第034話:愛と管楽器の企み
九月。
二学期の始業式を迎えた山口市立第一中学校の体育館は、相変わらず行儀の良い、退屈な空気に包まれていた。
福岡・イムズホールでのあの大立ち回りから一週間。
俺たちは失格処分という形でステージを下ろされたが、学校の大人たちはその事実を誰も知らない。
引率だった川村敬子先生が、運営側からの抗議や小言をすべて一人で引き受け、学校や俺の親父には「規定違反で入賞は逃しましたが、真面目にやっていましたよ」と、適当に報告を丸めてくれたからだ。
後日、保健室へ挨拶に行った際、彼女は俺たちに向かって「貸し、一つだからね」とだけ言い捨てた。
彼女なりの、この窮屈な世界に対するささやかな反逆なのだろう。
だが、大人たちの耳と目は塞げても、電波に乗った「熱」までは隠しきれなかった。
FM福岡を通じて九州・山口に生中継されていたエリア大会。
俺たちの放った爆音のバックビートと薫のシャウト、そして直後の放送事故による混乱は、あの日曜の午後にラジオへ耳を張り付かせていた一部の生徒たちに、強烈な波紋を広げていた。
「おい……聴いたぞ、福岡のラジオの生放送」
廊下ですれ違いざま、他クラスの男子生徒が、周囲の教師を気にするように声を潜めて薫や勝に話しかけてくる。
「たまたま録音してた奴がいてよ。ダビングしたMD、何回も聴き直した。後日の公式ダイジェストじゃお前らのとこだけ綺麗にカットされてたけど、生放送の方じゃあの爆音、バッチリ電波に乗ってたぜ。お前ら、マジでヤバいな……。あんな音、どうやって出したんだよ」
彼らの目は、怯えと、未知の刺激に対する熱烈な興奮に満ちていた。
特に、日頃から「お行儀の良い音楽」に触れている音楽部の連中にとって、俺たちの演奏は、自分たちの常識を根底から揺さぶる劇薬として響いたらしい。
俺たちの周りには、確実に見えない「信者」が増殖し始めていた。
*
九月中旬。
俺たちは秋の文化祭へ向けて、生徒会へ有志発表の書類を提出した。
一中は一学年三クラスしかない、市街地の小規模校だ。
文化祭の出し物も慢性的な参加者不足であり、俺たちが書類の演目欄に「軽音同好会として、おとなしいバラード曲を演奏します」と記入して申請すると、生徒会も担当教師もろくに審査することなく、あっさりと許可のハンコを押した。
彼らは紙の上に書かれた『おとなしい』という文字だけで完全に思考を停止させ、俺たちがその裏でどんな劇薬を仕込んでいるかなど疑いもしない。
そんなある日の放課後。
俺が一人で旧校舎の備品倉庫に残り、エフェクターの配線をいじっていると、不意に錆び付いた鉄の扉が開いた。
「……アキラくん。今、いいかな」
ひょっこりと顔を出したのは、智ちゃんの友人である麻耶だった。
提灯まつりの夜、俺のキーボードから目が離せなくなったと、熱っぽい視線を送ってきた彼女だ。
彼女は周囲を気にするように倉庫に入ってくると、少し頬を染め、上目遣いに俺を見た。
「あのね。文化祭のステージさ、私たち音楽部と一緒に何か演奏できないかな? もちろん、先生たちに怒られないような曲で」
彼女の目には、あの熱狂の輪の中に自分も入りたいという音楽への渇望と、俺に対する明確な好意が入り混じっていた。
「……面白いですね」
俺はハンダごてを置き、頷いた。
四人だけのバンド演奏で大人たちを騙すのも悪くないが、学校の中枢である音楽部やブラスバンドを巻き込んでしまえば、それは立派な「オーケストレーション」になる。
大人の目には「学校全体を巻き込んだ感動的な大合唱」に映るだろうが、俺の采配次第で、それは極めて質の高いロックのアンセムに化ける。
「外の空気を入れるのは悪くない。でも、俺の一存では決められませんね。彼らは一応、このバンドの『先輩』ですから」
俺がそう言ったタイミングで、後ろの鉄扉が再び開き、薫、勝、博士、 Bradley、そして智ちゃんがドヤドヤと入ってきた。
「よおアキラ、待たせ……って、おっ?」
薫が、狭い倉庫にいる麻耶の姿を見て目を丸くする。
勝も博士も、可愛い女子の突然の訪問に明らかに動揺し、柄にもなくソワソワし始めた。
「ちょうど良かった。先輩方、可愛い女の子からのご指名ですよ。文化祭で、音楽部と合同で演奏したいそうです」
俺が手慣れた操縦術で、わざと彼らを持ち上げるように話を振ると、三人は顔を見合わせ、みるみるうちに鼻の下を伸ばした。
「お、おう! ま、まあ……可愛い子の頼みなら、俺たち先輩が無下に断るわけにもいかねえよな!」
「だな! ブラスバンドのアレンジ? 俺たちに任せとけって!」
中学生の男子なんて、チョロいものだ。
彼らがデレデレしながら即決で了承したのを確認し、俺はカバンから白紙の五線譜を取り出した。
頭の中にある膨大なアーカイブの中から、管楽器と合唱の分厚い壁が、単純なメッセージを世界に叩きつけるあの曲のスコアを書き出していく。
白紙の五線譜の上に、ボーカル、ギター、ベース、さらにはトランペットやトロンボーンの管楽器のフレーズまでを、各パートごとに一度も手を止めることなく一気に書き殴っていく。
構成に迷うそぶりも、修正の跡すら一切ない。
まるで頭の中に完成されたオーケストラの設計図があり、それをただ紙に写し取っている(トレースしている)だけのような、人間離れした速度だ。
その異常な執筆光景を目の当たりにして、鼻の下を伸ばしていた薫たちの顔が引き攣り、麻耶は息を呑んで硬直していた。
「……おいアキラ。お前、今その場で頭ん中で全部の楽器の音、鳴らして書いてんのかよ……」
勝が呆れを通り越して呻くように言うが、俺は表情一つ変えずにペンを置いた。
「曲はこれにしましょう。ブラスの子たちには、このコード進行とフレーズを渡してください」
俺が書き上げた楽譜を無造作に差し出すと、麻耶は恐る恐るそれを受け取り、やがて音符の並びを追ってパッと顔を輝かせた。
「『All You Need Is Love』……? 英語の歌なの?」
「ええ。合唱部のみんなには、この英語の響きのまま、声を張り上げて歌ってもらいます。意味なんてどうでもいい。ただ、このリズムに合わせて『愛(Love)』という言葉を連呼するだけでいいんです」
「わかった! 私、みんなを集めて練習してみる。……先輩たち、アキラくん、ありがとう!」
麻耶は楽譜を大切そうに胸に抱き、俺に少しだけ距離を詰めて微笑んでから、小走りで倉庫を出ていった。
その直後。
あからさまに不機嫌な足音が響き、智ちゃんがパイプ椅子にドカッと座った。
彼女は一部始終を見ていて、ひどくご機嫌斜めだった。
「……なんで私を通さないで、直接アキラくんのところに来るのよ。薫くん達も、鼻の下伸ばしちゃって。みっともない」
智ちゃんはプイッとそっぽを向き、唇を尖らせた。
俺に対するヤキモチと、まんまと乗せられた野郎どもへの呆れが混ざっているのだろう。
薫たちは「い、いや、別に伸ばしてねえよ!」と慌てて弁解している。
「まあ、彼女もやる気になってくれているみたいですから。智ちゃんも、ベースの特訓頼みますよ」
「……わかってるもん」
不貞腐れながらもベースのケースを開ける彼女の様子を、俺は苦笑交じりに見守った。
――数日後から、旧校舎の空き教室には、ブラス用のトランペットやトロンボーンを持った生徒たちが集まるようになった。
「違う、そこはもっと後ろに引いて。管楽器はメロディを追うんじゃない、リズムの『壁』を作れ」
俺は古いエレクトーンで全体のピッチを統制しながら、冷徹に指示を飛ばした。
七拍子が混ざる変則的なビートと、慣れない英語のシャウト。
最初は戸惑っていた音楽部の生徒たちだったが、薫のボーカルと勝のギターがそこに重なると、彼女たちの表情に奇妙な高揚感が広がり始めた。
誰かに押し付けられた「調和」ではなく、自分たちの声と息で、一つの巨大な熱の塊を作り上げているという肉体的な快感。
静かな旧校舎に、不揃いだが圧倒的な熱量を持ったブラスとコーラスが響き渡る。
文化祭という退屈な行事を、俺たちだけの「革命の祝祭」に塗り替えるための準備は、完璧な形で進んでいた。




