第085話:定点の証明と、四カ国語のSOS
週末。俺は映画部の尾田を、瑠璃光寺の五重塔が見渡せる香山公園の片隅へと呼び出した。
薫、勝、博士、智ちゃんの四人も、それぞれ私服姿で集まっている。
「……アキラくん。本当にこれでいいのかい?」
三脚に固定されたビデオカメラ(MiniDV)のファインダーを覗き込みながら、尾田が不満げに口を尖らせた。
「これじゃあ、僕がカメラを回す意味がない。ズームもパンもなし。ただ録画ボタンを押して、棒立ちの君たちを定点で撮るだけだなんて。映像作品としてのダイナミズムが死んでしまう」
「ダイナミズムなら、音の中に十分入っています」
俺は足元に積み上げた、何十冊ものスケッチブックの束を手に取った。
「尾田さんには、芸術家ではなく『記録係』に徹してもらいます。視点が固定されているからこそ、観る人間の意識は『音』と『文字』だけに強制的に集中させられる。……これは、映像の引き算です」
(……一九六五年にボブ・ディランが『サブタレニアン・ホームシック・ブルース』の映像で披露した、歌詞カードを無表情で次々と路上へ捨てていく古典的な手法。ミュージック・ビデオの原点とも言えるその歴史的なアイデアを、俺はこの退屈な世界を打ち壊すために流用する)
俺はスケッチブックの束を、薫たち四人に振り分けた。
「いいですか。俺を先頭にして、カメラの前に縦一列に並んでください。曲が始まったら、俺がスケッチブックを一枚ずつ、歌い出しのタイミングに合わせて床に落としていきます。俺の束が終わったら、列の最後尾に回る。次は二番目の薫先輩が前に出て、同じように紙を落としていく。そのローテーションです」
「おいおい、なんだそりゃ。俺たちはひたすら無表情で紙をめくるだけか?」
勝がスケッチブックをめくりながら、呆れたように目を丸くした。
「アキラ、これ……。英語の文字の下に、変な言葉がいっぱい書いてあるぞ」
「日本語、フランス語、スペイン語、そして中国語の翻訳です」
俺が淡々と告げると、四人は一様に顔を見合わせた。
「世界中で最も使われている四つの言語です。俺たちが英語で歌い、その意味を多国語の物理的なプラカードとして画面に焼き付ける。……そうすれば、海の向こうのサイトで検索をかけたあらゆる国の連中が、自分たちの母国語で俺たちのメッセージを理解することになる」
曲は、俺たちの内面に巣食う閉塞感を叩きつける、切実なSOS――『Help!』。
「誰も俺たちを知らない世界に向けて、俺たち自身の顔を晒します。笑う必要はありません。ただ、カメラのレンズを真っ直ぐに睨みつけてください」
俺は列の先頭に立ち、一冊目のスケッチブックを胸の前に掲げた。
背後には、伝統と秩序の象徴である五重塔が静かにそびえ立っている。
「回してください、尾田さん」
録画の赤いランプが点灯する。
俺は足元に置いた小さなラジカセの再生ボタンを、足の爪先で押し込んだ。
国宝の静寂な境内に、ラジカセのチープなスピーカーから、シャカシャカとした軽い音質で『Help!』のイントロが漏れ出し始める。
現場で鳴っているのは、紙を落とすタイミングを合わせるためだけの情けないガイド音だ。だが、PCでエンコードされ、世界に配信される完成版の映像には、限界まで音圧を高めた重厚なディストーションと暴力的なバックビートが、この風景を完全に引き裂く形で合成される。
誰かの助けを渇望するような、悲痛で強烈なシャウト。
ラジカセから漏れる薫の歌い出しに合わせて、俺は無表情のまま、一枚目のプラカードを地面に落とした。
『助けてくれ!』
『Au secours!』
『¡Socorro!』
『救命!』
四カ国語の太い黒文字が、次々と画面に現れては足元へ落ちていく。
俺が最後尾に下がると、無精髭を生やした薫が前に出て、獲物を睨むような目でプラカードを落とす。次は勝、そして博士、最後に智ちゃんが、淡々と紙をめくっては列の後ろへ回っていく。
カメラは一切動かない。
日本の美しい国宝を背景に、ただ五人の名もなき若者が、ラジカセのチープな音に乗せて世界中へ向けて「SOS」の札を落とし続ける。
その光景はひどくシュールで、滑稽で、だからこそ、目を逸らすことのできない異様な引力を放っていた。
(……これでいい)
俺は列の後ろに下がりながら、静かに確信した。
これこそが、ネットの海を言語の壁ごと飛び越え、世界を侵食するための最強の劇薬だ。
カメラを睨みつける俺たちの剥き出しの顔が、国境を越え、退屈な音楽史を塗り替えるためのカウントダウンが、今、決定的に始まった。
今晩は、2話投稿です。




