第086話:削除された偶像と、残された爆弾
六月。映画部の尾田から受け取ったマスターデータを俺は古いPCでエンコードし、海の向こうのサーバーへとアップロードした。
曲は『Help!』。国宝・五重塔の前で、俺たちが無表情でプラカードを落とし続ける定点映像だ。今回はシルエットではない。俺たち自身の顔を晒し、映像の隅には明確に『beat less』というクレジットを刻んだ。完全なる宣戦布告だった。
一方、それと同時に、尾田自身の「最高傑作」もネットの海へと放たれていた。
彼が昨年の秋から撮り溜めていた、井川京子率いる『クィーン・オブ・ハーツ』のドキュメンタリー映像だ。幸楽楽器店の店長の了承を取り付け、店の看板をでかでかとフレームに収め、まるで彼女たちがずっとあの店を拠点に練習していたかのように巧みに編集されている。長尺のため、五分ごとに十分割された大作だった。
京子たちはその意味をよく分かっておらず、「尾田くんの思い出作り」程度の認識で気軽にアップロードのOKを出したらしい。
だが、その映像を確認した俺は、自室のPCの前で静かに息を吐いた。
……正直に言って、悔しいがミュージックビデオとしての完成度は、俺の用意した定点映像よりも尾田の作品の方が圧倒的に高かった。井川京子という一人の被写体に向けられた、純粋で常軌を逸した執念。それが、映像のカット割りと情念のシャウトを、奇跡的なバランスで融合させていたのだ。
反響は、文字通り一瞬だった。
すでに世界中で熱を帯び始めている『YouTube』のプラットフォームで、再生回数が一晩で凄まじい勢いで跳ね上がり、国内の巨大な匿名掲示板である2ちゃんねるの音楽板は、完全に「祭り」の状態に陥った。
だが、その熱狂はネットの中だけには留まらなかった。数日後、俺たちの想像を超えるスピードで、現実の壁を越えてきたのだ。
「……アキラくん、薫くん。お願い、助けて」
放課後の山高の軽音部室に、顔面を蒼白にした京子が駆け込んできた。
「どうしたんですか、京子先輩」
「学校の校門の前に……テレビのカメラや、週刊誌の記者が来てるの。もう、怖くて外に出られない……!」
今朝のワイドショーで、昨年の全国大会の映像が全国放送されたらしい。昼休み、クラスの連中が騒いでいた。
「テレビ局が、去年の全国大会で私たちが演奏した時の映像を、ワイドショーの特集で勝手に流したみたいなの。私たちに何の連絡もなく……」
京子が震える声で言う。 異端の音楽を嫌悪していたはずの大人たちが、ネットの熱狂とテレビの数字に負けて、あっさりと彼女たちの平穏な日常を消費コンテンツとして売り飛ばしたのだ。
「お願い、尾田くんがネットに上げてるあのドキュメンタリー映像、消してくれないかな……。テレビを見た人たちがネットで検索してあの映像に辿り着いて、余計に騒ぎが大きくなってるのよ」
京子の悲痛な願いに、その場にいた尾田が悲鳴を上げた。
「そ、そんな! あれは僕の最高傑作だ! 再生数だって、もう何万回も回ってるんだぞ! 消すなんて絶対に嫌だ!」
「……尾田」
アコースティックギターのネックを握りしめていた薫が、氷のような低い声で尾田を睨みつけた。
「京子が『怖い』って言ってんだろ。……さっさと消せ」
「ヒィッ……! わ、わかったよぉ……。今日、家に帰ったら絶対に消すから……」
薫の殺気に満ちた一瞥を受け、尾田は涙声で約束した。
その日の夜、彼は自らの手で最高傑作を海の向こうのサーバーから削除した。 これで、彼女たち『クィーン・オブ・ハーツ』はネットの海から完全に姿を消し、手に入らない「幻の偶像」となった。
一方、俺たち『beat less』の方はといえば。 京子たちへのマスコミの騒ぎが飛び火し、俺たちの『Help!』の再生数もうなぎ上りに跳ね上がっていた。
だが、マスコミが俺たちを直接取材しに来る気配はない。顔を晒してはいるものの、未成年であるという壁と、素性が一切不明であるという不気味さが、テレビ局の手足を縛っているのだ。 2ちゃんねるでも、俺たちの正体を特定しようという動きはまだない。
ただ、一つだけ予想外のノイズが発生していた。
「……ねえ、アキラくん。これ、どういうこと……?」
部室の隅で、昨日俺が保存して持ち込んだネット掲示板のキャッシュを見ていた智ちゃんが、半泣きになりながら俺を睨んできた。 画面に表示されているのは、2ちゃんねるの、ディープな界隈のスレッドだ。
『五重塔の動画のベースの子、可愛すぎだろ』
『無表情でプラカード落としてるの、たまらん』
『あの体格、絶対に小学生か中学生だぞ』
定点カメラの前で淡々とプラカードを落としていた智ちゃんの姿が、妙な方向の嗜好を持つ大人たちの琴線にクリーンヒットしてしまったらしい。
「私、もう高校二年生なのに……小学生って……気持ち悪いよぉ……」
本気で落ち込む智ちゃんを、勝や博士が腹を抱えて笑っている。
「ハハハ! 智子、お前ネットで大人気じゃねえか!」
「笑い事じゃないでしょ!」
俺はPCの画面を閉じ、静かに息を吐いた。
コントロールしきれない熱狂は、常に想定外のものを生み出す。だが、どんな不純な動機であれ、俺たちの姿と音が、この世界の何万という人間の網膜と鼓膜に焼き付けられたことは紛れもない事実だった。
大人の手で消費される前に自ら削除された偶像の代わりに、俺たちの放った劇薬が、完全にネットの海を支配し始めていた。




