第063話:月光の疎外感と、土日の居場所
六月。白いディスクの完全版が投下されてから、山高の空気は確実に変質していた。
映像のモデルとなった井川京子は、熱狂を媒介する『浸食のアイコン』として校内で神格化されていた。今や彼女が廊下を歩けば、その姿に魅入られた女子生徒たちがぞろぞろと後ろを引き連れて歩くほどの、異常な人気ぶりだ。当然、薫や勝たちも、上級生の女子たちから熱烈なアプローチを受けるようになっていた。
「……なんか、みんなどこか遠くに行っちゃったみたい」
放課後の下駄箱で、芦田智子は一人、小さくため息をついた。
高校生としての華やかな青春。それは同年代の少女として羨ましくもあり、同時に、あの土壁の蔵で五人だけで音を鳴らしていた秘密の時間が、少しずつ薄れていってしまうような微かな寂しさがあった。
智子はふと、自転車のペダルをいつもの帰路とは違う方向へと向けた。
向かった先は、三月に卒業したばかりの第一中学校。
(……敬子先生に、高校の近況を報告するだけ。別に、アキラくんに会いたいわけじゃないし)
胸の内で言い訳をしながら、懐かしい校門をくぐる。
本校舎の廊下を歩いていた時だった。音楽室の方から、ピアノの音が聴こえてきた。
智子の足が止まる。それは、いつものアキラが弾く暴力的なロックのコードではない。
静かで、夜の湖のようなピアノの音色。
それは今、この場にいる三人――弾き手のアキラ、聴き入る摩耶、そして盗み見る智子――しか聴いたことのない、ベートーヴェンの『月光』の調べであった。
智子は音を立てないように近づき、少しだけ開いた引き戸の隙間から中を覗き込んだ。
グランドピアノの前に、アキラが座っていた。
そして、そのすぐ傍らの丸椅子に、合唱部の摩耶が座っていた。
絶え間なく続く繊細な音の波が、暗い水底を這うような重低音と重なり、悲痛なほど美しいメロディを浮かび上がらせている。無駄を削ぎ落とした一音一音が、静寂の中に鋭い輪郭を持って響き渡っていた。
まるで二人の間には誰も入り込めないような、親密で静かな空気が流れていた。
タ・タ・タ・ターン……。
胸の奥が、ギリッと締め付けられた。
智子は、声をかけることができず、引き戸の隙間からそっと手を離した。
同じ一中生である摩耶は、平日の放課後、いつでもあんな風にアキラのすぐそばにいられるのだ。高校生になってしまった自分には、それが許されない。アキラに会えるのは、土日の埃っぽい蔵の中だけ。
(……私だけ、置いてけぼりだ)
智子は唇を噛みしめ、音を立てないように踵を返した。
だが、校門へ向かう彼女の歩みは、逃げるような小走りから、次第に力強いものへと変わっていった。
平日、ピアノを弾くアキラの隣にはいられないかもしれない。
けれど、土日の蔵で彼がベースを置き、ロックの鍵盤を叩く時、その分厚い重低音を底辺で支えてやれるのは、自分しかいないのだ。
代役ではない。本物のベーシストとして、土日の自分の居場所だけは絶対に誰にも譲らない。
智子の瞳に、かすかな嫉妬と、それを上回る静かな覚悟が宿っていた。




