第062話:全校生徒の人質と、崩壊する完璧
放課後の土壁の蔵。
先週末に録音した無圧縮(WAV)の生データを追加し、シリアルナンバーを打った『完全版』の白いディスク。それが今日、月曜日の朝から井川たち女子のネットワークを通じて山高内に放たれていた。
「なぁ、アキラ」
アコースティックギターを爪弾いていた薫が、ふと手を止めて尋ねた。
「そもそもなんで、わざわざ山高の野郎どもに罠を踏ませる必要があるんだ? もうYouTubeってネットの箱にぶち込んだんだから、それで世界に見つかるのを待てばいいじゃねえか」
勝と博士も、頷きながら俺を見る。
俺は半田ごてを置き、静かに口を開いた。
「来年の全面戦争に向けて、進学校の連中全員を人質にとるんです」
「人質?」
「ええ。来年、俺たちは顔出しを解禁して表舞台に出ます。その時、学校の教師たちは風紀を乱すと言って全力で俺たちを潰しに来るでしょう。だが、山高の優等生生徒たちの大多数が、すでに裏で俺たちの音の熱狂的な共犯者になっていれば、学校側は容易に手を出せなくなる。学校全体を内側からハックするための下準備です」
俺は傍らの白いディスクを指先で弾いた。
「それに、大人の用意した正解にどっぷり浸かった無菌室の優等生たちにこそ、この剥き出しの感情はどんな不良に聴かせるよりも深く、致命的に突き刺さる。それが劇薬になるんです」
「なるほどな。優等生様ほど、一度タガが外れたらヤバいってことか」
勝がニヤリと笑う。
「それに、YouTubeはまだ誰も気づいていない空箱です。そこに動画を置いただけでは自然発火しない。まずはリアルの閉鎖空間で異常な熱狂を引き起こし、その飢餓感が限界に達した連中がネットへ波及していく。そのアナログな熱が、世界的な爆発の起爆剤になる計算です」
俺が淡々とロジックを並べると、薫は呆れたように息を吐き、そして獰猛な笑みを浮かべた。
「……えげつねえな。だが、最高だ。そいつらが俺たちの音にひれ伏すのが楽しみだぜ」
*
同じ頃。山高とは別の、不良が多く通う高校の薄暗い部室。
かつて県内最強の高校生バンド『スカイ・ハイ』を率いていた相良は、一人でギターの運指練習を続けていた。
「相良さん、ちょっとこれ見てくださいよ」
取り巻きの不良の一人が、一枚のディスクを片手に部室へ入ってきた。
盤面にはタイトルもなく、薄いグレーのインクで『No.042』というシリアルナンバーだけが打たれている。
「なんだそれは」
「山高の連中の間で、最近こっそり回ってる気味の悪いディスクらしいっす。優等生様たちが何に熱狂してるのかと思って、ツテを使ってパクってきました」
相良はそれを、忌々しげに見つめた。
「……また、あいつらか」
相良は、冬に高校生たちの間で出回った『真っ黒なディスク』をすでに聴いていた。
そこに収められていた暴力的なノイズとシャウトは、一昨年の夏、福岡のイムズホールで自分たちを粉砕した無名の中学生どものものだと、相良は一聴して気づいていたのだ。
あの理屈抜きの爆音の前に、彼が何千時間もかけて磨き上げた「寸分の狂いもない正解」は呆気なく粉砕された。
以来、バンドのアンサンブルは崩壊し、『スカイ・ハイ』は実質的な解散状態にあった。
それでも相良は、楽譜通りの完璧な速度と正確さだけを信じてギターを弾き続けていた。それだけが、彼を支える唯一の壁だったからだ。
「……よこせ」
相良は半ば苛立ちながら、その白いディスクを取り上げ、部室のPCのドライブに押し込んだ。
モニターに映し出されたのは、国宝・五重塔を背景にした矛盾に満ちた映像。そして、耳をつんざくような凶悪なノイズだった。
さらに続くのは、冬に出回っていたのと同じ、あの中学生どもが放つ圧縮音源の数々。
相良の顔が強張る。あの時の福岡のステージの記憶が、まざまざとフラッシュバックする。
だが、彼を本当に打ちのめしたのは、最後のトラックだった。
ノイズが消え、アコースティックギターの不器用な響きが始まる。そして、一切の装飾を削ぎ落とした生々しい声が鼓膜を打った。
『どれも、今の君には敵わない』
たった一人の女に向けられた、剥き出しの個人的な感情。
相良は息を呑んだ。
一切圧縮されていないWAVデータは、指が弦を擦る摩擦音や、息継ぎの生々しいノイズ、そして不器用な恋心という「空間の熱」までをも克明に定着させていた。
それは、相良が汚れとして忌避してきた「個人の情念」そのものだった。
楽譜のどこにも書かれていない。メトロノームで測ることもできない。だが、そこには圧倒的な引力を持った音楽が存在していた。
相良の震える手が、思わずマウスから滑り落ちる。
彼がこれまで心血を注ぎ、自らを閉じ込めてきた「楽譜という名の檻」が、一切の音を立てずに完全に崩れ去っていくのを、彼はただ為す術もなく見つめることしかできなかった。




