【閑話】悪魔の邂逅と、転がる石
二〇〇五年、十一月。東京・渋谷公会堂。
ホールの内側から、ディストーションのノイズと、井川京子の絶叫が漏れてくる。
TMFティーンズ・ミュージック・フェスティバル全国大会。
山口から送り込まれた『クィーン・オブ・ハーツ』が大人の秩序を一瞬で瓦解させ、放送事故寸前のざわめきが扉の向こうで続いている。
相良は一人、人気のないロビーへ出た。
春に高校を卒業し、東京の大学へ進んでいた。夏の提灯まつりで、あのリフを渡された。オープンGに張り直した五本の弦。東京に持ち込んで、いつか誰かの耳に叩き込んでやると思っていた。
だが。
(……俺は、取り残されている)
扉の向こうで熱狂が波打つたび、相良の足の裏が、石の床を伝ってその振動を拾う。
あれをやったのは、山口の、あの連中だ。
* * *
それから数日後。東京、相良の通う大学の中庭。
初冬の風が吹き抜ける中、相良はベンチでアンプに繋いでいないレスポールを膝に乗せ、同じリフを繰り返していた。
ジャッ、ジャッ、ジャジャーッ。
あのリフだ。三つの音しかない。それでも相良の指は、何度弾いても正解に届かない感触の中にいた。
(……俺の声じゃ、綺麗すぎる)
喉から出てくる音には、どうしても育ちのよさが残る。長年「正しい発声」を叩き込まれた体が、この凶暴なリズムの毒を、半分以上、飲み込まずに吐き出してしまう。
「……聞いたことのないリズムだな」
頭上から声が落ちてきた。
顔を上げると、分厚い経済学の洋書を脇に抱えた男が立っていた。同い年くらいだろう。上質なジャケットを着崩し、三白眼と分厚い唇をした男だ。どこにいても浮き上がるような、路地に棲む何かを思わせる立ち方をしていた。
「なんだ、お前」
相良が低く言うと、男はレスポールのボディを指差した。
「最高にルーズだ。……だが、お前のその歌い方じゃ、毒が死んでる。あの曲なら、こうじゃないか」
男は目を細め、裏拍のタイミングで指をパチンと鳴らした。そして、相良の止まったコード進行の上に、声を被せてきた。
「――全・然・足・り・ねぇーーッ!」
ジャッ、ジャッ、ジャジャーッ。
「――全・く・足・り・ねぇーーッ!」
相良の手が止まった。
だみ声だった。声量があって、しかも、何か不穏なものが混じっている。引っ掻くような、なだめるような、それでいて挑発的な色だ。技術でこういう声は出ない。
男はベンチから離れ、分厚い唇を大げさに突き出し、腰を振りながらステップを踏み始めた。足元に転がっていた空き缶を指差し、大仰な身振りで中庭の空気を煽る。
「――ア・ホ・コ・ラ!……オ・イ・コ・ラァッ!」
「――ア・ホ・コ・ラ!……オ・イ・コ・ラァッ!」
カーンッ。
空き缶が、思い切り蹴り飛ばされた。乾いた音が中庭に転がる。
「――空・き・缶・け・る・ぞッ……! no no no……!」
「……ブッ!」
相良の口から、情けない破裂音が漏れた。
笑いだった。腹の底から出てきた、抑えられなかった笑い。名門大学の中庭でアホコラと叫びながら空き缶を蹴る男は、どこからどう見てもただの変質者だ。
だが。
笑いの直後に来たのは、全身の毛穴が逆立つような何かだった。
道化の皮は一枚しかない。その下に、剥き出しのまま居座っているのは、相良が何千時間かけても辿り着けなかった場所だ。格好をつけるほど遠ざかるもの。笑いながら踏み込んでいけるもの。
相良はレスポールのネックを握ったまま、男を見上げていた。
ワンコーラス分が終わった。男は少し息を乱し、それだけだった。
「……お前、その声は。どこで覚えた」
「腹の底で、ずっと鳴ってた音だ」
男は洋書を抱え直し、肩をすくめた。
「周りの連中はお行儀のいい音楽しか聴かない。俺はずっと、頭の芯が痺れるような本物を探してた。……君のそのギター、俺の退屈を紛らわせてくれそうだ」
男は右手を差し出した。
「三國だ。経済学部の一年」
「……相良」
相良は、その手を握り返した。
強い握り方だった。三國の手も、負けていなかった。
握手を終えても、しばらく誰も口を開かなかった。中庭に風が吹いて、空き缶が転がった。
相良は視線を落とし、膝の上のレスポールを見た。
フロントマンの前に立つことは、もうない。それが、今この瞬間に、決まった。
誰よりも重く、誰よりも黒いギターを、この男の隣で鳴らし続けること。
その輪郭が、まだ言葉になる前に、指の感触として来ていた。




