第009話:最初の観測者
橘たちと狂乱のセッションを繰り広げた、翌日の昼休み。
自分の席で次の授業の準備をしていると、隣のクラスから木原健がやってきた。
小学校からの腐れ縁で、音楽には欠片も興味がない、この世界の「一般大衆」の象徴のような男だ。
「おい二条。お前、音楽部辞めたんだってな」
「なんだよ。耳が早いな」
「それだけじゃねえよ。なんか、上級生の怖い人となんかやったって聞いたぞ」
「怖い人?」
「あの、髪の毛を前で固めてる……」
「ああ」
橘のことか。
そういえばあいつは昨日、前髪を高く盛り上げた古臭いリーゼントのような髪型をしていた。
「まぁ、そんな怖い人たちじゃないって。昨日会っただけで、なんでそんなに噂になってるんだよ」
俺が淡々と尋ねると、木原は声を潜めて身を乗り出してきた。
「お前が突然『辞める』って言って音楽室を出て行っただろ? その後、先輩の女子が一人、心配してお前の後を追いかけたらしいんだよ。そしたらお前が、不良が屯してる旧校舎の部室に入っていったから、ビビって廊下で立ち聞きしてたらしいんだけど……」
木原はさらに顔を近づけ、声をひそめた。
「その後、その女の先輩、腰を抜かして立てなくなったとか、わけわかんないこと言いながらフラフラになって戻ってきたらしいぜ。不良の溜まり場だろ? なんかヤバい薬とか、変な宗教の儀式でもやってたんじゃないかって、音楽部じゃ噂になってるぞ」
「……腰を抜かした?」
「ああ。怖くてチビりそうにでもなったんじゃねえの?」
木原は、その言葉が持つ本当の意味をまったく理解していない無邪気な顔で笑った。
俺は表情を変えず、内心で思考を回した。
恐怖なんかじゃない。
あそこにいたのは、アンプを限界まで歪ませたギターのノイズと、橘の喉から絞り出されたあの狂乱のシャウトだ。
この「綺麗で上品なだけの音楽」しか知らない世界の人間が、情念を剥き出しにした圧倒的な四拍子の裏打ち(バックビート)の暴力を、無防備に全身で浴びたらどうなるか。
それは、本能の奥底を直接揺さぶられるような、未知の「生理的な衝撃(共鳴)」を引き起こしても不思議ではない。
(……俺の鳴らした音の正体を、そこまで生々しく受信した奴がいたのか)
ただビビって逃げ出したわけではない。
未知の音の暴力に「あてられて」しまった女の先輩。
俺は、この綺麗で退屈な世界にも、本物の音を身体で受け止めてくれる人間がいる事実を、極めて有用なイレギュラーとして冷徹に脳裏へ刻み込んだ。
*
放課後。
俺は木原と別れ、迷わず旧校舎の空き教室へと向かった。
今日も中からは、ジャキッ、ギャーンという粗削りなノイズと、橘の野性的なシャウトが漏れ聞こえてくる。
俺は手前で足を止め、錆びた鉄の扉の隙間にへばりついている小柄な女子生徒の背後に立った。
扉の隙間に耳を押し当て、熱に浮かされたような顔で中の音に聴き入っている、地味な印象の中学二年生。
間違いない。木原が言っていた先輩だ。
胸の名札には「芦田」と書かれている。
「……何してるんですか」
「ひゃあッ!?」
俺が声をかけると、彼女はウサギのように跳ね上がり、真っ赤な顔をして逃げ出そうとした。
「ご、ごめんなさい! 気持ち悪いよね。勝手に聴きに来て……!」
パニックに陥ったように首を振る彼女に、俺は反論もフォローもせず、ただ扉の向こうで鳴っている荒削りなノイズを顎でしゃくった。
「先輩は、この音が好きなんでしょう」
「あ、うん……だって……」
「だって?」
「合唱部みたいな、綺麗なだけの音楽じゃない……聴いてると、頭の中が痺れて、胸の奥が熱くなって……その」
芦田は顔をさらに赤くして、モジモジと身をよじり、内股になった両膝を擦り合わせた。
「お腹の底が、ジンジンして……変な気持ちになって。どうしてももう一度聴きたくて、気づいたらまたここに来てたの……」
彼女自身も、自分が音楽に対して抱いた感情の正体がわからず、本能を暴かれたような激しい羞恥に震えているのだろう。
俺は小さく息を吐いた。
彼女はこの退屈な世界で誰よりも早く、俺たちの放った音の『正体』を身体で理解した。
記念すべき、最初の観測者だ。
「芦田先輩。立ち聞きなんてしなくていいですよ」
俺は躊躇なく、錆びた鉄の扉を押し開けた。
「中に入って、特等席で聴いていってください」
「……ええっ!?」
戸惑う芦田の背中を押し、半ば強引に部室の中へと招き入れる。
彼女がやがて音楽的な素養を爆発させ、俺の五線譜を読み解き、孤高のメロディメーカーへと変貌していくのは、もう少し先の話だ。
今はただ、この新しい音にあてられた初めての観測者を、俺たちの箱庭の『身内』として取り込むだけだ。




