第077話:東京への随行と、限定百枚の偶像
九月半ば。始業式の熱気も落ち着き、秋の風が土壁の蔵を通り抜けていく週末。
今日はいつもの五人に加え、私服姿の井川京子も蔵に顔を出していた。彼女たち『クィーン・オブ・ハーツ』の東京での全国大会は、十一月に控えている。
博士が淹れたぬるい麦茶を飲みながら、俺が機材のメンテナンスをしていた時だった。
「俺、京子たちと一緒にTMFで東京行くわ」
薫が、あぐらをかいた膝の上でギターの弦を弾きながら、唐突に言い放った。
「えっ」
勝、博士、智ちゃんが、綺麗に声を揃えて目を丸くした。
「アンプのチューニング、向こうで誰がやんだよ」
勝が的確なツッコミを入れる。
「たしかに」
博士と智ちゃんが、またしてもハモった。
俺たちが『クィーン・オブ・ハーツ』に仕込んだのは、アンプの回路を焼き切る寸前まで歪ませる重厚なディストーションだ。この退屈な世界の、お行儀の良いクリーントーンしか知らない東京のPA(音響)に、あの極端なセッティングが再現できるはずがない。
「アキラが直接行ってやりゃ確実だけど、こいつは受験生だから山口から動けねえしな」
博士がドラムスティックで俺を指す。
「でも、東京までの交通費はどうすんだよ。音響スタッフって、大会の出場人数に入るのか?」
勝が現実的な問題を口にした。
「映画部の尾田さんに任せたら?」
智ちゃんが提案するが、勝は即座に首を振った。
「絶対ムリだ。あいつは京子先輩を撮るのが目的だから、音の調整なんてできるわけねえだろ」
「じゃあ、幸楽楽器店の店長に……いや、ムリだよな。高校生の旅費をもう一人分出してくれるわけねえし」
博士が頭を掻きむしる。
俺はハンダごてを置いた。
「……店長に、直接交渉してみてください」
俺の言葉に、全員の視線が集まる。
「店長は今、山口から久々に全国へ駒を進めた『クィーン・オブ・ハーツ』を全力で推しているはずです。……ならば、『この音のチューニングは東京の連中には絶対に作れない。最高の状態でステージに立たせたいなら、俺を連れて行け』と迫ればいい」
俺はロジックを順に並べた。
「実際、その通りでしょう。京子先輩、本番のステージで自分でアンプを作れますか?」
話を振られ、京子は少し恥ずかしそうに肩をすくめた。
「わたし、機械のことは全然わかんない。いつもアキラくんや薫くんにやってもらってるから……」
彼女たちのバンドは、エゴを剥き出しにするボーカルの熱量は本物だが、裏側の技術は完全に俺たちに依存している。東京というアウェーの地で、彼女たちだけであの「ノイズ」を再現するのは不可能だ。
「だろうな。……なら、俺が行くしかねえだろ」
薫が立ち上がり、首の骨を鳴らした。
「東京の連中が、俺たちの音を聴いてどんな顔をするか。一番近くで見ておきてえしな」
薫の言葉には、自分たちが鍛え上げた音に対する強い執着と、ほんの少しだけ、京子への庇護欲が混じっていた。
「頼もしいね、薫くん」
京子が嬉しそうに微笑むと、薫は「お、おう」と一瞬だけ言葉を詰まらせ、誤魔化すようにギターのジャックにシールドを乱暴に突っ込んだ。
「……そういうわけだ。来週、店長のところへ乗り込んでくる。アキラ、俺が東京に行ってる間の練習メニュー、作っとけよ」
「ええ。任せてください」
俺はエフェクターの基盤に向き直り、短く頷いた。
* * *
九月の連休。
山口市の中心商店街にある幸楽楽器店の入り口から、数十メートルに及ぶ長蛇の列が伸びていた。
並んでいるのは、大半が高校生の男子だ。彼らの手にはそれぞれ、握りしめられた五百円玉がある。
店の奥のスタッフルーム。
長机の上には、見慣れた真っ白なCD-Rの束が積まれ、私服姿の京子たち『クィーン・オブ・ハーツ』の五人が、無言で一枚一枚の盤面にマジックでサインを書き込んでいた。
その横で、薫が紙幣と硬貨を数えながら、獰猛な笑みを浮かべる。
「すげえな。マジで飛ぶように売れていきやがる」
数日前、薫は店長に「専属のPAスタッフとして自分を東京の全国大会へ連れて行け」と交渉した。
結果は、半分の勝利だった。店長は薫の腕を認め、同行そのものは歓迎した。だが、大会の主催者が正規の出場者でもない高校生スタッフの旅費まで負担するはずがなく、女子五人の引率で手一杯の店長にも、もう一人分の新幹線代を自腹で切る余裕はなかった。
路上ライブの投げ銭のような不確実な方法で、往復の新幹線と宿泊費に相当する数万円を稼ぎ出すのは不可能だ。
だから俺は、もっと確実で冷酷なロジックを組んだ。
初夏に映画部の尾田に撮らせた、国宝・五重塔を背にしたあの矛盾だらけの映像。それを再編集し、極限まで歪ませた音源とともにCD-Rに焼いた『ミュージックビデオ』の作成だ。
原価数十円のディスクに、データと、井川京子という『偶像』の直筆サインという付加価値を乗せる。それを一枚五百円で、限定百枚だけ販売する。
百枚売り切れば、五万円。新幹線の往復でその大半が消え、残りでカプセルホテルに泊まれば、薫の手元にはほとんど何も残らない。だが、足りればいい。
「しかしアキラ、お前もえげつねえ商売考えるよな」
薫が売上金を茶封筒にねじ込みながら、呆れたように鼻を鳴らす。
「需要と供給です。彼らは音楽を買いに来ているんじゃない。ステージの上で手の届かなくなった『アイドル』のサインという優越感を、五百円で買いに来ているだけです」
俺は積まれたディスクの在庫を数えながら答えた。
「店長にとっても悪い話じゃない。これだけ店に若者が集まれば、ついでにピックや弦が売れますからね」
「……ねえ、本当にこんな落書きみたいなサインでいいの?」
手が痛くなったのか、京子が少し疲れた顔でペンを止めて俺を見た。
「ええ。読めないくらいがちょうどいいんです。彼らは中身より、その『特別感』に金を払っているんですから」
俺が冷たい事実を告げると、京子は少しだけ複雑そうな顔をして、再びペンを走らせた。彼女たち自身も、自分たちの姿がこうして熱狂と金に変換されていく現実に戸惑っているのだろう。だが、これが中央のシステムを揺るがすためのコストだ。
最後の一枚が店頭から消えたのは、それから三十分も経たないうちだった。
列の後ろに残された数十人が、抗議とも溜息ともつかない声を上げ、しぶしぶ散っていく。
「よし、完売だ」
薫が手にした茶封筒をポンと叩いた。
「これで俺の旅費と宿泊代はクリアだ」
手に入らなかった連中の落胆が、そのまま次の噂の燃料になる。百枚という数字は、はじめからそのために引いた線だった。
大人の予算や常識など、熱量と少しの計算があればいとも簡単に書き換わる。
薫の東京行きが決まった。
地方の土蔵で生まれた熱が、いよいよ中央のシステムを直接揺るがす日が近づいていた。




