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第074話:五弦のノイズと、転がる石の予感

翌日。


 お茶屋の裏手にある土壁の蔵に、相良はたった一人で足を踏み入れた。


 ギブソンのレスポールが入ったハードケースを提げ、埃っぽい薄暗い室内を値踏みするように見回す。


 そこには俺だけでなく、薫、勝、博士、そして智ちゃんも揃っていた。


「……こんなカビ臭い場所で、あの音を作ってたのか」


 相良が短く鼻を鳴らす。


 その口調には相変わらず見下した響きがあったが、瞳の奥には昨夜から続く焦燥が隠しきれずに滲んでいた。


「一人で来たんですね」


「ああ。あいつらに、俺が頭を下げる姿を見せたくなくてな」


 相良は自嘲気味に息を吐き、レスポールをケースから取り出した。


「……お前らの音を聴いたら、自分が今まで積み上げてきた正確な運指が、ただの空っぽななぞり書きに思えてきた。


 ……俺たちは、どうすればいい」


 プライドの高い秀才が、格下だと思っていた後輩たちの前で答えを求めている。


 彼自身もその事実に苛立っているのだろう。


 ギリッと奥歯を噛む音が聞こえた。


 薫や勝たちは、かつての絶対王者が自分たちに教えを乞う姿を、ただ無言で見つめていた。


 俺は相良に近づき、彼の手からレスポールを受け取った。


 そして、壁際のアンプにシールドを繋ぐ。


「難しく考える必要はありません。


 ただ、あなたの鳴らす音が『お行儀が良すぎた』だけです」


 俺はアンプのつまみに手を伸ばした。


 彼が至上の美としてきた、透明感のあるクリーントーンを作るセッティングを容赦なく崩す。


 中音域を削り、低音と高音を強調する。


 そして、ゲインのつまみを限界まで回して、真空管が飽和サチュレーションを起こす一歩手前まで追い込んだ。


「ギターとアンプの扱いに、ほんの少しの『不真面目さ』を足すだけです。


 ……試しに、このリフを弾いてみてください」


 俺はピックを構え、相良の目を見た。


(かつて別の世界で、キース・リチャーズという男が書き留めた、世界を揺るがす不朽のビート。


 この男なら、その『正しさ』を理解できるはずだ)


 ジャッ、ジャッ、ジャジャーッ。


 俺が弾き出したのは、クラシックの規律から最も遠い、泥臭いブルース・ロックのリフ。


 ――『(I Can't Get No) Satisfaction』。


 たった三つの音階を執拗に繰り返すその歪んだ音は、相良が信奉してきた「複雑で正確なアンサンブル」を否定する、単純で暴力的なエネルギーの塊だった。


 相良の顔色が変わる。


 その音圧に息を呑んだ彼に、俺は数小節だけ弾くと、レスポールを胸に押し付けるように返した。


「あとは、あなた自身で探してください。


 ……この曲の権利は放棄します。


 捨てても、どう使っても構いません。


 ただ、僕の名前は出さないでください」


 相良は、目の前の中学生が放った言葉に唖然としていた。


 自分の生み出した旋律に一切の執着を見せず、ただ『劇薬』だけを置いていく。


 相良はギリッと奥歯を噛むと、憑かれたように俺が弾いたのと同じリフをなぞった。


 ジャッ、ジャッ、ジャジャーッ。


 蔵の土壁に、彼が今まで一度も出したことのない、汚れた重低音が響き渡る。


「……悪くはない。


 ですが、相良さん」


 俺は相良の手元を見つめ、技術的な観点から淡々と言葉を継いだ。


「六本の弦すべてを律儀に鳴らす必要はありません。


 楽器の構造に縛られず、自分にとって都合の良い『ノイズ』を作り出すんです。


 ……たとえば、一番太い六弦なんて、外してしまえばいい」


 相良は目を見開いた。


 完璧な調和を愛する彼にとって、楽器の弦を意図的に減らすなどという行為は、理解の範疇を超えていた。


 だが、彼は一瞬の逡巡の後、まるで何かに取り憑かれたようにペグを回し始めた。


 一番太い六弦を緩めて外し、残りの五本の弦をオープンGチューニングへと変えていく。


「理屈から外れたその響きの中にこそ、あなたが今まで切り捨ててきた本能があるはずです」


 相良が再びピックを振り下ろした。


 ジャッ、ジャッ、ジャジャーッ。


 五弦のオープンチューニングから放たれたリフは、先ほどとは桁違いのルーズなうねりと、理屈抜きの生々しいグルーヴを纏っていた。


 その荒々しい響きを自ら鳴らした相良は、信じられないものを見るように自分の手元を見つめた。


「……なんだ、この音は。


 調和も何もない。


 ただのノイズだ。


 なのに……どうしてこんなに、身体が熱くなる……」


 呆然とする彼に、薫が一歩前へ出た。


「……相良さん」


 薫は、かつての先輩である絶対王者を真っ直ぐに見据え、言い放った。


「高級なギターをお行儀よく鳴らすんじゃねえ。


 自分の腹の底にあるムカつくこと、全部その音に乗せて弦に叩きつけるんだよ」


「……」


「俺たちは、この音楽を『ロック』って呼んでる。


 ……相良さん。


 あんたの鳴らしたその音も、もう立派なロックだぜ」


 薫の言葉に、相良の瞳に生気が宿った。


 俺が与えた技術的解法と、薫が教えた『ロック』という名の概念。


 完璧を求める呪縛を打ち破った彼の中に、決して立ち止まることのない**『転がるローリング・ストーン』**の予感が覚醒したのだ。


 相良は荒い息を吐き、満足げにアンプの電源を落とした。


「……ロック、か。


 なるほどな。


 綺麗すぎる音は、退屈だ」


 彼はレスポールをケースにしまい、留め金を弾いた。


「世話になったな」


 相良はケースを提げ、引き戸を開けて蔵の外に出ようとした。


「相良さん」


 薫が声をかけ、去りゆくかつての先輩の背中を見つめた。


「東京で、派手に暴れてきてくださいよ。


 ……俺たちも、こっちから追いかけますから」


 相良は振り返らなかった。


 だが、その口角が微かに上がり、空いている片手をヒラリと挙げて、夏の夕暮れの中へと歩き去っていった。


 俺たちは秘密基地に残されたまま、東京という中央のシステムを揺さぶるための、最も予測不能な異物の背中を静かに見送っていた。

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