パッと顔を輝かせた。
「わぁ……! すごくキャッチーで、可愛いメロディ! これなら私たちでも歌えそう」
「ですが、リズムは強烈なエイトビートです。油断すると置いていかれますよ」
俺が釘を刺すと、翔子が自分のベースラインを指でなぞりながら、青ざめた顔を上げた。
「ちょっとアキラくん、このベースの動き……めちゃくちゃ動き回るじゃない! 私、これを弾くので精一杯で、とても一年生たちを引っ張る余裕なんてないわよ!」
翔子の悲鳴に近い声に、俺は部屋の隅に立てかけられていたアコースティックギターを手に取った。
「とりあえず、全体がどんな曲になるか聴いてみてください。……博士先輩」
ドラムセットの横にいた博士に視線を向ける。
「スネアとバスドラムで、一定のエイトビートを刻んでくれますか」
「おう、任せとけ!」
急に振られた博士がドラムスローンに座り、迷いのないカウントから力強い裏打ちのビートを叩き出し始めた。
俺はそのリズムに乗せ、ギターの弦を弾いた。
ただコードをかき鳴らすのではない。指板の上を滑るように指を動かし、ボーカルのキャッチーなメロディラインをギター一本で完璧に歌わせる。
長年スタジオの現場で何万回と耳にし、コード進行の構造を骨の髄まで理解しているからこそ弾き出せる、極上のポップスの旋律。博士の力強いバックビートと鮮やかなメロディが、部室の空気を一気に引き締める。
「……すっげえ」
「アキラ先輩、キーボードだけじゃなくて、ギターでこんなメロディ弾けるの……?」
麻耶たち一年生が息を呑み、翔子も信じられないものを見るように目を見張っていた。
俺はワンコーラス弾き終えたところで弦をミュートし、涼しい顔でギターを置いた。
「このくらいキャッチーで推進力のある曲です。ベースは少し複雑ですが、弾き込めば翔子先輩なら必ずモノにできますよ」
「そ、それは練習するけど……! これ弾きながら全体をまとめるなんて、やっぱり絶対無理だからね!」
翔子が慌てて首を振る。
俺は小さく息を吐き、部屋の隅で俺たちのやり取りを見守っていた智ちゃんに視線を向けた。
「智ちゃん。ちょっと、ハトプリの仕切りを頼めますか」
「えっ、私が!?」
いきなり話を振られた智ちゃんは、目をまん丸にして驚いた。
「翔子がリーダーとしてやるんでしょ?」
智ちゃんが反論すると、翔子は両手を合わせて懇願するような目を向けた。
「ごめん! 私、自分の演奏はなんとかできるけど、全体のアンサンブルを仕切るのは絶対無理! 頼む、智ちゃん!」
「えぇ……。翔子が『もう一度バンドがしたい』って言い出したのに」
呆れ返る智ちゃんに、俺は静かに言葉を重ねた。
「まあまあ。しおりさんもななさんも、ピアノの経験があるなら音符の理屈はすぐに理解できる。鍵盤の構造がわかっている智ちゃんなら、ギターのフレットやドラムの打点への変換も教えやすいはずです」
俺は真っ直ぐに彼女の目を見た。
「プレイヤーとしてベースを弾くだけではなく、バンド全体の音をまとめる視点を持つことは、絶対に良い経験になります」
大人の理詰めの説得に、智ちゃんは少しだけ口を尖らせた。
「……でも、私がこっちにかかりきりになったら、映像用のカメラマンはどうするの? 尾田くんに全部任せるわけにもいかないでしょ」
「そっちが落ち着くまで、当分は定点カメラで回しますよ。それに、次の曲の動画撮影までは少し時間がありますから」
俺が事もなげに言うと、智ちゃんは観念したように短く息を吐いた。
「……もう、わかった。私がシンセサイザーを弾きながら、全体を見るよ」
智ちゃんがハトプリの輪に入ると、不安そうだった麻耶たちの表情がパッと明るくなった。
俺は少し離れた場所から、その様子を静かに観察していた。
これで、準備は完全に整った。男子のパンクと、女子の極上ポップス。俺が用意した二つの異物は、確実にこの学校の空気を内側から変えていくだろう。
そして何より、智ちゃんを俺の直接の指揮下からあえて切り離し、自力で音楽を構築させる環境に置いたこと。
それが、彼女の中に眠るメロディメーカーとしての才能を引き出すための、最も確実な手段だった。




