第082話:お下がりの箱と、大いなる投資
二〇〇六年、四月。
二条家のリビングで、中学二年生になった妹のさやが不満げに声を上げていた。
「なんでお兄ちゃんだけパソコンもらえるの! ずるい!」
「お前にはまだ早い。俺は山高の課題で、色々と調べ物が必要なんだよ」
テーブルの上には、父・真が新しく仕事用に買った薄型のノートPCと、これまで家族で共有していた旧型のデスクトップPC(Windows XP機)が並んでいた。
俺が優等生の顔を作って父さんに視線を向けると、父さんは新聞から顔を上げ、厳格に頷いた。
「アキラの言う通りだ。さや、お前はまだリビングのパソコンを使いなさい。アキラは山高での学業を疎かにしないという条件で、その古いパソコンは自室で使っていい」
「えーっ! お父さん甘いよ!」
さやの文句を、父さんは一蹴した。エリート志向の彼にとって、県内トップの進学校に入った息子の学業環境を整えることは、絶対的な優先事項なのだ。
「やったね。ありがとう、父さん」
俺は完璧な笑顔を作りながら、内心で静かに息を吐いた。
これまで家族が寝静まった深夜にリビングへ忍び込み、フリーズの恐怖と戦いながら動画をエンコードしていたあの地獄の作業が、これからは自室で、誰の目も気にせず二四時間回し続けることができる。
動画制作のための専用の要塞が、思いがけない形で手に入った。
その日の午後。俺は父さんと連れ立って、自宅からほど近い中心商店街へと向かった。
向かう先は『幸楽楽器』。山高に上位合格したという「実績」と引き換えに、昨年の秋に交わしたもう一つの約束を、この厳格な父親に果たさせるためだ。
休日の店内は賑わっていたが、アイロンの効いたスラックスを着こなした父さんが放つ県庁エリート特有の「お堅い空気」の前に、高校生たちは無意識に道を譲っていく。
「……いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」
カウンターの奥から出てきた店長は、俺の顔を見るなりギョッとして目を丸くした。
無理もない。あの制御不能な野獣たちを裏で完全にコントロールしている俺の父親が、見るからに生真面目な県庁の役人であるというギャップに、完全に思考が追いついていないのだろう。
「ショーケースの中にある、ヘフナーのヴァイオリンベースを見せてください。ドイツ製のやつです」
俺が淡々と告げると、店長は慌てて鍵の束を取り出し、ガラスケースを開けた。
取り出されたのは、美しい木目と独特の丸みを帯びたボディ。旧校舎の備品倉庫で拾った、あのネックの反ったボロボロのプレシジョンベースとは次元が違う。俺はそれを受け取り、ネックの握り心地と重量のバランスを静かに確かめた。
「……二条くん、これを買うのかい?」
店長が、信じられないものを見るように尋ねる。
「ええ。父が、高校合格の祝いに買ってくれる約束だったので」
俺が無邪気な高校一年生の顔を作って答えると、父さんは値札に書かれた『二十万円』という数字を見て、深々とため息をついた。
「……約束は約束だ」
父さんは財布からクレジットカードを抜き出し、カウンターのトレイに置いた。
「アキラ。お前の本分はあくまで山高での学業であり、確実な将来を築くことだ。音楽で飯が食えるわけがない。こんなものは、ただの息抜きのための道楽だということを忘れるなよ」
怒鳴り声よりも重い、逃げ場のない大人の期待と重圧。
俺はベースをケースにしまいながら、顔いっぱいに弾けるような笑顔を作ってみせた。
「わかってるよ、父さん。本当にありがとう! 勉強も絶対に頑張るから!」
俺は十五歳の少年の無垢な喜びを完璧に演じきり、嬉しそうに新品のハードケースを抱きしめた。息子が健全な息抜きの道具を手に入れ、自分に感謝している。その事実が、県庁エリートの父親としての自負と愛情を満たしたのだ。
横で見ている店長だけが、額に冷や汗を浮かべていた。俺がこの「ただの息抜き」の道具を使い、無邪気な笑顔の裏側で、この退屈な世界の音楽史を本気でひっくり返そうとしている猛毒のプロデューサーであることを、彼は知っているからだ。
「行くぞ、アキラ」
「はい!」
俺はベースを手に提げ、父さんの背中を追って店を出た。
自室に設置された専用の処理装置(PC)と、本物の重低音を鳴らすための真新しい武器。
顔出し解禁の動画を世界に撃ち込むための盤面は、これ以上ない形で俺の手の中に収まっていた。




