第064話:四つの背景と、欠落の和音
週末。
土壁の蔵には、初夏の蒸し暑い空気がこもっていた。
練習の合間の休憩。
博士の実家であるお茶屋から差し入れられた冷たい麦茶を飲みながら、パイプ椅子に座ったメンバーたちは、他愛のない雑談を交わしていた。
「そういえばアキラ。お前んちの親父さん、かなり厳しいらしいけどよ」
勝がテレキャスターのチューニングをしながら、ふと尋ねてきた。
「前の卒業式の騒ぎの件で、家で怒られなかったのか?」
「ああ。あれは薫先輩に全部引き受けてもらったので、こっちに被害はなかったんですよ」
俺は麦茶の入ったコップを置き、平然と答えた。
そして、向かいに座る薫を見た。
「……学校から連絡がいって、ご自宅で随分怒られたんじゃないですか。すみません」
「……チッ、お前が職員室で『俺に脅迫された』なんて泣き真似したせいだろ」
薫がアコースティックギターの弦を弾きながら、面倒くさそうに吐き捨てた。
「おかげで家に帰ってから、また叔母貴にさんざん説教されて絞られたぜ」
「親じゃなくて、叔母さんなんですか?」
俺が尋ねると、薫は自嘲気味に鼻を鳴らした。
「俺の親父は小さい頃に蒸発してよ。お袋も別の男と暮らしてて、俺は厳しい叔母さんに育てられてるんだ。……だからこうやってデカい音出してる時だけが、あの息苦しい家を忘れられるんだよ」
「お前んち、複雑なんだな」
勝がチューニングの手を止めて言う。
「俺んとこは親父がトラックの運転手でよ。金はねえけど、『やりたいことなら徹底的にやれ』って放任主義だ。親父も昔、ちょっとギターかじってたみたいでさ」
「博士はどうなんですか」
俺が水を向けると、博士はスティックを回しながらカラカラと笑った。
「俺? うちはただの古い茶屋だけどよ。俺、ガキの頃は身体が弱くて、ずっと奥の部屋で寝込んでた時期があってさ。退屈で仕方ねえから、転がってる茶筒や空き箱を菜箸でずっと叩いて遊んでたんだ。それがドラムの始まりかな。今はバカみたいに頑丈だけどな!」
和やかな空気が流れる中、俺は静かに頷き、ベースを膝に置いた智ちゃんへ視線を向けた。
「智ちゃんはどうなんだ?」
智ちゃんは、少しだけ伏し目がちに微笑んだ。
「うちは……お父さんが音楽好きで、家にピアノがあったの。でも、私が中一の時に、お母さんが病気で亡くなって……。今は、お父さんと小学生の妹との三人暮らし。私がしっかりしなきゃって思ってるんだけど……土日だけは、ここでベースを弾くのが私の息抜きなの」
静かな声に、薫たち三人がハッとして押し黙った。
平日、アキラの隣でピアノを聴く摩耶へのジェラシーの裏には、智ちゃん自身が背負っている「家庭でのしっかり者の姉」という逃げ場のない重圧があったのだ。
俺は冷たい麦茶の入ったコップを握りしめ、息を呑んで言葉を失っていた。
かつて読んだビートルズの生い立ちが、彼らの語った背景と、あまりにも残酷な精度で重なっていく。
両親と離れ、厳格なミミ伯母さんに育てられたジョンの孤独。
バス運転手の父を持つ、労働者階級の温かい家庭で育ったジョージ。
幼少期の重い病と、長期間の病床の退屈しのぎから打楽器に出会ったリンゴ。
アマチュアジャズマンの父を持ち、十四歳の時に母を乳がんで亡くし、妹の面倒を見ていたポールの喪失。
……偶然にしては、あまりにも出来すぎている。
まるで『見えざる何者か』が、意図的にこの四人の欠落を揃え、俺の周囲に配置したのではないか。
そんな薄気味悪い想像すら脳裏をよぎる。
だが、彼らは決して操り人形などではない。
彼らの抱える痛いほどの欠落や、生活の泥臭いリアルが、必然的にあの「生々しい音」を彼ら自身から絞り出させているのだ。
高校の軽音部でチヤホヤされて浮かれているように見えても、その根底には決して消えない「生活の渇き」がある。
だからこそ、彼らの音には本物の血が通っている。
「……アキラ? どうした、怖い顔して」
薫が怪訝そうに俺を見る。
俺はコップを置き、エレクトーンの電源を入れた。
「いえ。休憩は終わりです。……もう一曲、鳴らしましょうか。先輩たちの、その溜め込んだ鬱憤を全部吐き出すような音で」
「へっ、上等だ」
土壁の蔵に、再び重厚な不協和音が満ちていく。
彼らが自律した表現者として覚醒するその日まで。
俺は彼らの抱える熱を最も近くで観測し、適切な形へと整える。
プロデューサーとしての静かで冷徹な覚悟が、俺の胸の奥で完全に定まっていた。
今日のよるは、2話投稿です。




