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第061話:無圧縮の息遣いと、たった一人のための歌

週末。

土壁の蔵に、散布の状況を報告しに来た井川を交え、俺たちは集まっていた。


「女子はみんな、すごい顔して白いディスクの噂をしてるよ。男子も何が回ってるのか知りたくて、必死に探りを入れてきてる。大成功だね」


井川が嬉しそうに笑うと、薫は照れ隠しのように鼻を擦り、自分のアコースティックギターを手に取った。


俺はPCに向かい、来週投下する「完全版」の最後のトラック――一ビットも削らない無圧縮(WAV)で叩き込むための、凶悪な重低音を活かした新曲のセッティングを進めていた。


だが、不意に背後から聴こえてきたメロディに、俺はマウスを操作する手を止めた。


タタ・タ・タ・タ・ターン……。


薫が不器用に、しかし確かな意思を持って爪弾いていたのは、俺が教えた曲ではない。


以前、俺が蔵で手慰みに弾いたバロック調のピアノのコード進行。

それを彼が勝手に拾い上げ、自分の感情を乗せるための「器」としてギターで再構築したものだった。


薫は弦を弾きながら、パイプ椅子に座る井川を真っ直ぐに見つめていた。


「……今まで、色んな場所や奴らを見てきたけどよ」


ポツリと、語りかけるように薫が歌い出す。


「どれも、今の君には敵わない」


「……ストップです、薫先輩」


俺は口を挟み、PCの操作の手を止めてエレクトーンの前に移動した。


「あ? なんだよ、せっかくいい気分で弾いてたのに」


(……なんだ、今のメロディは)


俺はエレクトーンの前に立ち、内心で息を呑んでいた。


不器用な手つきから紡ぎ出されたのは、ただの思いつきの鼻歌ではない。

普遍的な美しさと、胸を締め付けるような哀愁を帯びた完璧な旋律。


この野性的な不良の奥底に、これほど叙情的なメロディを自力で引き寄せる才能が眠っていたというのか。


俺は湧き上がる驚愕をポーカーフェイスの奥に押し込み、冷徹なプロデューサーの顔で鍵盤に指を置いた。


タタ・タ・タ・タ・ターン……。


薫が爪弾いていたメロディを、俺はエレクトーンの静かなピアノ音色で引き継ぎ、そのまま洗練されたコード進行へと紡ぎ出していく。


「悪くはありませんが、そのままではただのありふれた恋歌で終わってしまいます」


俺はメロディを奏でながら、淡々と告げた。


「先輩が今まで見てきた退屈な景色、つるんでいた不良仲間、消えていった奴ら。……そういった『過去の記憶』を、前半に全部並べてください」


「過去の記憶?」


「ええ。思い出をすべて並べ立ててから、最後に『それでも、今の君には敵わない』と突き落とすんです。落差が、その想いを一番鋭くする。……間奏は、このまま俺がピアノで入ります」


薫は少しの間ぽかんとしていたが、やがて獰猛な笑みを浮かべた。


「…お前、相変わらずわかんねぇ奴だな。だが、悪くねえ」


薫は再びアコースティックギターの弦を弾き始めた。


俺が弾くピアノのメロディに乗せ、低い声でぽつりぽつりと過去の記憶を並べるように歌い出す。

それは合唱曲にあるような「世界への博愛」ではない。たった一人の女に向けられた、剥き出しの個人的な感情だった。


「――どれも、今の君には敵わない」


不器用だが、真っ直ぐな最後の一節。


それを真正面から歌われた井川は小さく息を呑み、顔を真っ赤に染めて薫をじっと見つめていた。

勝や博士も、からかうことすら忘れてその生々しい声に聴き入っている。


(……『In My Life』)


俺は脳内で、ジョン・レノンが残した名曲のタイトルを呟きながら、間奏にバロック調のピアノソロを完璧なタイミングで滑り込ませた。


部屋の隅では、休んでいた尾田が何かに突き動かされるようにカメラを構え、ファインダーを真っ直ぐに薫へ向けている。


俺は瞬時に、頭の中の設計図を書き換えた。

片手で鍵盤を弾きながら、もう片方の手でPCの非圧縮(WAV)の録音ボタンをクリックする。


「……尾田さん、カメラを止めないでください。予定変更です。最後のトラックは、この一切圧縮しない息遣いを合わせた曲にします。尾田さんも、ドキュメンタリー映像にしてください」


五重塔の前で作られた「狂乱の映像」の噂に飢えきった彼らが、来週配られる「完全版」の最後に隠されたファイルを開いたとき。

そこにはノイズも狂気もない。ただ、一人の男がたった一人の女のために不器用に歌う、剥き出しの姿があるだけだ。


だが、一切のデータを削らない無圧縮の音声は、指が弦を擦るかすかな摩擦音や、不器用な恋心という「空間の熱」までをも克明に定着させる。

その生々しさこそが、この客観的で退屈な世界に叩きつける、どんな爆音よりも強烈な異物になる。


土壁の蔵の中に、アコースティックギターの柔らかな響きと、バロック調のピアノ、そしてカメラの駆動音だけが満ちていく。


真っ白なディスクを真の『ホワイト・アルバム』として完成させるための最後のトラックが、彼ら自身の力によって記録媒体へと刻み込まれていった。

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