第037話:将来への足場と、英語の旋律
十一月下旬。
文化祭の熱狂も遠ざかり、旧校舎の備品倉庫には持ち込んだ石油ストーブの匂いが漂っていた。
大人の目を上手くやり過ごし、俺たちは放課後の完全な自由を手に入れた。
だが、プロのプロデューサーとして、俺の視線はすでに目前のライブではなく、数年先のステージへと向いていた。
「……改めて確認しますが。先輩たちの成績、一学期の期末テストでは学年九十人中、見事に八十番台に密集していましたね」
俺が冷ややかな声で告げると、ストーブにあたっていた薫、勝、博士の三人は気まずそうに目を逸らした。
「二学期の中間は俺のヤマ当てで赤点こそ回避させましたが、根本的な学力は底辺のままです。これでは非常に困るんです」
「別にいいじゃねえか。ロックに勉強なんか関係ねえよ」
薫が口を尖らせるが、俺は手元の五線譜から顔を上げずに言い放った。
「大いに関係あります。俺は再来年、山口高等学校へ進学します」
県内トップクラスの進学校。
その名前に、三人は「はあ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「俺たちの音楽を大人の干渉から完全に守るためには、優等生という最強の盾が必要です。……そして、先輩たちにも俺と同じ高校へ来てもらいます。高校進学でバンドがバラバラになるなんて、素人みたいな真似は許しませんよ」
「山高!? 無理に決まってんだろ! 俺たちの頭で行けるわけが……」
勝が抗議の声を上げた瞬間、錆びた鉄の扉がギイと音を立てて開いた。
「アキラくん、呼ばれたから来ちゃった。私たちでいいの?」
顔を出したのは、音楽部の麻耶、ゆい、瑠璃の三人だった。
文化祭でコーラスを務め、今やすっかり俺たちの「共犯者」となった彼女たちは、それぞれ教科書やノートを抱えている。
「ええ。今日から放課後は、彼女たちも交えての合同勉強会にします」
俺が淡々と告げると、先ほどまで猛反発していた野郎三人はピタリと口を閉じ、そわそわと姿勢を正してノートを開き始めた。
手慣れた操縦術だ。智ちゃんが呆れたようにため息をついている。
「いいですか、先輩たち。まずは効率よく点を取る戦術から教えます」
俺は黒板の前に立ち、チョークを鳴らした。
「国語の読解問題は捨ててください。あれはセンスです。一朝一夕には身につきません。その代わり、漢字は必死に丸暗記して確実に点を取ること。社会と理科も同様です。麻耶さんたちと一緒に、ひたすら用語を暗記してください」
「英語はどうすんだよ。単語の羅列とか、見てるだけで眠くなるぜ」
博士がペン回しをしながら文句を言う。
俺は鞄の中から、自作のプリントを取り出して全員に配った。
そこに書かれているのは、教科書の退屈な長文ではない。
「英語は、これで覚えます」
プリントに並んでいたのは、『Help!』や『All You Need Is Love』をはじめとする、彼ら自身がいつも演奏している曲の英語詞だった。
「『Help me if you can』……。いいですか、英語の文法も単語も、ただの暗号だと思えばいい。意味を持たない音の塊として、メロディの構造と一緒に頭に叩き込むんです。助動詞の使い方も、関係代名詞も、すべてこの歌詞の中に生きた形で入っています」
俺は傍らのギターを手に取り、軽くコードを鳴らした。
「単語帳なんて見なくていい。ただ俺のギターに合わせて、この歌詞の意味を理解しながら歌ってください」
最初は戸惑っていた薫たちだったが、弾き慣れたリズムとメロディが重なると、自然と声が出始めた。
麻耶たち女子も手拍子を打ちながら、英語のフレーズをノートに書き留めていく。
退屈な座学が、一つのセッションに変わる。
学校の教師たちが教える教科書上の言葉ではなく、血の通ったリズムを持った言葉として、英語の構文が彼らの脳へと直接刻み込まれていく。
(……これでいい。音楽の基盤だけでなく、環境の基盤も俺が設計する)
ストーブの熱気と、不揃いな英語の歌声が響く旧校舎で、俺は静かにギターの弦を弾いた。
数年後、大人の干渉を完全に排除した理想の環境で俺たちの音を解き放つための、長く地道な、しかし確実な調整が始まっていた。




