第083話:五十万回の炎上と、顔出しの解禁
二〇〇六年、四月。
俺は真新しい山口高等学校の詰め襟に袖を通し、玄関に立っていた。
「よくやったな、アキラ。この調子で勉学に励み、確かな将来を掴むんだぞ」
出勤前の父・真が、俺の肩を叩いて満足げに頷く。俺は短く「ええ、分かっています」とだけ返し、家を出た。
県内トップの進学校の生徒証。これこそが、大人の干渉を完全にシャットアウトし、自由に音を鳴らすための最も強固な通行証だ。今日から、中学生という不自由な身分に縛られる必要はなくなる。
入学式とホームルームを終えた放課後。
俺が迷わず向かったのは、山高の軽音部室だった。
重い防音扉を開けると、そこには二年生になった薫、勝、博士、そして智ちゃんが、それぞれの楽器を抱えて待ち構えていた。さらに、部屋の隅には見慣れた顔があった。同じく一年生の真新しい制服を着た摩耶だ。図書室での猛勉強を実らせ、見事にこの「防波堤」の内側へと入り込んできたらしい。
「……遅えぞ、新入生」
薫が不敵な笑みを浮かべ、ストラトキャスターの弦を弾く。
「これからは、平日も堂々とここで音が出せるってわけだな」
勝が鼻を鳴らし、博士もスティックを回しながら「早くデカい音出そうぜ」と息巻いている。智ちゃんと摩耶は、嬉しそうに俺の隣の席を空けてくれていた。
俺はパイプ椅子に腰を下ろし、肩から提げていた真新しいハードケースを長机の上に置いた。
留め金を外し、蓋を開ける。
「なんだよそれ。丸っこくて、おもちゃみたいなベースだな」
薫がケースの中身を覗き込んで鼻で笑った。美しい木目と独特の丸みを帯びたボディを持つ、ドイツ製のヘフナー・ヴァイオリンベース。
俺は何も答えず、ベースを取り出してアンプにシールドを繋いだ。ボリュームを上げ、一番太い弦を指で弾き下ろす。
ズゥゥゥン……ッ!
空気を物理的に揺るがす、地を這うような分厚い重低音が部室を震わせた。旧校舎で使っていたボロボロのプレシジョンベースとは次元が違う、圧倒的な密度の音。
「……ッ!」
おもちゃだと笑っていた薫の顔が引きつり、勝と博士も息を呑んで硬直した。
「これが、新しい俺たちの土台です」
俺はベースをスタンドに立てかけ、今度はカバンから分厚い中古のノートPCを取り出した。
「ベースを買うために小遣いを五万円貯めていたんですが、親父が合格祝いとして二十万まるまる出してくれましてね。浮いた五万を使って、通販でこの持ち運び用のPCを落札したんです」
当然、この古い部室にインターネット回線など通っていない。俺は昨夜、自宅の要塞(デスクトップPC)で丸ごと保存してきたウェブページをオフラインで開いた。
画面に表示させたのは、動画共有サイト『YouTube』。一年前、俺が海の向こうのサーバーに撃ち込んだあのシルエット動画のページだ。
「……現在の累計再生回数、五十万回です」
俺が画面の右下の数字を指して告げたが、薫たち四人と摩耶の顔には、明確な戸惑いが浮かんでいた。二〇〇六年の彼らはまだ、ネット上のこの数字が持つ物理的な重さをよく分かっていない。
「ピンときませんか。一人一回見たら百円払うとしたら、五千万円になる数ですよ」
俺が補足するが、薫たちは「ごせんまん……?」と呟き、ますます実感が湧かないという顔をしている。彼らにとって五千万円という大金はあまりに非現実的すぎた。
「山口市の人口の五倍の人が、この一年で俺たちの動画を見てくれたってことです」
俺が言い換えると、彼らは顔を見合わせ、「ううん……わかるような、わからないような」と曖昧に首を傾げた。
「とりあえず、動画はいま異常な勢いで拡散されています」
俺はPCの画面を閉じ、彼らを真っ直ぐに見据えた。
「これから僕らは、YouTubeに顔を出して音を提供します。もうシルエットで隠す必要はありません」
盤面を黒く塗りつぶしたディスクも、顔を隠して五重塔の前で撮影した映像も。それらはすべて、彼らの飢餓感を極限まで高めるための布石だった。
「この地を這う重低音と、先輩たちの音を……この顔で、世界に撃ち込むんです」
俺の言葉を合図に、勝がアンプのスイッチを入れ、博士がペダルを踏み込む。
防音扉の閉まった部室に、重厚なディストーションのノイズが響き渡った。
三年間に及んだ潜伏期間が終わり、退屈な音楽史を直接塗り替えるための戦いが、静かに幕を開けた。
2005年の合併前は 山口市の人口は14万人でした。




