第078話:成績表の取引と、猛勉強の理由
十月。二学期の中間考査の成績表が返却された夜、二条家のリビングには重苦しい空気が漂っていた。
食卓の上に、俺の成績表が乱暴に放り投げられる。
「……どういうことだ、アキラ」
父・真が、腕を組みながら低い声で言った。
「学年十二位。約束の二十位以内は守っているとはいえ、一学期からずいぶんと順位が落ちている。山高の合格圏内とはいえ、この下がり幅は危ういぞ」
当然の結果だった。夏から秋にかけて、山高の上級生たちのチューニングとステージの裏回しに時間を取られすぎたのだ。
机に向かう絶対的な時間が不足していれば、いくら効率化を図っても数字は落ちる。
俺は成績表から目を逸らし、わざとらしく俯いてみせた。
「……ごめんなさい。実は、どうしても欲しいものがあって。そのことばかり考えて、集中できなかったんだ」
「欲しいものだと?」
父の眼光が鋭くなる。
「ベース・ギターです。ドイツ製のモデルで、二十万くらいするんです。……どうしてもそれが欲しくて」
俺が子供らしい、あまりにも直接的な物欲を口にした瞬間、父の顔に明確な失望と怒りが浮かんだ。
音楽を道楽と見なす彼にとって、楽器のために学業を疎かにするなど言語道断だ。
「くだらん。そんな理由で成績を落としたのか。そんなもの、絶対に買い与えんぞ」
「わかってる。このままじゃダメなのも分かってる」
俺は父の怒気を真正面から受け止めず、反省した子供の顔を作って言葉を重ねた。
「だから……自分を強制的に勉強させるために、長州進学塾に通わせてください。僕の時間をすべて、受験勉強に縛り付けたいんです。……そして、もし僕が山高に上位で合格できたら、その時だけは、ベースを買うのを許してほしい」
父は眉間を深く寄せ、沈黙した。
論理と成果を重んじる公務員の彼にとって、息子の愚かな物欲は不快だ。だが、見方を変えればどうだろうか。
『この二十万のベースを報酬(餌)としてぶら下げておけば、こいつは死に物狂いで勉強し、確実に山高合格という最高の結果を手に入れるだろう』
父の瞳の奥で、大人のコントロール欲が計算を弾き出しているのが分かった。
「……いいだろう」
やがて、父は短く息を吐いた。
「お前が自ら塾へ行き、山高に合格し、その制服を手に入れたなら、買ってやろう。その代わり、絶対に結果を出せ。これが最後の猶予だ」
「ありがとう、父さん」
俺は深く頭を下げた。
父は「自分が大人の論理で息子をコントロールした」と満足しているだろう。
だが、俺にとっての本命はベースではない。厳しい親の監視下から抜け出し、夜に一人で自由に動ける「自習室アジト」を確保することこそが最大の目的だった。
子供の愚かな物欲を偽装し、塾の費用を出させた上で、最終的な報酬まで約束させる。
俺は下を向いたまま、誰にも気づかれないように静かに口角を上げた。
* * *
週末。土壁の蔵に集まった薫たち四人に、俺は『長州進学塾』に通うことになったと告げた。
「まあ、この時期にバンド活動はねえよな」
薫がアコースティックギターを爪弾きながら、呆れたように笑う。
「お前は俺たちの頭脳なんだから、しっかり山高に受かってきてもらわねえと困るぜ」
勝と博士も深く頷き、智ちゃんも少しだけ寂しそうに微笑んだ。
(……少しの間、退屈なパズルに専念するとしよう)
塾という不自由と引き換えに、新たなアジトと投資を引き出したのだから、安い取引だ。
* * *
数日後の放課後。図書室の隅で、ふと見慣れた後ろ姿を見つけた。
音楽部の麻耶だ。彼女は机に山積みの参考書を広げ、鬼気迫る表情でノートにペンを走らせている。
俺が山高志望であることを知ってから、彼女は人が変わったように猛勉強を始めていた。
来年、彼女が山高の空気の中でどのような役割を果たすことになるのか。
窓の外の冷たい秋風を感じながら、俺は静かに図書室を後にした。
この回、自分でも収拾つけられていません。ごめんなさい
今日の夜は TMF東京の本戦 閑話と2話投稿です。




