第087話:背水の陣と、化け物の設計図
七月。夏休みまであと一週間と迫った、放課後の山高の軽音部室。
重い防音扉に守られたその空間で、俺はプレシジョンベースのチューニングキーを静かに回していた。
そこへ、今年一緒に入部した摩耶が、所在なげにしている二年生の先輩を連れてやってきた。
「アキラくん。翔子先輩が、ハトクイがなくなってどうするか悩んでるんだって。相談に乗ってくれない?」
翔子。昨年の『クィーン・オブ・ハーツ』で、重厚なベースを弾いていた二年生だ。三年生だった井川京子たちが春に引退して表舞台から姿を消して以来、彼女は部室内で宙に浮いていた。
俺はベースを下ろし、淡々と尋ねた。
「ええ。この半年、どうしてたんですか。てっきり、同じくバンドを失った岡田先輩と組んでいると思っていましたが」
それを聞いた翔子は、少し言いにくそうに視線を泳がせた。
「でも、今までハトクイで女同士でやってたし。岡田くんのドラムとは、少し方向性が違うというか……」
「おいおい、岡田。こんなこと言われてるぞ」
部屋の隅でギターの弦を拭いていた薫が、ニヤニヤしながら声を上げた。
「うるさい!」
ドラムセットの奥でスティックをいじっていた二年生の岡田が、顔を赤くして怒鳴り返す。
俺は小さく息を吐き、現実的な数字を突きつけた。
「でも実際、来年の引退まであと一年もありませんよ。受験への切り替えを考えれば、実質動けるのはあと半年ちょっとです。翔子先輩も、大学に行かれるんですよね」
俺の言葉に、翔子は唇を噛みしめ、まっすぐに俺の目を見た。
「……わたし、去年のTMFのステージで演奏して、音楽の世界に入りたいって本気で思った。だけど、京子先輩たちはそうじゃなかった。それが、なんかくやしかったの。半年でもいい。もう一度思いっきり、自分の音楽を演奏したい」
進学校の生徒が持つドライな現実主義。それをあっさりと受け入れて引退していった井川京子たちに対する、置き去りにされた者のエゴと執着。彼女の中で燻っていた熱は、本物だった。
「……今からでは、今年のTMFの予選には間に合いませんよ、流石に」
「わかってる。来年の大会が目標だから」
翔子は力強く頷いた。
「背水の陣ですね。で、メンバーは決まっているんですか?」
俺が尋ねると、翔子は胸を張り、少しむっとした顔で言った。
「私と摩耶、それからほか三人の女子。……モブみたいな言い方しないでよね」
言われて振り返ると、いつの間にか摩耶の後ろに、おずおずとした様子の一年生女子が三人立っていた。楽器のケースすら持っていない者もいる。完全な素人だ。
俺は彼女たちを順番に観察し、頭の中で冷徹な計算を回し始めた。
元ハトクイの譲れない重低音を持つ翔子。合唱部仕込みの透明な声域を持つ摩耶。そして、何の色にも染まっていない三人の素人。
(……使えるな)
彼女たちを徹底的に鍛え上げ、圧倒的にキャッチーでお行儀の良い「和製ポップス」の皮を被せれば、教師たちを完全に油断させる最高のカモフラージュになる。そしてそのポップスの裏側に、日常の鬱屈を切り裂くようなエイトビートと切ないメロディを仕込めば、同年代の連中の脳をドロドロに溶かす遅効性の劇薬となるのだ。
俺はベースをスタンドに立てかけ、完璧な優等生の笑みを作って彼女たちに向き直った。
「わかりました。俺が最高の設計図を用意します。……半年で、この退屈な学校の生徒全員を、あなたたち五人の音に熱狂させてみせますよ」
翔子たちと新入生が息を呑む中、俺は視線を部屋の奥へと移した。
ドラムセットの横で所在なげに立っていた岡田先輩に声をかける。
「岡田先輩はどうします。先輩もTMF、目指しますか?」
俺の問いに、岡田は少し寂しそうに首を振った。
「いや……俺は、とてもそこまでできないよ。ここに顔を出すのも二年の間だけになるだろうしな」
現実的な判断だ。音楽に未練はあるが、人生を懸けるほどではない。進学校の生徒らしい、堅実な諦めだった。
「では、一年男子三人の指導をお願いします。もちろん、彼らとバンドを組んで。……曲は、僕が提供しますよ」
俺が告げると、部屋の隅でギターを抱えていた薫が目を丸くした。
「おいアキラ……お前、一体何曲持ってんだよ」
かつてスタジオ・ピアニストとして生きた俺の脳内には、この世界から消えた歴史的な名曲が何万曲もアーカイブされている。だが、そんなことを説明するわけにはいかない。
「まあ、たまたまですよ」
俺が冷徹なポーカーフェイスを崩さずに答えると、薫は呆れたように鼻を鳴らした。
俺は再び岡田に向き直る。
「それより岡田先輩。バンドのドラムは、一年生の中から出してください。来年以降の引き継ぎが上手くいくよう、やはりドラムは育てておかないと貴重ですから」
「えっ? 俺、ドラム叩けないの?」
岡田が不満げに声を上げる。彼からすれば、後輩の指導とはいえ自分の本職である楽器を取り上げられるのは想定外だったのだろう。
「後輩のためです」
俺が淡々と告げると、部屋の隅にいた一年生男子三人が、慌てたように岡田の前に進み出て、深く頭を下げた。
「お、お願いします、岡田先輩!」
その必死な姿に、岡田はしばらく渋い顔をしていたが、やがて乱暴に頭を掻きむしった。
「……あー、もう! わかったよ。誰がドラムをやるか、三人で決めろ。俺は厳しいぞ!」
一年生たちが「はい!」と嬉しそうに声を弾ませる。
俺はその光景を見届け、満足げに頷いた。これで、女子五人と男子四人の二つの手駒が完全に機能し始める。
「わかりました。では、月曜日までには二バンド分のスコアを書いておきます。それから練習を始めましょう」
俺が事もなげに言うと、岡田が素っ頓狂な声を上げた。
「おい、月曜日って……三日で書けんのかよ」
「頭の中には、すでにありましたから」
俺が当然のように答えると、ドラムスローンに座っていた博士が、スティックを回しながら呆れたように笑った。
「……ほんと、化け物だな」




