第005話:四月の空虚
二〇〇三年、四月八日。
鏡の前に立つ俺は、真新しい中学校の制服に身を包んでいた。
まだ肩幅が狭く、制服に着られているような十二歳の子供の姿がそこにある。
俺はクローゼットの奥に隠した『新ベートーヴェン全集』を一瞥し、手ぶらのまま部屋を出た。
「アキラ、早くしなさい! 入学式に遅れるわよ」
一階から母・由紀子の声が響く。
リビングへ降りると、父・真がネクタイを締め直しながら、厳格な面持ちで俺を待っていた。
「いいかアキラ、中学校は義務教育だが、ここでの成績が高校進学、ひいては将来のキャリアを決める。音楽もいいが、まずは学業だ」
俺は表情を動かさず、「はい、分かっています」とだけ短く返した。
真面目に反論するだけ無駄だ。
大人の小言は、従順な返事と結果(数字)で黙らせるのが一番効率がいい。
校門をくぐると、色褪せたピンク色の桜が舞っていた。
周囲の新入生たちが新しい生活への期待と緊張で顔を上気させる中、小学校からの腐れ縁である木原健が「おい二条! クラス同じだったな」と背中を叩いてきた。
俺は適当な生返事でやり過ごし、全神経を別の場所へ向けていた。
体育館へ向かう渡り廊下。
掲示板に貼られた音楽部の勧誘ポスターの前で、俺は足を止めた。
そこにあるべき「しかめっ面の楽聖」の姿はない。
代わりに、知らない宮廷服を着た優男が、柔和な笑みを浮かべていた。
隣に記された入部希望者向けの演奏予定曲には、『庭園のセレナーデ』『春の小川に寄せて』といった、毒にも薬にもならないタイトルが並んでいる。
音楽は個人の情念を叫ぶ手段にはならず、「上品な調度品」の段階で完全に成長を止めている。
それが、この世界の絶対的なルールらしい。
やがて式典が始まり、吹奏楽部による新入生の入場曲が体育館に響き渡った。
ハイドンの模倣のような、あまりに完璧で、そしてひどく退屈な行進曲だった。
不協和音を力技でねじ伏せるような危うさもない。
裏拍で突っ込んでくるような生命の鼓動も存在しない。
ただ整然とした綺麗なだけの和音が、体育館の高い天井へと虚しく吸い込まれていく。
最前列のパイプ椅子に深く腰掛けながら、俺は静かに息を吐いた。
この世界の音楽は、死んではいない。
ただ、深い眠りについているだけだ。
この平坦で薄っぺらな空気に、どうやって俺の知る「最強の重力」を叩き込んでやるか。
俺は式典の進行を完全に無視し、膝の上で静かに指を動かしながら、これから始める途方もない作業の工程だけを淡々と計算していた。
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