第006話:四拍子の反逆
入学式から数日後。俺は音楽部――実質的な合唱部へと仮入部した。
まずはこの世界の音楽の「現場」を内側から観察するためだったが、そこはひどく退屈な空間だった。
「はい、ストップ。二条くん、そこはもっと優しく。波風を立てないように、周囲と綺麗に調和させて歌ってください」
顧問の女性教師が、指揮棒で譜面台を叩きながら俺に注意する。
歌わされているのは、毒にも薬にもならない合唱曲だ。指揮者の要求は常に一つ。不協和音を排除し、感情を交えず、楽譜通りにただ「美しく」声を重ねること。喉の奥から絞り出すような情念も、魂をぶつけ合うような闘争も、そこには一切存在しなかった。
俺は配られたプリントの楽譜を静かに見つめた。
この世界の音楽は、ただの「綺麗な調度品」だ。決められた美しい音符を、決められた通りになぞるだけの作業。
(……時間の無駄だな)
俺が鳴らしたいのは、こんな去勢された音楽ではない。
「すいません。やっぱり辞めます」
俺は楽譜を譜面台に置き、呆然とする顧問や部員たちを背に、さっさと音楽室を後にした。
仮入部してからの数日間、俺はずっと思考を回していた。
俺一人でピアノを弾き狂っても、この平坦な世界は変わらない。かといって、中学生の身分と資金でフルオーケストラを動かし、ルートヴィヒの情念を叩きつけることも物理的に不可能だ。
この強固に完成された「行儀の良い正解」を打ち壊すには、複雑な音楽理論で対抗しても無菌室に飲み込まれるだけだ。もっと原始的で、理屈をすっ飛ばして人間の本能に直接訴えかける『毒』が必要になる。
あらゆる選択肢を計算し尽くし、俺が一つの結論に辿り着いたのは、ちょうど音楽部に見切りをつけ、廊下を歩いていた今の時点だった。
――四拍子の裏打ち(バックビート)の快感だけで世界を席巻した、あのロックンロールだ。
その時だった。
旧校舎の最果てにある空き教室の方から、ひどい「騒音」が聞こえてきた。
ジャキッ、ギャーン、というエレキギターの不快なノイズ。そして、ドタバタとリズムの狂った乱暴なドラムの音。
徹底的に「調和」と「美」を重んじるこの学校において、それは明らかな異端だった。教師たちからは忌み嫌われ、近づくことすら禁じられている吹き溜まり。だが、俺の足はその騒音に向かって自然と動いていた。
錆びた鉄の扉を押し開ける。
埃っぽい教室の中にいたのは、制服を着崩した三人の中学生だった。
生意気な目でギターをかき鳴らす不良。
適当にギターを弾いている大柄な男。
傷だらけのスティックで、苛立ちをぶつけるようにドラムを叩きまくる少年。
部屋の隅には、埃まみれの古いアップライトピアノが放置されている。彼らは曲すら演奏していなかった。ただ、既存の上品な音楽に適合できない鬱憤と破壊衝動を、楽器というモノにぶつけているだけだ。
「あ? なんだお前、見ねえ顔だな。優等生は音楽室に帰れよ」
ギターの不良が手を止め、俺を威嚇するように睨みつける。普通なら怯えて逃げ出すか、反発して胸ぐらを掴まれる場面だ。
だが、俺は表情を崩さず、小さく拍手を送った。
「いい音出してますね、先輩たち」
「……はあ?」
予想外の反応に、不良たちは毒気を抜かれたように顔を見合わせた。俺はそのままギターの不良に歩み寄った。
「俺、一年生の二条アキラです。先輩、そのギター、もっと良い音が出るって知ってますか。ちょっとだけ貸してください」
「おい、勝手に触んじゃ――」
戸惑う彼から半ば強引にエレキギターを受け取る。真新しい十二歳の身体にはひどく大きくて重いが、現場でトップギタリストたちの運指は嫌というほど見てきた。左手の親指をネックの上から回し込み、太い低音弦をハングするようにホールドする。
俺は背後にあるマーシャルのアンプに手を伸ばし、この世界の人間が「ノイズ」として絶対に触らない『VOLUME』と『GAIN』、そして高音域を切り裂く『TREBLE』のツマミを、限界まで回し切った。
「なっ……お前、そんなに上げたら音が割れ――」
不良が慌てて止めるより早く、俺はマイクスタンドに向かって叫んだ。
「One, two, three, FOUR!」
カウントと共に、ピックを握る右腕を鋭く振り下ろす。
ギャアアアン!!
真空管が飽和し、アンプのキャビネットが物理的に細かく震える。かつてないほど凶暴に「歪み(ディストーション)」を含んだスクエア波のノイズが、空き教室の窓ガラスを激しく叩いた。この世界が忌み嫌ってきた、牙を剥き出しにした音。
俺はその騒音の中に強烈な四拍子の裏打ち(バックビート)を乗せ、ひとつの曲を弾き始めた。
かつて世界を制覇した、あのイギリスの四人組のデビューアルバムの、一曲目を飾る疾走感に溢れたナンバーだ。
1弦から6弦までを均等に鳴らすクラシックの和音ではない。俺は左手の中指と薬指で、ブルースの骨格であるセブンスのコードを押さえ込み、右手の手掌(手のひら)の肉厚な部分をブリッジの根元に軽く押し当てた。
――ブリッジミュート。
ズクズクズクズク、と重く歯切れの良い金属の駆動音が、マーシャルの歪みによって獰猛な質量を帯びていく。12歳の細い指先には弦の張力が重くのしかかるが、前世の現場で網膜に焼き付けたプロのストロークを、脳からの神経伝達だけで完全にトレースしていく。ダウンピッキングを執拗に連続させ、偶数拍にだけ、叩きつけるようなアクセントを刻み込む。
十七歳の少女の視線を歌い上げる英語のフレーズ。荒削りなギターリフに合わせて、俺はマイクに向かって歌い出した。
――その瞬間、ぞくりと背筋に冷たいものが走った。驚愕したのは、不良たちではなく俺自身だ。
(……なんだこれは)
俺は彼らの熱狂的なファンではない。仕事の現場でコード進行を分析したことはあっても、英語の歌詞カードを熱心に読み込んだ記憶など一度もなかった。
それなのに今、俺の喉は一言一句間違えることなく、ネイティブのような英語の歌詞を完璧に紡ぎ出している。頭の中に、ボーカルのメロディラインから、うねるようにローポジションを這うベースライン、ハイハットの強烈な裏打ちの刻み方まで、すべてのスコアが鮮明な解像度で張り付いているのだ。
長年、ただひたすらに音楽だけと向き合い、他人のメロディを譜面に書き起こしてきた時間。
もしかして俺の脳には、これまで耳を通過してきたすべての音楽が、完全なデータのまま保存されているのか。俺自身が、旧世界の音楽の「アーカイブ」そのものになっているというのか。
「…………ッ」
三人とも、息を呑んで立ち尽くしていた。
彼らがただの不快なノイズだと思っていた音が、正確なミュートと強烈なアクセントによって、明確な「意思」を持った音楽――ロックンロールへと姿を変えた瞬間の、圧倒的な衝撃。彼らの行き場のない鬱憤が、俺の鳴らすコードの重力によって完全に肯定され、解放されていた。
ワンコーラスを歌い終え、俺は右手で全ての弦を強引に押さえ込み、意図的に完全な静寂を作った。
耳鳴りのする部屋の中で、呆然と立ち尽くす三人。
沈黙を破ったのは、俺にギターを奪われた不良――橘だった。
「……今の、誰の曲だ。聴いたことがないぞ」
「俺が作った曲です」
俺はしれっと嘘をついた。この世界では俺のオリジナルで通すしかない。
「まじかよ。お前、どこでバンドしてんの? この辺じゃ聞いたことないけど……あ、ごめん。俺、橘薫」
「俺は斎藤勝」
「俺、梶井博士だ」
毒気を抜かれたように、三人が次々と名乗る。俺は短く頷いた。
「アキラ、お前1年だよな。ひとつ下でこんなバンドやってる奴がいたら、絶対知ってそうだがな。転校生か?」
「いえ。今まではずっと、クラシックピアノをやっていたので」
「げっ、お坊っちゃんかよ」
斎藤が顔をしかめて悪態をつく。徹底して『上品で美しい音楽』を押し付けられてきた彼らにとって、クラシックは反発の対象でしかないのだろう。
だが、橘はそんなことには構わず、身を乗り出してきた。
「だけど、さっきみたいな曲、他にもあんの?」
俺はどうしたものかと考えた。俺の脳内には、途方もない数の設計図が完全な状態で眠っている。だが、安売りはしない。
「……その前に。先輩たちは、さっきの曲をどう思いました」
試すように尋ねると、橘は自分の腹のあたりをさすりながら、熱に浮かされたような声を出した。
「なんか……聴いたこともない音楽だけど、腹が熱くなったんだ。これ、俺もやってみたい。こんな騒音みたいなこと、していいのかって思ったけど……思い切り弾き鳴らしたい」
「えっ、腹? 普通そういうの、胸じゃねえの。腹減ってんのかよ」
斎藤の茶々入れに、橘が鋭く睨み返す。
「うるぜえな、お前はどうなんだよ」
「俺は胸に来たぜ。……いや、違うな。頭だ。いきなり頭を鈍器で殴られた感じだ」
斎藤は、自分の頭をガシガシと掻きながらそう言った。
俺は彼らの反応に内心で舌を巻いた。
直感的で野性的な橘は「腹」で衝動を受け止め、理屈っぽく職人気質な斎藤は「頭」で、さっきのブリッジミュートやアクセントがもたらす音楽的構造の異質さを理解した。見事に役割が分かれている。
「梶井先輩は?」
「俺? 俺はもう、あのズクズク鳴ってる音に合わせて、勝手に腕が動いちゃいそうでヤバい!」
ドラムスティックを握りしめた梶井が、目を輝かせて笑う。
上出来だ。この三人の未完成な才能があれば、俺の脳内に眠る無数の劇薬を、この世界にばら撒ける。
俺はギターを橘に返し、ただの一年生の顔をして彼らに手を差し出した。
「俺に、先輩たちのバンドを少しだけ手伝わせてもらえませんか」
これが、後にこの退屈な世界を根底から塗り替えることになるバンド『beat less』の、静かで打算的な始動だった。
本日より、しばらくの間「10:00」と「19:00」の1日2回投稿を行います。
これは読者の皆様の反応を観測し、物語の熱量を最大化するための実験でもあります。この「音楽の革命」がどのように世界を塗り替えていくのか。その行く末をリアルタイムで観測したい方は、ぜひブックマークでの参加をお願いいたします。




